啄木の短歌は、イメージを喚起する力が強いのか、自分のこころの中の様々なスイッチをオンにするようである。
例えば、次の短歌は瞬間的に、人間の嫌な面を見せつけられるようで、嫌だ!を喚起させられた。さらに、何か自己否定・他者否定の不幸感スイッチを入れられるようでもあった。
気の変る
人に仕へてつくづくと
わが世がいやになりにけるかな
ただ、じっくり読みこんでいくと、自己否定・他者否定の状態を遥かな彼方から、見つめて受容しようとする目線も感じる。感情の意味を理解していくと、豊な自己肯定・他者肯定の思考・行動のきっかけになっていく。啄木の深層には何があったのだろうか。
次は、啄木の代表的な有名な詩である。悲惨ともいってよい、状態の中の詩でもある。
友がみな
われよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来(き)て妻(つま)としたしむ
6年前に長年勤めた会社をやめ、新たな別の道を歩み始めると、当然キャリアはオールリセットになる。幼いころからの生育史上で刷り込まれたというか、長年勤めてきた原動力となっていた何かを失うと、「確かに友がみなえらく見える」時も経験する。私の胸に響く詩である。
さて、この詩は、U先生の「生き甲斐の心理学」にでてくる、幸福の条件と幸福感の違いを表してくれる詩でもあるようだ。生育史上でいつの間にか生まれていた、幸福の条件(こころのハリのようなものか)。例えば、「人並みに仕事ができたらよい」が幸福の条件になっていたら、仕事が変わったりすると、「友がみなわれよりえらく見ゆる」になりがちである。それが幸福の条件の特性。幸福の条件、こころのハリは時に凶器となり、こころの健康を損ねたり、自殺に追い込まれたりする。ただ、幸福の条件は本人が自由に変えられる領域でもあり、本人の心の底にはそのあるべき回答が隠されていると思う。
その幸福の条件に対し、幸福感は日常の中で考え方一つで簡単に得られるものかもしれない。「花を買ひ来(き)て妻(つま)としたしむ 」。啄木の愛妻、節子さんを彷彿させる詩である。
蛇足であるが、私が、この詩とともに時々思い出すのは、コルベ神父がアウシュビッツで飢餓室に入れられた時、同室の人と一緒に讃美歌を歌ったことだ。幸福感はどんな時でも得られるものだと思う。
(一握の砂 4/16)
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