ひと日記

お気に入りのモノ・ヒト・コト・場所について超マイペースで綴ります。

Blue blazer & Tartan tie

2010-06-03 04:00:00 | 白井さん


 毎週土曜の午後は白井さんを中心に服飾談義に花が咲く信濃屋馬車道店紳士フロアだがこの日はいつもとは少し様子が違っていた。

 この日を遡ること数日前、白井さんのお誘いで“美味しいステーキを食べに行こう!”という企画が持ち上がり、この日の帰りにそれが実行される運びとなっていたのだ。この日は低く垂れ込めた曇り空から時折小雨がぱらつくというあいにくの空模様だったが、そんなことは“肉”の前では些細なこと、とばかりにお肉大好き白井さんは心なしかテンション高め(笑)。肉好きでは白井さんに負けず劣らずの私も“空腹は最良のソース”との格言に従いその日の昼食を抜き準備は万端。ご一緒する皆様を待つ間は、白井さんも私も両手には目に見えないナイフとフォークが握られており心既にここにあらずという体で、この日はそんな心境を反映してか着こなしについてのお話は早々に終了し(笑)、白井さん行きつけのお店(飲食店)の話題で盛り上がってしまった(汗)。つまり“いつもと様子が違った”というのはそういう理由によるのだ。

 白井さんは“この店に行ったら、これを食べる”とお決めになっているそうだ。南京街(中華街)の支那そば、肉そば、シューマイがうまい其々の店、関内の鰻屋さんで食べる親子丼、磯子の天ぷら屋さん、本牧の四角いピザの店などなど、いずれも横浜の人々から長く愛されている店ばかりだ。この日向った先も白井さんが長年通われているお店。本牧の外れ、間門にあるステーキハウス『ジャックス』さんだ。

  

 間門まではバス移動。横浜の街をバスで移動したのは初めての経験だ。諸事不案内な私に白井さんが『本当はココからが“関内”なんだよ。』とか『ここの最中が有名なんだ。』とか『この先が三渓園ね。』と色々教えてくださった。その中に『この辺に在った“早川”ってクリーニング屋が腕が良くてね。』というお話があったのだが、これは以前、信濃屋さんのスタッフY木さんが私に“機会があれば是非白井さんに伺ったほうがいい”と耳打ちしてくれた話題でもあり、私は“すわ千載一遇のチャンス”と気色ばんだが如何せん車中故詳しくお伺いするまでには及ばなかった。この次の機会を待ちたいと思う。

 本牧を訪れるのは生まれて初めてだった。そして本牧は白井さんが生まれ育った街である。馬車道から約20分程度の小さなバスの旅。元町からはどこの町にもよくある商店街がバス通りの左右に並んでいて、それが随分長く感じられたのだが、ある交差点に差し掛かった時に、

 『ここまでが日本人が住んでた所。ここから先が進駐軍のベイスだった所だよ。』

 と、白井さんが説明してくださった瞬間、街並みが一変した。それまで続いていた古き良き日本の商店街とはまるで異なる、広やかな道路と両脇に整然と並んだ街路樹、原色に彩られたネオンサイン、色鮮やかでポップな看板、巨大なショッピングセンター、まるで映画で観た西海岸のような風景が車窓から私の目に飛び込んできたのだ。

 『本牧は、太平洋戦争敗戦直後に本牧十二天を含む中央部が米軍に接収され、住民達は退去させられフェンスで囲まれた。フェンス内はアメリカ海軍の住宅街『ベイサイド・コート』(米軍住宅)などの施設となり、アメリカ村などともいわれ、日本におけるジャズなどのアメリカ文化の発信地でもあった。当地域は1982年に返還され高級住宅地、公団住宅、ショッピングセンター(マイカル本牧)、公園などになった。マイカル本牧は1991年に映画館やホテル(現在は廃業)を備えた大ショッピングセンターとして開業したが、鉄道が無いことが災いし、現在では客足が遠のき縮小を余儀なくされている。』

 上記はウィキペディアからの抜粋で、私が持っていた本牧についてのイメージも概ね似ていた。“マイカルはゴーストタウンと化している”などの悪評も聞いたことがあったのだが、この日、その印象は良い意味で裏切られた。その街は私には決してゴーストタウンとは思えず、それどころか、人の生活もちゃんと感じられたし、何より、近年この国の何処に行っても観られる画一化された安手の街並みとは一線を画し、それらとは無関係な独自の進化を遂げたような街並みが、私の目には極めて好印象として写った。あれは黄昏時のマジックが私にそう見せたのだろうか、ちょっと現実離れした街にいきなり迷い込んだような実に不思議な体験でもあった。

  

 予約していた19時丁度にお店に到着したが、驚くべきことに『ジャックス』のご主人はお店の前で我々を待ってくれていた。私が事前に“白井”さんの名前で予約を入れていたのだが、その名でもしや!?と思われていたようで、白井さんの顔を見るなり満面の笑顔で右手を差し出し、お二人はガッチリと力強い握手を交わし久々の再会を喜んでおられた。

 入った瞬間、“これは良いお店だぁ~”と直感した。ただ、ここまで引っ張ってきて今更こんなことを書くのは恐縮だが、ここは飲食店についてとやかく述べるページではないので詳細は省かせていただく。一言だけ言わせてもらえば、さすが白井さん、さすが石原裕次郎、そしてさすがご主人、“男の肉食ここにあり!”である。

 ステーキをがっつり楽しんだ後、ご主人が我々のテーブルを訪れて四方山話を聞かせてくださった。ご主人はなかなかの話術をお持ちの方で、殊更ご自身を飾ることもなく、丁寧に選ばれた言葉が独特の抑揚とリズムを伴い、それらが実に耳に心地好く聞き手の心を和ませるのだ。長年、高いレヴェルで接客業をされてきた方は其々が独自の、磨き込まれたキャラクターをお持ちである。

 

 『そうそう、今日は5月29日なんですね・・・。もう最近では新聞にも載らなくなってきましたね・・・。』

 ご主人がふと遠くを見る目をしながら呟かれた。この日=5月29日は、昭和20年に横浜が大空襲にあった日なのだ。自然、ご主人のお話は往時を偲ぶものとなった。以下オムニバスで。

 『あの日は郊外にいたんですが、私の頭上すれすれをB29が飛んでいきました。私は急いで駆けて自宅に戻るんですが、その途中で爆弾が投下されているのや街が燃えているのが見えるんです。昼の空襲でしたから東京みたいに死者は多くはなかったんですが、黄金町の辺りは酷かったんです。省線の乗客が強制的に降ろされたらしいのですが、皆地元の人間ではないですから地理が分からないでしょう、ですから逃げ惑っている内に皆空襲でやられてしまったみたいです。川に死体がいっぱい浮かんでいました。』

 『東京大空襲の時も火の手が横浜からも見えました。あの頃は間に高い建物なんて何も無かったですから。』

 『8月15日は私の招集日だったんです。でも結局戦争が終わりましたから戦地に行かずに済んだんです。ですから私の年齢で丁度別れるんですよ。上の人たちは皆戦地に向いましたから。』

 『進駐軍の米兵達は最初“レイション”という携行食糧を持たされているんですけど、あちこちに食堂ができ始めるとそれはもう要らなくなる。そうすると列車から外に向って捨てたりするんですよ。それを皆で拾いに行ったりしてましたよ。中を開けると珈琲の粉、今で言うインスタントコーヒーですよね、それが銀紙の蓋を開けると入っているんですよね。そんなもの見たことないですから、ナンだろうな~って、珈琲なんですよね。びっくりしました。それから砂糖、粉ミルク、チョコシロップ、ガム、あと煙草は朝は何本、夜は・・・そう10本だったかな、レイションは朝、昼、晩と分かれてましたから、そういうふうになってましたね。』

 『昔の南京街は危ない所でしたから。戦場帰りの荒くれ者がたくさんいたりして、酔っ払いやらね~お金払わない奴なんか追っかけたりして、もう命懸けでした。』

 私の記憶が曖昧で不正確な記述があるかもしれないが、昭和2年生まれのご主人の記憶はまことに鮮明でまるでつい最近の出来事でも語るかのような見事な語り口だった。白井さんもアイケルバーガー中将の思い出のお話をされ、それを受けてご主人が『ジェノーですね。』と仰る。“ジェノー”とは“ジェネラル”つまり将軍のことだ。『ね!発音が違うでしょ!』と白井さんもびっくり。白井さんもこの日はハマの先輩に敬意を表し、時々ご自身の思い出話もご披露しつつ、でも聞き役に徹しておられた。私のような若輩にとっては何だか狐につままれたような夢のような、でも普通ではちょっと得難い貴重な経験ができた一夜だった。