元外資系企業ITマネージャーの徒然なるままに

日々の所感を日記のつもりで記録

ティーレマン指揮、ウイーンフィルハーモニー交響楽団のベートーヴェン交響曲第四番を聴いて、西田哲学の純粋経験を感じた

2021-02-05 08:48:34 | 哲学ノート
ティーレマン指揮、ウイーンフィルハーモニー交響楽団のベートーヴェン交響曲第四番を聴いた。ベートーヴェンの交響曲の全てをしっている私は、三番(英雄)と五番(運命)に挟まれた四番に全然魅力を感じなかった。しかし聴く気もなかったのに、聴いてみて、その素晴らしさに唖然とした。一般に理解するには時間がかかると言われている意味が分かった。私も何回か聴いて初めて理解できた。ティーレマンは「マーラーの交響曲一番は、この四番の冒頭を取り入れて作られた。ワーグナーも学んだ「漸降法」である」とも言っている。ベートーヴェン私にはさっぱりわからないが、要するに次世代の多くの作曲家がベートーヴェンからたくさん学んだということだろう。
最初の停滞で飽きてしまう。英雄や運命のように出だしから圧倒する迫力がない。そのうち一気に圧倒的な迫力の演奏で陽気になる。その後に続く主題でさらに楽しくなる。交響曲九番でじっと我慢して主題を待っているような、遠山の金さんで「この桜吹雪が見えねえか」、水戸の黄門様の印籠を持ちながら「控えろ」を待っているような、そんなおなかをすかした子供がやっと晩飯にありつけたような、そんななんとも言えない主題を聴いた時のスッキリ感、いよー待っていました感で大満足する。
ただ、これはティーレマンがベートーヴェンを理解するために、ベートーヴェンになりきって指揮をする彼の理解した交響曲四番である。カラヤンやバーンスタイン、そして日本を代表する小澤征爾さんや、高関健さんの指揮する交響曲四番を聴いてみたい。
西田哲学の純粋経験で「そのものになりきる」というのが出てくる。まさに、ティーレマンが実行したのは西田哲学であり、今回彼の交響曲四番で私が「何も期待せずに、何も先入観を持たずに、ただ聴いてみた。」、この経験は純粋経験ではないのか。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿