嫌なことが多いこの世だが、先日の皆既月蝕は久しぶりに楽しい経験だった。赤い皆既月蝕の月も心に残ったが、皆既月蝕が終わって光始めた細い月も実に素敵だった。普段であれば見ることのない月の諸相を短時間で垣間見る。こんな月もあったのかとこころから感動した。
人そのものは縄文時代も現代人もさほど変わってないと思うが、生活の中での月の位置づけはずいぶん違っていたと思われるので、同じ皆既月蝕を見ても縄文人は違う印象を持ったかもしれない。記紀を見ても月の神様はツキヨミ、月読みと命名されている。これは月が暦と非常に関係深いものと古代の人が認識していたことを意味するのだと思う。先日教えてもらったのだが、旧約聖書の詩編104-19にも「主は月を造って季節を定められた」とある。さらに暦というのも我々は何か数式のような理性的なものと考えがちだが、カレンダーは名著「暦と占いの科学」(永田久著)によると、カレンダエ(月が出たぞ)がカレンダーの語源だそうで、月が消えて(朔日)初めて夕方に薄い三日月を見つけ神官が叫んだ感動的な言葉のようだ。とするとツキヨミもある種の感動を持って語られる言葉だったのだろう。
暦は農耕で非常に大事なものだと思うが、考えてみれば狩猟・採取の時代でも大事だったと思う。月の動きは植物だけでなく動物の動きとも深く関係するからだ。もちろん微妙な季節の変化にも。したがって暦は20万年のホモサピエンスの歴史、認知機能が拡大した4万年の歴史とも深く関係しているはずだ。縄文人は生き抜くために月を見ていたのだろう。私のようにお気楽に月を楽しんでいるのとは違ったと思う。
そんな縄文人は皆既月蝕をどう見ていたのだろうか。満月の夜。短時間で月の死と再生のドラマを垣間見させてくれる体験。普段であれば一か月かかるのだが。特に皆既月蝕時の炎のような赤い月が再び細い糸というか蛇のような光で輝き始めること。
そういえば、私が幼かった時、家の近くに椎の木のご神木があり、そこには白蛇が住んでいるといわれていた。白蛇が神となぜ関係深いのか分からないでいたが、この月蝕や三日月と関係しているのかなぁと年を取って気付く。
さて、U先生の「生き甲斐の心理学」の中の五感の勉強はいろいろ役立っているが、こころは何で傷つくかというブログの記事を見た。人は日常的に思考・感情・行動の歯車を回しながらたくましく生きているが、ときおり心が傷つく。それは思考や行動が傷つくのではなく感情が傷つくからとある。そして感情と直結する五感が語られる。見たくもないものを見た視覚の傷。聞きたくもないことを聞いた傷。嗅ぎたくもない臭いによる傷。異常な味で傷つく味覚。嫌な触覚。・・・その傷つけられた五感はその五感を癒すことで回復するといわれる。嫌な光景には美しい光景が。・・一昨日の皆既月蝕では何か不安な赤い月のあとに細い圧倒的な糸のような光。それは希望の光でもあった。
6/10 生き甲斐の心理学と縄文
「縄文小説 森と海と月 ~五千年前の祖先の愛と魂~」
縄文中期の関東・中部地方を中心にした愛と魂の物語です。
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森裕行
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