皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

幸手市 熊野神社

2020-04-13 15:43:04 | 神社と歴史

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 桜の名所と知られる幸手市権現堂。その地目の由来は、「村内に熊野、若宮、白山の権現を合祀した旧社あれば此村名起れりと云」と風土記稿に記載がある。創建は天正年間(1573-92)の頃である。

この地に甚大な被害をもたらした淳和二年(1802)の大水により村内の歴史を伝える記録がことごとく流出してしまったため、創建時の祭祀状況は不明であるが、大規模な社であったことは風土記稿にも伝わり、「熊野若宮白山大権現、村の鎮守也、この社古大社にて、村名の起こりと云も権現三社也」とある。文政八年(1825)に社殿が再興され、翌年に熊野三神(素戔嗚、伊邪那岐、伊邪那美)を表す神像が奉納されている。

熊野三神は神仏習合により熊野三社権現とも呼び、それぞれ阿弥陀如来、薬師如来、千手観音とも考えられてきた。鎌倉以降になると熊野御師、熊野比丘尼といった人々が熊野信仰を全国に伝えていくようになる。御師は熊野詣でをする人々を世話する世話人、比丘尼は出家した女性(尼さん)のことを云う。こうした人々が後に修験者となり全国に熊野信仰を広げていったとされ、その中心となったのが時宗の祖とされる一遍聖人で、本宮に参拝した際宣託を受けて極楽往生を約束する念仏札を配るようになったという。根本的な信仰はまさに極楽往生、即ち来世利益を願うこと。それだけ現世に対する不安や苦しみが多かった現れである。昨今の社会的状況も重なるように感じてしまう。

権現堂村は一説に北条家家臣巻島清十郎が小田原落城後に当地に移住して開いた村だとも伝わる。その当時は僅か七軒の小所帯であったという。

その後文禄三年(1594)利根川支流として権現堂川が開かれ慶長四年(1599)に河岸場が開かれると水利を活かして村は大いに発展し、化政期(1804-30)には約六〇軒、明治初頭には一三〇軒へと増加した。江戸期に権現堂川の水利を活かし江戸と往来するものも多かったという。氏子の中には江戸で成功するものもあり、そうした人々は江戸講中を結成して参詣するものもあり、講社から奉納された狛犬や燈篭が残っている。

令和二年の桜まつりは中止となったが幸手権現堂桜堤には、桜の開花期間中多くの人が訪れていた。喧騒から一区画離れた瀬戸の地に熊野神社は静かに建っている。

 

 


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