イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

神仏を信じて見えてくるもの!(主張 9/10)

2011-07-30 | 第二章「五感と体感」

 すくすくと育っても、人は様々な困難に直面していくものだ。新・平家物語を読み始め2巻に差し掛かっているが、恋人を間違って殺め仏門に入った僧・文覚の話。血の通った兄弟、叔父・甥がいつの間にか殺し合いをすることになる保元の乱のお話・・・

 昨日は、持統天皇の罪悪感について語らせていただいたが、持統天皇の時代から400年くらい後も、同じような辛い話があるものだとつくづく思う。

 何も900年とか1300年前の話ばかりでない。津波と大地震により、現代も同じような話が沢山あるようだ。原発問題でも、どれだけの人が罪悪感に苛まれているだろうか・・・そんなことも考えたりする。

 罪悪感に苛まれる。私も防衛機制で問題から逃げたり、八つ当たりをしたり・・・いろいろであったが、ひどいときは生き甲斐とか自分を大切にすることなど全く忘れてしまうような時だ。

 ただ、生き甲斐の心理学を勉強する中で、心理学の研究テーマのひとつとして。「信じて見えるもの、見えなくなるもの」 があることを知った。何を信じるか。その信じるものの理論は、大いに話題になるのだが、それはブラックボックスとして研究対象にせず、信じてどうなるかという心理を研究するものだ。

 神仏の存在を証明したり、不在を証明したり・・・こうした分野は現在にいたるまで、だれも理論的に解明していない、ここでいうブラックボックスの領域の一つである。

 信じて何が見えるか?これは、本当に不思議な現象で、宗教的な体験(パウロや空海、親鸞・・・偉大な宗教人を語るときに必ずでてくるものだ)もあるが、小さなみじかなこともある。私も経験したが、28年勤めた会社をやめて2-3年して見えてきたこととか。3.11を体験し(今もそうかもしれないが)見えてきたことも入るかもしれない。

 極端かもしれないが、ある時を境に、知覚が変わり、見えないものが見えてくる。別世界に身も心も放り投げられたようなもの。

 人には、それぞれ独自の傾向と渇望がある。その中には、人生を賭けるようなものもあろう。そして、それを実現しようとする中で、それこそ罪悪感に苛まれたり、いろいろなことが起こる(人は完全な存在ではないので、当たり前だ)。

 そんな中(行き詰まったときなど)、不思議なこころの働きがあり、恩寵ともいえる現象がある。それは現代の科学的な態度で真面目に研究する対象だと思うし、欧米はともかく、日本でもっと研究すべきテーマだと思う(特に今のような時代では)。

主張 9/10

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