27日久々に飛騨に行く道中、今はもう廃止となった神岡鉄道のことを思い出していました。
そういえば、昨年の11月29日に神岡鉄道に乗り納めをしていましたが、ご紹介が未だでした…
時は2006/11/29に遡ります。
JR高山本線と神岡鉄道との分岐駅猪谷に着いたのは、17時少し前。でも深い谷間の駅には既に夕闇が迫っていました。
明日30日が神岡鉄道の最終運行。前夜の割には人影もまばらでした。
全員が私と同じ、乗り納めの方々のようです。
北海道のちほく高原鉄道の場合は一週間前にもかかわらず、大変な乗客でしたから、少し拍子抜けしました。
無人の駅。ホームにし「さよなら神岡鉄道」の横断看板が掲げられていました。
最終の熱気に溢れ…というには程遠く、寂しさだけが夜の冷え込みと共に迫るようでした。
ホームは、JRと共用です。夕日の残光が見える方向は、富山方面。ホームを照らす電灯と駅名票。
一つの鉄路静かに消えようとしています。
最終ひとつ前の上り列車は、この暗闇の向こうからやってきます。
音の無い空気。駅に佇む人々も互いに声を掛け合おうとはしません。
ホームを照らす明かりだけが、かろうじてまだ「生きている」鉄路の証明です。
これから乗る列車が到着しました。
列車内にはそこそこの乗客の方々。
ほとんどが、鉄道ファンらしき人々。
「おくひだ号」と書かれた車両です。
奥飛騨という名称には、何故か旅情を誘う語感があります。
これも明日(2006/11/30)まで。
列車の横の猪谷-奥飛騨温泉口という神岡鉄道全区間のサボ
終点の奥飛騨温泉口駅から、実際の奥飛騨温泉郷までは実はかなりの距離が有ります。
命名のちょっとしたレトリックのような気もします。
この区間は、国道を走ると、そこそこの距離があるように感じますが、列車ではほんの僅かな時間。
これも惜しむ気持ちがそう感じさせるのでしょうか。
途中駅では、明らかに地元の方とわかるおじいさん、お婆さんも乗ってこられます。
廃止となる明後日からは、どうやって移動されるのでしょうか。
終点の奥飛騨温泉口駅で列車は折り返し、最終の上りとなります。
驚いたのは、とても若い女性客が数名おられたこと。
僕が現役(?)の頃には考えられないことでした。
鉄道に限らず、多くの趣味の領域は「変な男の世界」だったのですが、嬉しいような気もします。
彼女らにとって、小さな山間鉄道の廃止とはどういう意味をもっているのでしょうか。
車内では、明日の情報交換や、行動予定を話し合う光景があちらこちらで。
今夜は多くの方がこの周辺で宿泊。早朝から最終運行を惜しもうとされているようでした。
この列車には名物があります。
この写真を良くご覧になると、囲炉裏があることにお気づきのはず。
なにやら赤い火の色も(?)
鉄瓶の中を覗き込む…
鉄瓶の中身はお賽銭?
赤い色は、電灯。
でした。
僕が乗ったこの日の上り最終が停車する猪谷駅。
すっかり夜の帳が下りた構内。
明日の最終運行日を控え、益々静けさに包まれていました。
そして…
あれから二ヶ月が経ちました。
国道から見える鉄橋の一つ。
列車が運行されているときは、雪が降っても必ず鉄路の部分は顔を出しているものです。
もう列車が通らないことを、線路を覆った雪が証明しています。
国道沿いにある集落から、大きな橋を渡らないといけない駅。茂住。
神岡鉄道の駅は、険しい峡谷の鉄道として、駅の設置にも苦心の跡がありました。
二ヶ月で鉄路は錆びていました。
銀色に輝く二本の線路…のはずが、やや黄色味を帯びた錆び色になっている光景は初めてです。
七つの中間駅に因んで七福神をお祭りしていた祠からも像が取り出され、駅名票も取り外されています。
僕が写真を撮っている間に、いつの間にか一人のおばあが、駅の椅子に座っていました。小柄なおばあは、僕とは視線を合わさず、ただ今は列車の走らない駅にちょこんと座っていました。
この神通川の川岸には、神岡鉄道より昔、鉱山から鉱石を運び出すための鉱山鉄道も通っていました。
いまでも国道の脇に塞がれたトンネル口が見えます。
急峻な崖に張り付くようにかつての落石覆が見えました。
かつてトロッコが鉱石を積んで走っていたのでしょう。
春になると草に覆われ、見えなくなります。
雪の少ない今年だから、顔を見せてくれたようです。
鉄道、それも失われつつある鉄路に心を動かされるのか
僕の場合、単なる郷愁だけではありません。
かつて、この建設と運行に心身をつぎ込んだ人々が居たはずです。
その人々の人生や暮らしにも、思いを寄せてしまいます。
輸送路は、物資だけではなく旅客の人生も運んでいました。
時代の変遷と共に、移ろってゆくのは致し方ありません。
が、その時代を支えてきた人々の思いや暮らしまで、「無かった」かのように忘れてしまうことは、如何なものかと思うのです。
現代は鉄道に代わって今日新しい主役を作り出しているものの、やがてこれらも「役に立たない」ものとしていつかは遺構となる可能性を、「役に立たない」ものとなった遺構は示しています。
今、僕らが必要と思っているものでさえ、いつかは遺構となるかもしれません。
未来の人々は、どのような思いで、僕らの時代の遺構を見るのでしょうか。
そういえば、昨年の11月29日に神岡鉄道に乗り納めをしていましたが、ご紹介が未だでした…
時は2006/11/29に遡ります。

明日30日が神岡鉄道の最終運行。前夜の割には人影もまばらでした。
全員が私と同じ、乗り納めの方々のようです。
北海道のちほく高原鉄道の場合は一週間前にもかかわらず、大変な乗客でしたから、少し拍子抜けしました。

最終の熱気に溢れ…というには程遠く、寂しさだけが夜の冷え込みと共に迫るようでした。

一つの鉄路静かに消えようとしています。

音の無い空気。駅に佇む人々も互いに声を掛け合おうとはしません。
ホームを照らす明かりだけが、かろうじてまだ「生きている」鉄路の証明です。

列車内にはそこそこの乗客の方々。
ほとんどが、鉄道ファンらしき人々。

奥飛騨という名称には、何故か旅情を誘う語感があります。
これも明日(2006/11/30)まで。

終点の奥飛騨温泉口駅から、実際の奥飛騨温泉郷までは実はかなりの距離が有ります。
命名のちょっとしたレトリックのような気もします。
この区間は、国道を走ると、そこそこの距離があるように感じますが、列車ではほんの僅かな時間。
これも惜しむ気持ちがそう感じさせるのでしょうか。
途中駅では、明らかに地元の方とわかるおじいさん、お婆さんも乗ってこられます。
廃止となる明後日からは、どうやって移動されるのでしょうか。

驚いたのは、とても若い女性客が数名おられたこと。
僕が現役(?)の頃には考えられないことでした。
鉄道に限らず、多くの趣味の領域は「変な男の世界」だったのですが、嬉しいような気もします。
彼女らにとって、小さな山間鉄道の廃止とはどういう意味をもっているのでしょうか。
車内では、明日の情報交換や、行動予定を話し合う光景があちらこちらで。
今夜は多くの方がこの周辺で宿泊。早朝から最終運行を惜しもうとされているようでした。
この列車には名物があります。
この写真を良くご覧になると、囲炉裏があることにお気づきのはず。
なにやら赤い火の色も(?)

鉄瓶の中身はお賽銭?
赤い色は、電灯。
でした。

すっかり夜の帳が下りた構内。
明日の最終運行日を控え、益々静けさに包まれていました。
そして…
あれから二ヶ月が経ちました。

列車が運行されているときは、雪が降っても必ず鉄路の部分は顔を出しているものです。
もう列車が通らないことを、線路を覆った雪が証明しています。

神岡鉄道の駅は、険しい峡谷の鉄道として、駅の設置にも苦心の跡がありました。

銀色に輝く二本の線路…のはずが、やや黄色味を帯びた錆び色になっている光景は初めてです。

僕が写真を撮っている間に、いつの間にか一人のおばあが、駅の椅子に座っていました。小柄なおばあは、僕とは視線を合わさず、ただ今は列車の走らない駅にちょこんと座っていました。
この神通川の川岸には、神岡鉄道より昔、鉱山から鉱石を運び出すための鉱山鉄道も通っていました。
いまでも国道の脇に塞がれたトンネル口が見えます。

かつてトロッコが鉱石を積んで走っていたのでしょう。
春になると草に覆われ、見えなくなります。
雪の少ない今年だから、顔を見せてくれたようです。
鉄道、それも失われつつある鉄路に心を動かされるのか
僕の場合、単なる郷愁だけではありません。
かつて、この建設と運行に心身をつぎ込んだ人々が居たはずです。
その人々の人生や暮らしにも、思いを寄せてしまいます。
輸送路は、物資だけではなく旅客の人生も運んでいました。
時代の変遷と共に、移ろってゆくのは致し方ありません。
が、その時代を支えてきた人々の思いや暮らしまで、「無かった」かのように忘れてしまうことは、如何なものかと思うのです。
現代は鉄道に代わって今日新しい主役を作り出しているものの、やがてこれらも「役に立たない」ものとしていつかは遺構となる可能性を、「役に立たない」ものとなった遺構は示しています。
今、僕らが必要と思っているものでさえ、いつかは遺構となるかもしれません。
未来の人々は、どのような思いで、僕らの時代の遺構を見るのでしょうか。