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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

日食が肉眼で見られた!

2009-07-23 | 第九章「愛」

 昨日の昼前、たまたま南武線の某駅前を通りがかったところ、沢山の人が空を見上げていた。見上げると、雲を通して日食がはっきり見えた。まるで三日月のようであった。

 小学生のころは、板ガラスの破片をロウソクでいぶらせて、それで日食を見た記憶があるが、こんな風に肉眼で日食を観察できるのかと、驚いてしまった。

 日食は不思議な現象である。古代の科学技術の知識を殆ど持ち合わせていなかった、祖父母たちには神秘的な現象と映ったに違いない。日本神話の天の岩屋戸の話なども、そんな不思議な体験がベースにあるに違いない。

 世の中には比較神話学という学問があることを最近知ったが、日本神話と中国神話や東南アジアの神話が似ているのは理解できても、ギリシャ神話などかなり離れた地域の神話との繋がりは理解しにくい。

 遠方からの移民の受け入れという考え方もあるが、最近のDNA研究等でほぼ世界の定説となってきた、現世人類の共通祖先がアフリカから出発したという説から考えると、全ての神話は例えば5万年前の原神話をベースにしていると考えられないこともない。

 私の愛読している、「5万年前」(ニコラス・ウェイド著)では、アフリカを出発する、祖先達の人数や言語、宗教など興味深い仮説が書かれており、驚いてしまう。そんなことで、こうした妄想を抱いてしまった。

 さて、日食は太陽を月の影で欠けたように見させる現象である。古代の祖父母たちは生活の恵の大本である太陽が消えてしまうという不安に襲われたに違いないが、太陽は決して無くならず、日食のときも普通に光り続けていたことを忘れてはならない。

 日々の暮らしの中で、身体や成育史からなる心は刻々と変化していく。感情の世界もどんどん変わっていく。しかし、太陽のように例えば神の愛は変わらず慈しみを与えてくれているのかもしれない。

 この章では、愛を中心にしながら、こころの不思議さについて考えていきたい。

<総論 1/1>

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