イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

師がいること、いないこと!(古層の愛⑦)

2010-07-14 | 第九章「愛」
 古層の愛を書き続けているが、自分の問題を自問自答で深めていくことは意外と難しい。時どき、ふと誰かに相談したいと思うことも。ただ、いにしえから、回答は自分の中にあるというのが本当だ。援助(例えば傾聴)を得ることは大切であっても、全面的に依頼するのはできない相談なのだろう(特に重要な問題は)。

 今読んでいる、14世紀の神学者、マイスター・エックハルトは次のようにつぶやく。

 【人々はよくわたしに向かって、「どうぞ、わたしのためにとりなし祈ってください」という。そのときわたしは、「なぜあなたがたは外に向かってもとめていくのか。なぜ、あなたがたは自分自身の内にとどまって、あなたがた自身の宝をつかまえないのか。あなたがたは全ての真理をあなたがたの内に本質的にもっているではないか」と心の内でつぶやくのである。】
 (エックハルト説教集 岩波文庫 但馬照久編訳 42ページ)

 回答は本人の中に・・・でも、実力不足でなかなか埒が明かない。こころの仕組みもあり、すぐそばに回答があっても観えないこともある。

 さて、今現在はそんな状態である。ただ、悪い状態ではない。むしろ幸せすら感じている(本当に)。それは、自分には師がいるからだと思う。現代は、昔とくらべ、師の意味がよくわからなくなっている時代だ。何か、サービスチケットを買えば、それなりのサービスが受けられるような幻想がはびこる社会。あるいは、全てが簡単に定義され、物判りのよい社会。なにか師の代替えができたような時代である。でも、師は今でもとても大事である。

 臨床心理とか、生き甲斐の心理学を学ぶのは、単なる知識を得るというより、芸を学ぶのに似ているかもしれない。よく「受容」とか、心理学特有の言葉がでてくるが、表現は簡単でも、その意味は遥かに深い。「純粋と一致」なども、10年勉強しても、まだまだ判らない。そういう世界なのだろう。

 師がいることは素晴らしいことである。自分の人生の中で、自分の師(育ての親以外)が存在していた時期は、ストレスがあっても幸せだ。その反対に、はっきりしない時は不幸な時期である。

古層の愛⑦(見えないものを観る、聞こえないものを聴く 57/60)

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