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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

幸福追求で忘れてはいけない二つの側面!(みんなの性格形成論 2/10)

2012-07-15 | 第三章「無意識の世界」

 幸福をどう追及するのかという点で、50歳になってはじめて目からうろこで理解したことがある。それは、「生き甲斐の心理学」の勉強会でU先生から学んだ幸福の条件と幸福感の話である。

 幸福追求というと、自分なりの条件とか目標を思い描くようだ。年収2000万円の生活とか、世界の10指に数えられる大学を卒業するとか。素敵な男性と結婚するとか。大企業の社長や役員になるとか。偉大な野球選手になるとか。総理大臣になるとか。ノーベル賞をとるとか。僧侶や神父や牧師になり大僧都や枢機卿になるとか。毎日3時間は本を読むとか。国際正義のために貢献するとか。原発を日本から無くすとか。生き甲斐の心理学を世に知らしむとか。子供を3人産んで愛しみ成人させるとか。・・・

 そして、こころの底から、そうした追及をしていると、意外に夢は現実化するものでもある。ただ、それを条件を達成すれば至福の幸福感が得られるかというとどうだろう。幸せだと感じることもあるが、逆に空しくなることも(五月病?)。

 生き甲斐の心理学を勉強して、眼が開かれたのは、幸福感ということであった。先の幸福追求の仕方は具体的な目標とプロセスを伴うが、幸福感やそれに似た明るい感情は日々の生活の中でふっと湧き起こるだけである。幸福な感情は、いろいろある。美しい花やおいしい食事で平安感を味わったり、友や配偶者との会話から友好的感情得たりする。太極拳で汗を流した時の爽快な健康感。そして憂鬱な問題から解放された時の涙が出るような幸福感。さらに、サマリアの女を彷彿する統御感まで。

 さて、昨日「一房の葡萄」を取り上げたが、これは幸福感の話と考えることもできる。絵具を手に入れたい激しい情動(その思いは手段は間違っていたかもしれないが、本来美しい思いだった)で、絵具を盗んでしまう。そして、それが見つかったために、自分のしたことに対する過度の嫌悪や錯乱感。

 事件の次の日には、学校に行くことが憂鬱であったが、先生の言葉を思い出し登校する。ところが、登校すると先生の活躍で思いがけない展開があり、憂鬱が幸福感に転化する。憂鬱感が幸福感を得るための土壌であったのだ。美しい一房の葡萄に象徴される、真善美の追及、あるいは自他肯定の追及。その意味が何となく判る。

 これは小説の話であるが、自分の人生の中でも同じようなことがあった。

 写真は野に咲くヒメジョオン。雑草の典型で好む人は少ない(私もそうだったが)。ただ、昨日、上から見ていたら夜空の星のようで何ともいえない美しさを感じた。日々幸福感を味わうことも可能なのも、特徴のようだ。

 みんなの性格形成論 2/10

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