平成28年度(第71回)文化庁芸術祭賞の大衆芸能部門で、古今亭菊之丞師匠が優秀賞を受賞!! 2016-12-27 20:44:06 | つぶやき 平成28年度(第71回)文化庁芸術祭賞の大衆芸能部門で、古今亭菊之丞師匠が優秀賞を受賞!! 菊之丞師匠も好きな噺家さんです。この間の横須賀も、面白かった。白酒師匠がイマイチだったから、なお目立って良かった。
ニーチェの「愛せない場合は、通り過ぎよ」(ツァラトゥストラ)は、究極のルサンチマンだと痛感する今日この頃。 2016-12-27 17:05:56 | つぶやき ニーチェの「愛せない場合は、通り過ぎよ」(ツァラトゥストラ)は、究極のルサンチマンだと痛感する今日この頃。
スピード違反にiPhoneのガラス修理代にアメリカ出張が重なって、妻から15000円借金したのを今晩返した。 2016-12-26 20:43:02 | つぶやき スピード違反にiPhoneのガラス修理代にアメリカ出張が重なって、妻から15000円借金したのを今晩返した。 「一万円札がなくて千円札だ、ちょっと細かいがいいかい?手を出してごらん。いちにーさんしーごーろくなな、今何時だい?」 「八時よ」 「きゅーじゅーじゅういち、、、」
三木清「人生論ノート」読了。 ノートというだけあって、あまり体系的にまとまっていないけど内容が濃い。何度も読み直してしみじみする。 2016-12-26 12:00:50 | 読書 三木清「人生論ノート」読了。 ノートというだけあって、あまり体系的にまとまっていないけど内容が濃い。何度も読み直してしみじみする。ただ文体は散文集のような本当にメモ書きのような、それでも月刊誌「文学界」に掲載されたのだから、結構な驚きである。 何故今、三木清を読む気になったのか、それは小田実が「彼(三木清)の言う修辞学というのは、つまり社会を分析するんじゃなくて、社会をいかに動かすか、いかに変えるか、というような手だてとしての学です。そういう修辞学がわれわれには欠けているということを三木氏は力説しているんです。」と『対話篇(中村真一郎との対談)』1973で言っていたからである。 死は観念であり、生は形成である。人生は運命であり希望である。人生は希望の生成力である。幸福は人格である。良き習慣が人格を作る。アランの幸福論もヒルティの幸福論も、この良き習慣を作るためのもの(ラッセルの幸福論は読んだことがないのでわからないが)。 「神でさえ自己が独立の人格であることを怒り(その怒りが現れるのは正義が蹂躙された時であり、天変地異であり)によって示さねばならなかった。」 と三木が言うように、最後の審判のあるキリスト教は、素晴らしい思想である。あの権力を欲しいままにしたフェリペ二世も、グレコの絵画が示すように、最後の審判では神妙な顔をしている。(宗教画だから当然と言えば当然であるが) 結局は人事を尽くした後は神頼み。運は人智を超えたところにある。 以下、私の中で結びつくように順不同に気になったところを引用する。 幸福について 「今日の人間は幸福について殆ど考えないようである。」 「人格は地の子らの最高の幸福であるというゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。幸福になると言うことは人格になるということである。」 「幸福は人格である。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが倒れてもなお幸福である。」 怒りについて 「神の怒り - キリスト教の文献を見るたびに常に考えさせられるのはこれである。なんという恐ろしい思想であろう。またなんという深い思想であろう。 神の怒りはいつ現れるのであるか、正義の蹂躙された時である。怒りの神は正義の神である。 神の怒りはいつ現れるのであるか、 天変地異においてであるか、預言者の怒りにおいてであるか、それとも大衆の怒りにおいてであろうか。神の怒りを思え!」 「神でさえ自己が独立の人格であることを怒りによって示さねばならなかった。」 娯楽について 「娯楽という観念は恐らく近代的な観念である。それは機械文明の時代の産物であり、この時代のあらゆる特徴を具えている。娯楽というものは生活を楽しむことを知らなくなった人間が代わりに考え出したものである。それは幸福に対する近代的な代用品である。幸福についてほんとうに考えることを知らない近代人は娯楽について考える。」 「娯楽はただ単に、働いてる時間に対する遊んでいる時間、真面目な活動に対する享楽的な活動、つまり「生活」とは別 のあるものと考えられるようになった。楽しみは生活そのもになく、生活の他のもの即ち娯楽にうちにあると考えられる。」 「生活を苦痛としてのみ感じる人間は生活の他のものとして娯楽を求めるが、その娯楽というものは同じように非人間的であるのほかない。」 希望について 「人生においては何事も偶然である。しましまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。もし一切が必然であるなら運命というものは考えられないであろう。だがもし一切が偶然であるなら運命というものはまた考えられないであろう。偶然のものが必然の、必然のものが偶然の意味をもっている故に人生は運命なのである。」 「個々の出来事が私にとって運命であるのは、私の存在が全体として本来運命であるためである。希望についても同じように考えることができるだろう。個々の内容のものが希望と考えられるのは、人生が全体として本来希望であるためである。」 「希望というものは生命の形成力以外の何物であるか。我々は生きている限り希望を持っているというのは、生きることが形成することであるためである。希望は生命の形成力であり、我々の存在は希望によって完成に達する。生命の形成力が希望であるというのは、この形成が無からんぽ形成という意味をもっていることに依る」 「スピノザの言ったように、あらゆる限定は否定である。断念することをほんとうに知っている者のみが希望することができる。何物も断念することを欲しないものは真の希望をもつこともできぬ。形成は断念であるということがゲーテの達した深い形而上学的智慧であった。それは芸術的制作についてのみいわれることではない。それは人生の智慧である。」
「幸福は人格である。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが倒れてもなお幸福である。」 2016-12-26 07:39:00 | 読書 「幸福は人格である。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが倒れてもなお幸福である。」 「人格は地の子らの最高の幸福である」と言ったゲーテ、「幸福は人格である。」と言った三木清。 さらに三木清は「幸福を武器として闘う者のみが倒れてもなお幸福である。」と、これを読んである人物を思い出した。