運動不足解消と趣味を兼ねて、この2週間遺跡巡りをよくした。東京都教育委員会の遺跡地図(Web)で調べると、家の周りは縄文時代などの遺跡だらけ。もちろん多くの遺跡は埋め戻されたり、建物が建ってしまったり、公園として保存されたりといろいろだが基本的な地形は変わらない。遺跡に関する本を読んだり資料を読んだりし、現地を散策する。そして、そこで湧き起こる感情を楽しむ。これは至福の3楽(調べ、現地訪問し、妄想する)で3密を凌駕する。今日は、こうした散策をご紹介してみよう。そして、その中から<愛>や<死>を思索しつつ、これから自由にはばたく方法を考えて見たい。
①大塚遺跡(都心の大塚ではなく多摩の大塚)
大栗川西岸の大塚谷戸の奥の尾根上にある公園の側に位置するが、その頂き付近の公園から谷すじに降りていくと美しいアヤメが咲いていた。場所も狭く大規模な村ではないものの、縄文早期前葉の撚糸文土器(10000年くらい前?)の遺物まで出てきたそうだ。縄文早期の竪穴式住居跡が3軒発見されている他、縄文後期土器片がいくつか(加曽利B式など)でている。柱の穴・ピットが沢山あるのも気になる。高床式の倉庫でもあったのだろうか。そして、時代が下ると平安時代の9世紀前半の恐らく尼僧のお墓が発掘され、骨壺が発見された。この時代は最澄や空海の時代、あるいは東北で阿弖流為が名を挙げていた時代、近くの帝京大学の構内には坂上田村麻呂との戦いで敗れた東北の蝦夷(全国に俘囚として分散統治されたようだ)の生活の遺物も発見されていて、妄想は尽きない。
この一帯には他にも縄文時代の遺跡がいくつもあり、畑に土器片は落ちてないかなど下を思わず見てしまう。そして、畑の仕事をしている農家の方に声をかけたり。
②京王堀之内付近
多摩動物公園方面から中央大学の敷地沿いの里山を南に向かって越え、大栗川沿い(野猿街道沿い)の京王堀之内方面に向かうと、多摩ニュータウンNo.72遺跡のところに出てくる。6000年前から4000年くらい前まで主に栄えた地域拠点の村であり、その衛星村?が近くにいくつかあるが、長い時の流れの中で育まれた、人々の信仰は途絶えず今に伝わっているようだ。蓮正寺跡のお地蔵様、それから近くには祠などがいくつかあり、こころがホンワカする。
次は、多摩ニュータウンNo.446遺跡の近くにある道祖神であるが、信仰・宗教とは何かを考えさせられる。
縄文時代の石棒他、性に関するストレートな表現は、とかく変に誤解され易いと思うが(若かりしころの自分は飛鳥で驚いたり)、祖先がそれこそ何千年もかけて信仰した一つの表現であるので、無視はできない。また、足下の今の宗教や信仰の世界を熟慮すると実に腑に落ちるところがある。
今の時代の代表的な宗教であるキリスト教やユダヤ教の旧約聖書に登場する雅歌は、男女の愛を歌っている官能的とも言える歌だが、神と人との関係を象徴し、愛を語る上では外せない部分と高く評価されている。あるいは仏教(私はキリスト教徒で門外漢だが)でも理趣経などで深く思索され大切にされているとお聴きしたことがある。9世紀初めの空海と最澄の交流においても、理趣経は話題になったようだ。思考だけでなく感情を持った身体を持つ人間にとって、<愛>とは何かを考えるとき、祖先からのメッセージは決して無視できないと思う。蛇足だが、遺跡巡りの五感と体感を大切にする散策もこうした<愛>とどこかで繋がっているように思う。
③多摩市の稲荷塚古墳近辺
多摩川の支流・大栗川の中流域は多摩市となるが、その右岸(大塚谷戸は左岸)の北向き台地には和田西遺跡があり、そのすぐそばに稲荷塚古墳がある。この辺りは、以前お話した田端遺跡と府中の大国魂神社を結ぶ線上にほぼ位置し、丹沢の蛭ケ岳に冬至の太陽が落ちるのが見える場所だ。聖地の雰囲気が漂う。和田西遺跡は5300年前といった縄文前期の時代に112㎡といったウサギ小屋とはいえない大きな竪穴式住居が発見されたところだ。土器でいうと諸磯期でいろいろ変化が激しい時期のようで、大きな竪穴住居に何の為に人が集まり、何をしていたかとても気になる。残念ながら、遺物が殆どないようで謎は広がる。
さて、近くの稲荷塚古墳に寄った。この古墳はなんと八角墳であり、7世紀、8世紀ごろの皇親政治を行った天武・持統天皇の野口王稜古墳をはじめ、天智天皇、舒明天皇、斉明天皇、草壁皇子、文武天皇、といった蒼々たる皇族の御陵と同じ形式である。関東の相当の有力者の御陵であるように思われるがよく分かっていないようだ。
私はこの10年近く、縄文時代以外に持統天皇に大変興味を持ち続けている。稲荷塚古墳は縄文の旅をし続けている私に、持統天皇の強烈なイメージを思い出させてくれる場所の一つである。
そして、前回の愛の原型の思索の延長として、親の影響とこころの自由について考えた。
縄文時代の土器や土偶、住居跡などの遺構を考えると、考古学では時代を特定するために土器の文様をはじめ採取した地層等の関係から、いろいろ分類・研究されている。そして、その成果から、ある土器片の文様などからいつ頃のどの地域のものとかが分かる。C14などで正確に計測できる時代になっても、緻密な研究成果により年代や場所などがかなり正確にわかり、研究にやくだっている。
ところで、そうした研究が成り立つためには、人は例えば土器作成技術を他者(例えば母)から学び、それを基本的に踏襲しつつ自分のものとして次世代に伝授する。そうした、生命体で言えばDNAのようなものが文化継承の世界にもあることを当たり前としている。そして、研究者の論文などを拝読していると、例えばある時期の南関東で伝統に抗して新たな文様が広がるようなことがある。何と言おうか、例えば私は東京都八王子市の住人であるが、八王子は東京都とも関係は深いが、歴史を見ると神奈川県とか山梨県とも深い繋がりがある。そして、ある時期に山梨県八王子市といったようなアイデンティティが顔を出すことがあるようだ。それが、土器の世界で4500年前に起こったりしている。我々は両親の影響を大きく受ける、反発したりしても孫悟空が観音様の手の平の中で蠢いていたような感じである。しかし、手の平から飛び出す人も時々いるようだ。そして、それが新しい何かになる。
さて、持統天皇について考えて見る。父は天智天皇、母は蘇我氏の倉山田石川麻呂の娘。天智天皇は厳しい覇権争いの時代をくぐり抜けた冷徹な政治家でもある。そして、懐刀として中臣鎌足を重用した。持統天皇の人生を近親者を中心にプロットすると次のようになる。大化改新(乙巳の変の変)の年に誕生。4歳の時に祖父・石川麻呂が政変で亡くなる。7歳のころには母が亡くなる。12歳で天武天皇と結婚し、17歳で草壁皇子を産む。22歳の時に姉・太田皇女が亡くなり、天武天皇の正妻の地位に。26歳で天武天皇と一緒に吉野に逃れ、壬申の乱を戦う。41歳で夫の天武天皇亡くなる。44歳実子・草壁皇子亡くなる。52歳孫・文部天皇即位上皇に。57歳に持統天皇亡くなり天皇として初めて荼毘に付される。そして記紀には天武天皇とおしどり夫婦のように書かれていて、天武天皇の良き伴侶、従うもののように書かれているが、実際は天武天皇が亡くなると、父の天智天皇と同じように冷徹な政治家として政敵を排除し、やがて、天智天皇が重用した中臣鎌足の子・藤原不比等を懐刀として重用し政権を盤石にしていく。そこに私は父親の影響力を見てしまう。今にも影響を及ぼす律令制度の日本をつくった政治家の一翼として持統天皇の功績は大きいが、意外に父の影響から来たものかもしれない。
実際、私も時々おもうが、若い頃は同性の父に反発したりするが、巣立つといつのまにか父と同じような挙動を無意識にとっていたのかなと思う。父の思考・感情・行動のパターン・原型をいろいろ考えると、なかなかそれから逃れず不自由になっている部分があることに気づく。逆に、良い面を引き継ぎ自由に羽ばたけることもある。そんな二面を時々意識すると、これからの人生のなりゆきに希望を見いだせるように感じる。父だけでなく母も同じように意識すると良いかもしれない。不自由になっている面。さまざまな弱点を克服することで開ける世界があるようにも思う。運が良いことに今は年を取り時間が昔よりある。そして、弱点は時間をかければ克服できるように思う。
私が好きな縄文時代の人は何でも一人でやることが多かったと思う。例えば、食べたいものを探し、収穫したりし、楽しんで料理をして、親しい人と分かち合いながら食べる。こうしたことを今の人よりDo it yourselfでしたと思う。私も真似をして縄文小説出版では、さまざまな協力はいただいたもののDo it yourselfで手作りで電子出版までした。これは一例であるが、誰かに投げるのではなくDo it yourselfを志向することは結構いいものだ。他人を責めがちの人と、自分を責めがちの人が世の中にはいるが、時間をかけて何かを習得することはどちらのタイプでも良い結果をもたらすように思う。自分を責めるひとには自信を。他人を責める人には謙虚さを。
もう一つ、肉親の死について考えて見たい。持統天皇の天武天皇への挽歌の二つの短歌については前回お話した。長歌は何とも言えない吉野宮から見える神奈備型の青根ケ峯を歌ったように思えるのだが、次の歌である。
やすみしし 我が大君の 夕されば 見したまふらし 明け来れば 問ひたまふらし 神岳の 山の黄葉を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 見したまはまし その山を 振り放さけ見つつ 夕されば あやに悲しみ 明け来れば うらさび暮らし 荒たへの 衣の袖は 乾る時もなし(万葉集 2-159)
天武天皇が亡くなってから読んだ挽歌。長歌の最初の方では、神丘(青根ケ峯)の黄葉を天武天皇と一緒に不思議な時間感覚の中で愛でているようで、永遠の魂の存在を信じている女帝が想い浮かぶ。しかし、歌の後半では夫が肉体的には亡び、既に五感・体感でかつての夫をとらえることができない現実に泣き崩れる。そんな歌であり、人間の持つ肉体、心、魂の全体性の綻びを歌ったとも言えるようだ。
持統天皇の悲しみ。それは私にも、あるいは縄文時代の祖先の人々にも当てはまると思う。私もそうであったが、親しい肉親を失うと、日々の生活がどこか変わるように思う。例えば今までだったら生きていて、困ったときには逢え、そして助けてくれる人。そんな大切な人が亡くなると、当然ながら心は不安定になる。私の場合は、父が亡くなって欠落した部分を補ってくれたのは神仏であったのかなと思い当たる。これは、持統天皇でも縄文時代の人でも同じであろう。
縄文時代の楽しみ方 9/10
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