皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

沼尻神明社と御高盛り

2018-05-08 21:50:33 | 神社と歴史 忍領行田

行田市沼尻地区は忍川の左岸に位置し、持田、皿尾と隣り合う区域で中里の東になる。地名の由来は条里制の遺構にあるとされ、中里も同じ由来であり条里制水田遺構が埋没している。創建年代は不明だが正徳三年(1714)再興の記録が見られるようだ。明治期に中里村鎮守八幡神社への合祀が見られたが、当時から通学区が持田地区だったため、合祀を免れた。皿尾、中里と隣接しながら村づきあいは持田と深く、剣神社の氏子とかぶっていたらしい。中里の本村から離れていたためだ。

ご祭神は大日女貴(オオヒルメムチノノミコト)即ち天照大御神。古くより境内に大木があり、また拝殿には扉がなく子供の遊び場となっていたが、汚されるという意見から扉を設けると、氏子に病が多く出て不幸が続き、『お鎮守様は子供が好き』ということで扉は外されたと伝わる。

こうした村の不幸や災いが神社の信仰と結びつく話は非常に多い。特に明治期の合祀政策に対し、村の災いから合祀を避けたとする記述は埼玉の神社に多く見られ、とても興味深い。本当に不幸があったのか、村の鎮守を守る口実か定かではないが、鎮守様をとられてはかなわぬといった意識が垣間見えるようだ。寛政期の賽神も残る。
 五穀豊穣を祈願する『お高盛り』という行事が残っているそうだ。神社での祭典後、拝殿で御神酒を頂き、白米を手に取って食べる。その後宿に移り「神明宮」の掛け軸をかけて座り各人の前に御馳走を並べ、膳を掛け軸前にも供える。一同がまず普通の椀で白米を食べ、酒を五合飲み、「十分です」というと、総代が『ではお高盛りを始めます』と宣言し、黒塗りの椀に5合のご飯を山盛りにして各人に差し出す。これを一粒残らず平らげないとその家はその年豊作に恵まれないという。かつては年に三回の行事だったという。
 現在この行事が続けられているのか非常に興味がある。大正期までは長雨が続くと「日和揚げ」と称して晴れを祈って忍川に男衆が飛び込み、体を清めて神社で祈祷したという。
 わずか二十軒足らずの氏子戸数にも関わらず、こうした行事を行いながら地域の繁栄を願いつつまとまっていたことがよくわかる。
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