イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

「殯の森」

2009-07-21 | 第八章「魂と聖霊」

 観たいと思いつつ、観るチャンスがなかった、 「殯の森」(もがりのもり)を先日DVDで観ることができた。

 詳細は観ての楽しみで、あまり触れたくないが、舞台はグループホームで、認知症の妻に先立たれた男性と、子供を亡くした若い女性の介護士が、死を受容していく、あるいは昇華していく美しい映像の映画である。

 私も、個人的に約1年、グループホームではないが、認知症の方と介護士として関わった経験があり、他人事では無く感情移入して見てしまった。

 映画の中では、深い森の中で、認知症の老人と介護士が豪雨に遭遇し、夜をとおし焚き火で暖をとる場面がある。不思議な炎の光がとても印象的だった。

 思えば、日本神話の中で、イザナミに先立たれたイザナキが、火の神、カグツチを切り殺す場面がある。そして、そこからさまざまな神が生まれたりする。その後イザナミを追い、黄泉の国に行き、漆黒の暗闇で櫛を使って火をともし、惨めなイザナミを見る。

 そんな、場面を想像したりした。

 日本人の喪失感、罪悪感というか、深い悲しみは、ゆっくりした時間の流れと豊な森という自然で癒されるようである。

 ただ、私は日本人の中では、少数派のカトリック信徒である。自分にも様々な罪の意識など暗い思い出はあるが、カトリックの十字架の思想で、本当に不思議にも深い安心感でつつみこまれた経験がある。その経験ゆえに、カトリック信徒でもあるが。

 まあ・・・いろいろ考えさせられた映画であった。

 写真は日曜日の夕方、大きな虹が出た時、不思議な夕焼けの色に包まれた。空やベランダの光景である。

<総括 1/1>

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魂を信じる?

2009-07-19 | 第八章「魂と聖霊」

 日本人は特定の宗教に所属する方は少ないが、死んでから何らかの形で魂が存在すると考える人が大半だという(読売新聞の調査などで)。

 そういえば、夏休みに入り、まもなくお盆の季節になるが、帰省をしお墓参りをする習慣も、この魂に関わる話である。お盆に祖先の魂が戻ってくるという思想は、かなり古く、仏教等の宗教が日本に到来する以前からあったという説も有力なようである。

 人が死に、その魂が身体を離れるが、時にこの世に戻ってくる。祈りにより、その魂も浄化され時とともに優しい祖霊となっていく。そんな思想があるようだ。

 魂とは何だろうか?自分は何なのだろう?こうした疑問は小学校低学年のころ、私にふつふつと湧いた。昼食の時間に、そんなもの想いに浸っていると、担任の先生から、静にしていると変に褒められた経験がある。

 しかし、就職してからは、忙しいこともあり、魂のことなど考えたこともなかった。それが、40歳台後半から心境の変化もあり、特にU先生に出会ってからは魂のことを深く考えるようになった。

 最近では、カトリック神学者(ジーン・ドージャ)の思想の影響もあり、次のU先生の仮説にほれている。「魂(純霊)は愛そのものであり、老いることもなく、病むこともなく、人間の死とともに身体から離れる知的生命体」。

 実際に、役立つ心理学の勉強として、自分の中に、この愛そのものの魂があると信じてみる。ちょっと違和感(自分はしょっちゅう間違いをするし、罪深い存在でもあると思っているので)があるが、自分にも愛そのものの魂が、自分の心の奥の奥にあると考えてみる。

 自分には身体(50台後半、日本人、男性・・・)もあるし、成育史からなる特別な心もある。いくら愛そのものの魂が心の奥の奥にあるとしても、実際今の自分の感情・思考・行動にはストレートにその兆候がでているとは限らない。しかし、何らかの愛の投影・兆候があるのだろう。・・・そんな風に考える。

 自分の魂と同様に、日々出会う人たちにも愛そのものの魂が存在していると信じてみる。

 この5-6年福祉、介護、教育の仕事やボランティアの経験もしてきたが、この愛そのものの魂を信じることで、豊かな経験をさせていただいたことがあった。感謝である。

 さらに、信じる力をつけることで、もっと素晴らしい世界が開けるかもしれない。

<旅は道連れ 8/8>

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信じることで見える世界!

2009-07-18 | 第八章「魂と聖霊」

 16世紀にヨーロッパから、ローマン・カトリックを中心とする宣教者が沢山来た。その時、バチカンに送った報告書などは、当時の幅広い日本人の在りよう(私の祖父母も、きっと生きていた)を知る貴重な資料である。

 1557年のある報告の中に、「たいていの日本人は、太陽と月を生きてるとみなし、存在しているもっとも高貴なカミとみなしている。・・・」(イエズス会宣教師が見た日本の神々 ゲオルク・シュールハンマー著 青土社 134P)

 太陽や月に神妙に手を合わせる、祖父母たちを想う。

 私の勉強している、生き甲斐の心理学の中の勉強の一つは、信じて見えるもの(例えば愛を信じてなど)、信じて見えなくなるもの、の研究がある。信じる体系や哲学そのものは研究対象ではなく、それを前提に、信じるということで起きる心理現象を研究する。

 祖父母たちは、当時何を見たのだろう。今、私達が見えなくなった何かが見えたかもしれない。

 因みに、卵は日本書紀のはじめの世界の始まりの記述にも出てくるが、中国の盤古神話にも出てくる。当時の祖父母にとっても特別な意味があったかもしれない。

<旅は道連れ 7/8>

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赤ちゃんの世話をしつつ・・・

2009-07-17 | 第八章「魂と聖霊」

 昨日は、仕事が休みということもあり、また家に来ていた長女の外出もあり、初孫の世話を半日していた。

 天使のような赤ちゃんの寝顔を見ていると、実に幸せになる。そんな時に、最近話題となっている、電力セービングのスマートグリッド関連の論文をたまたまインターネットで見つけて読んでいた。

 最近はDNAの研究で格段の進歩を見せている、古代の人類の軌跡や神話を中心とした比較宗教学の分野に興味をもっていたが、将来の技術動向や環境問題については殆ど考えていなかった。

 21世紀の中ごろ、自分の孫たちが50歳台になるころ、どのように世界が変わっているのだろうか。そんなことを考えた。

 縄文時代は、日本では食物や環境の制限から、人口は厳しい縄文時代後期は8万人程度だったという数字もある。それが今では1億2千600万人(2006年のピーク時)となっている。

 これも、食糧需給や様々な環境の成果とみることもできるようである。世界人口も現在67億人。国連人口部の予想では2050年には91億人となる。

 必要な環境。エネルギー。食糧。本当に難問が蓄積されているようだ。

 不安は、過去の不安。現在の不安。将来の不安に大別される。不安は生きる上での本質的なもののようである。

 将来に対する不安。子孫たちの未来への不安。考えてみれば、いろいろあるかもしれない。

 しかし、この将来に対する不安を糧にエンジニアは研究開発に励み、政治家は新しい政策を立案し、宗教家や哲学者はその意味を深く考え、一般市民は身近な環境改善活動の糧にする。それが健全な在りようだと思う。

 ひとりひとり、その悩み方と感情・思考・行動は変わってくるだろう。

 自分にとって、ポジティブな方向に向かっての感情・思考・行動は何なのだろう?

 赤ちゃんの寝顔は可愛い。

<旅は道連れ 6/8>

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大切なパートナー!

2009-07-15 | 第八章「魂と聖霊」

 古事記で、好きなところを3つ選べと言われれば、イザナキとイザナミの国産みから、死の起源の話。オオクニヌシの根の国訪問。そして、山幸彦のトヨタマヒメの出産までの話を選びたい。

 この3つの話は、生と死、罪と罰(穢れと禊)、男女の仲を日本人として深く考える上で貴重な示唆を与えてくれる。

 その中の一つのオオクニヌシの話は、スサノウの妹でもあり、オオクニヌシの妻になるスセリヒメがでてくる。

 黄泉の国で、スサノウの嫌がらせそのものの無理難題を、スセリヒメの助けによって次々解決していく、そのテンポがとても心地よい。

 実際に、自分が窮地に陥った時に妻に助けられた記憶と繋がり、一人では解決できない問題でも、パートナーがいれば心強いものだとあらためて実感する。

 何かの問題に対峙して、協力して取り組む。お互いの成長という意味でも、本当に素晴らしい。

 深層心理学では自分以外の他人は驚きの対象といわれる。確かにそうかもしれないが、それでもパートナーとして苦楽を共にしながら感じる幸せは確実にあると思う。

<旅は道連れ 5/8>

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