青春時代に味わったな強烈な淋しさとは違う、詫び寂びというか三日月のような完全ではなく一部しかない美。そんなものの良さを人生の晩年になり味わう幸せを何となくかみしめている。
万葉集で言えば、志貴皇子の「釆女(うねめ)の、袖(そで)吹きかへす、明日香風、みやこを遠み、いたづらに吹く」。芭蕉で言えば月並みかもしれないが「古池や蛙飛びこむ水の音」
コロナ禍や毎日嫌なばかりのニュースで食傷気味で日本が嫌になるが、縄文時代から続いてきたのではないかと思われる侘び寂びの文化を思い出すとなにかほっこりする。
今月「生き甲斐の心理学」の勉強会があるので暗い感情など感情の世界をいろいろ思索しているが、人の持つ感情の本質はどうも明るい感情ではなく暗い感情のようだ。明るい感情も時々出会うが、それは恩寵といったくらい全体の感情生活からすると稀なようだ。そして、基調低音のような孤独感。身体や生育史からなる心を持ち、かつ不可知の魂からなる人間は、じっと耳を澄ませると愛の孤独を奏でているようだ。日々刻々と変わるこの世の中で、友人、恋人、配偶者を求めたり、時にはキリストや仏陀を求める感情なのだろう。
私もこの半年くらい、自分ではなかな意識できない中で何かを求めていたようだ。そして、最近ある出会いにより、初めてそれを意識化できた。
出会いとは不思議である。私は学生時代、数学の確率統計論が好きだったが、出会いの本質はサイコロを振ったようなものではないと思う。自分では気づかなくても心の奥で何かを求め、そしてそれが神秘的と言ってよいほどに現実化されるのが出会いだ。確率論的に蛙が古池に飛び込んだのではなく神秘的な出会いがあったからこそ名句になるのだし、明日香風が寂しく吹いてもそこに新しい息吹や出会いを感じたからこそ名歌なのだろう。歌の中にある魂の上昇感。その明るい感情に至るのは苦悩を潜ったからだ。
愛の孤独は、こうして素晴らし贈りものに変わることがあるが、方向性が悪いと人を死に追いやることさえある。
ギリシャ神話にあるナルキソスの話は美しいがとても悲しい話である。自分を愛することしか知らないナルキソスは池のほとりの水仙になってしまい。ナルキソスを愛したニンフは愛されないことで身体をなくし木霊になってしまう。自己肯定・他者否定的な愛が悲劇を生むということは昔の異国の話だけではなく、今の日本でも警戒しなければならない問題である。夢のある侘び寂びを生んだ日本的な自己肯定・他者肯定の愛。想像の羽を広げたい。
7/10五感とストレス解消の生活
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