昨日は、どうも頭の夏バテ?なのか、ブログも書けず一日が経ってしまった。ただ、まだ気力が残っていて立花隆氏の「思索紀行」を楽しんだ。無人島生活の話なども楽しかったが、私の余り知らなかったギリシャ正教やユダヤ教に関わる話はとても素晴らしかった。ギリシャ正教のミサの音楽的な美しさ、シェマー・イスラエルが出てくるシェーンベルクの「ワルシャワの生き残り」の感動などを識り、早速YouTubeで調べたりしたが感動した。そして、今朝、気持ちのよい朝が来た。
今年は、考えてみれば日本の代表的な聖地を訪ねる機会が何回もあった。その中で、恐らく私の受けた日本の宗教教育(倫理社会、日本史、世界史、国語、美術、音楽など)では余り教えてくれなかった何かを感じることもできたようだ。金峯山寺や室生寺。広島の宮島や大阪の四天王寺。東大寺や談山神社。写真は四天王寺の金堂や五重塔が一直線に並ぶ伽藍だが、現地で見ると本当に知識だけでない何かを体感できるようだ。
さて、最近知人から教えていただき、『教科書の中の宗教』(藤原聖子著)を読ませていただいた。日本の宗教教育だけでなく、世界の宗教教育を俯瞰した本であるが、眼を開かせていただく本であった。私は幼児洗礼を受け、小学校のころは、それなりに毎週日曜日には教会に行ったりしていた。しかし、高校生くらいになると、当時の社会環境もあるがキリスト教から離れていった(最終的には40歳台でカトリックに戻る)。
ただ、よく考えると、その原因の一つに日本の宗教教育(公教育)があるのではないかと思う。『教科書の中の宗教』にも卓見が書かれていたが、どうも日本は宗教を序列化したり、教義等の知的な面を変に重視するようで、倫理社会だけでなく、日本史、世界史等も含め、恐らく世界的には奇妙な教育が行われていると思う。
今日話題にした、ユダヤ教でもシェマー・イスラエルを知らず(聴かず)なにを学んだのだろうか(キリスト教を生んだ、古い宗教?でも今でも多くの信者がいるのだ)。ロシア正教のキリル総主教が来日したが、その知的な意味は報道されても、美しいミサは話題になるだろうか。明治時代の激しい宗教弾圧の中で生き抜いてきた金峯山寺の深い祈りをどれほど知っていたのだろうか。
まあ、日本の宗教教育といった難しい問題はさておき、旅は立花隆氏の紀行文ではないが、何か不思議な魂の声を満たしてくれる。身体を楽しませる旅も良いが、魂を喜ばせる旅も絶対必要だ。四天王寺式伽藍を学んでも、その宗教的な感動は自分で感じるしかないだろう。
旅と真善美① 6/10