丘を越えて~高遠響と申します~

ようおこし!まあ、あがんなはれ。仕事、趣味、子供、短編小説、なんでもありまっせ。好きなモン読んどくなはれ。

砂の果ての楽園 2

2009年05月29日 | 作り話
 金曜の夜。残業を終え、宏美が会社を出たのは九時を回っていた。今までならどこかで田牧と落ち合って、食事を取ることが多かったがそんな事は当分ありえない。田牧は定時に帰宅していた。かといって、今からマンションに帰って夕ご飯を作ろうかという気にもなれなかった。
 ぷらぷらと宏美は駅に向かって歩き始めた。どこかで一人寂しく食事を済ませよう。なるだけ寂しさを感じないような場所がいい。話し相手が欲しかった。
「……そうだ」
 駅から少し離れたところに無国籍料理を出す居酒屋がある。一度同僚と行った事があった。アジアンテイストの内装が好評だった。料理はベトナム風、中華風、タイ風、チベット風、節操がないとも言えたが、色々な味が楽しめる。日本人向けの味にしてあるようで、食べなれない香辛料の匂いも思ったよりは気にならず、程よい異国情緒を味わえたという覚えがある。あそこは田牧と一緒に行ったことはない。それもまた良かった。今は田牧の匂いのしないところがいい。
 宏美はうろ覚えの記憶を辿りながらその店を目指した。途中で何度か立ち止まり、引き返してみたりしながらもなんとか目的地へと辿り着いた。
 黒っぽい色の丸太を多用した、如何にもエスニックという感じの店構えで、おおきな木の看板には白い飾り文字で「シャンティ」と書かれてあった。
 扉を開けて中に入ると、少し暗い目の照明の中に広いカウンターが目に入る。カウンターには十席、奥に四人掛けのテーブルが二つ。それほど広くない。客は奥のテーブルに四人、カウンターに二人ほどいるだけである。
「いらっしゃいませ」
 カウンターの中にいる男が落ち着いた声で宏美を迎えてくれた。
「何人様ですか?」
 宏美は黙って人差し指を立てる。
「こちらへどうぞ」
 男は手でカウンターを指し、宏美は言われるままその席へとついた。
 カウンターの中には五十歳くらいの恰幅の良い、頬から顎にかけて短い髭を蓄えた男と、三十前後の細身の男が入っている。二人とも黒いバンダナで頭を覆い、黒っぽいエプロンを付けている。年配の方が店主だ。
 宏美はメニューを広げた。この手の店は何度か来たことがあるので、メニューもだいたいの見当はつく。野菜のカレーとナン、そしてパイナップルビールを注文した。
 店内には抑えた音量でインド音楽らしきBGMがかかっている。宏美は黙ってそれに耳を澄ましながら、水を飲んだ。
「こちらは初めてですか?」
 若い方の男が声をかけてくる。
「え? ああ、いえ、二回目かな」
 宏美は少し考えた。
「一年くらい前かな、一度来たことが」
「ありがとうございます」
 細面に切れ長の目が印象的だ。かなり細身だが、Tシャツから伸びている腕にはしなやかな筋肉がついている。ストイックで綺麗な腕だなと、宏美は思った。
「お仕事帰り、ですか」
「はい」
「随分遅い時間まで働いていらっしゃるんですね。お疲れさまでした」
 男の言葉に宏美は小さく笑った。
 別の客が入ってくる。男はすっとそちらに顔を向け、冴えた声で「いらっしゃいませ」と言った。耳元から鎖骨へと綺麗な斜めのラインが目についた。
 
 宏美が食事をしている間、時々店主とその男が声をかけてくれる。宏美はぽつりぽつりと答えながらゆっくりと食事を済ませた。食事が終わってほっと一息つくと、目の前に熱いチャイが出てきた。
「え?」
 怪訝な顔で目の前の店主を見る。店主は髭の顔に愛想の良い笑みを浮かべていた。
「サービスです」
「ありがとう」
 ふうふうと息を吹きかけて、一口飲む。少し考えてから砂糖を一匙入れた。
 ほのかな甘味とシナモンの香りが口の中に広がり、食事の後口を消してくれる。
「調子に乗って随分食べちゃった。太るかな」
 苦笑いしながら呟くと目の前に立っていた若い店員がふと顔を上げた。
「そんな心配するようなスタイルじゃないですよ」
「そんなことないない」
「女性はすぐに太る太るって気にされますね。全然そんな事ないのに。日本の女性は痩せすぎですよ」
 真面目な顔で宏美を見る。
「そんな事言うけど、やっぱり細い女の子の方がスタイル良いって言われるんだもの。それに太るって自己管理能力を問われるって言うじゃない?」
 宏美は肩をすくめた。
「会社勤めしているとどうしてもそういう目で見られるし。習慣みたいなもので、太るのが怖い」
 その店員は「わからない」と言いたげに、小さく首をかしげた。
 ふと田牧の顔を思い出す。子供を二人産んで、子育てに追われて二十年たった妻の裸を明るいところでは見たくないと愚痴っていた。妊娠する事で腹筋も肌も極限まで引き伸ばされる。脂肪には裂け目、妊娠線が残る。その線は一生消えることはない。それだけではない。産後、元のしまった身体に戻すのは至難の業だ。自分の母親もそうだった。「なんでこんなにぷよぷよなの?」そんな事を言いながら母の下腹部を摘んでは怒られたものだ。田牧の言葉は女性に対してとんでもなく失礼で残酷だと思いながら、その言葉の中に宏美の身体への賞賛が込められているような気がして意地の悪い優越感を感じたのは事実だ。
 だが、そんな事を言っていた田牧も、結局は自分より妻の方を優先する。わずかな美醜など、その順位を変える要因にはなりはしない。
 宏美は顔をしかめた。やめよう、今は田牧の事なんか考えたくない。
 ふと時計を見ると十時をかなり回っていた。随分とのんびり食事をしていたらしい。
 宏美は立ち上がるとレジの方へと向かった。カウンターの中の店員がすべるようにレジに入る。
「ご馳走様。美味しかったです」
「ありがとうございます。良かったら、これ、書いていただけませんか?」
 店員がメモを差し出した。住所、氏名、生年月日、店への要望を書く欄が設けてある。
「誕生日にはカードをお送りしています」
 宏美はレジの横に置いてあるボールペンでメモに記入していく。
「誕生日、もうすぐなんですね」
 店員が手元を覗き込みそう言った。
「ええ。何歳になるかは、内緒」
 宏美は笑いながら書き上げたメモを店員に渡す。
「ありがとうございます。是非お越し下さい。サービスさせていただきますから」
 店員は丁寧に頭を下げた。真面目な人なのだろうな、ふと、そんな事を思った。

     *

 一ヶ月が経った。宏美はいつもと変わらず出勤し仕事をしている。田牧とはほとんど毎日顔を合わしてはいるが、仕事の話以外はほとんどすることがなかった。田牧は憎たらしい程ポーカーフェイスで、いつものなんら変わりなく宏美に接してくる。宏美も平静を装ってはいるが、内心は行き場のない嫉妬心と憤りで満ちていた。
 週末が来るたび、苦しくて仕方がない。一人で過ごす週末の夜の長く、もどかしい事。暗い部屋の中で田牧と過ごす時間を想い起こし、どうしようもない程に田牧を欲しいと思う。身体の芯を指で弄られる感覚がふいに甦り、腰が砕けそうな程に女の部分が疼く。
 情けなかった。自分がこれほどまでに田牧に溺れているなんて思いも寄らなかった。いや、会っている時にはこんな事はなかったのだ。会えなくなって初めて、身体も心も乾ききる程に田牧を切望する自分に気がついた。
 どうしようもなくなって、自分の指で自分の身体をなぞってみる。田牧がするように、胸の頂を摘み上げ、なで上げる。足の付け根に指を這わせ、いじましく震える唇へと滑り込ませる。蕾をこすりながら、蜜壺をかき混ぜながら、田牧の熱い欲望の塊の感触を想像する。一瞬の昂ぶりに身体を引きつらせた後、今度は自己嫌悪のどん底に落ち込む。
 男が欲しくて自分で慰める。自分がそんな情けない、淫乱な女だったなんて。そう思うと涙が滲んでくる。それでも気持ちを止める事は出来なかった。
 田牧に会いたい。会って思い切り罵倒してやりたい。そして壊れるくらい激しく抱いて欲しい……。

 宏美宛の誕生日カードが届いた。鮮やかで賑やかな原色の版画。タペストリーの柄のようだ。アジアの香りがする。送り主は「シャンティ」とあった。
「あ、あそこの……」
 若い店員の顔を思い出した。そう言えばアンケートカードを書いたのだった。すっかり忘れていた。
 カードには几帳面な小さな字でコメントが添えてあった。

 中川宏美様
 お誕生日おめでとうございます。
 当店の料理は健康と美容に効く様々な香辛料を使っております。
 美貌に更に磨きをかけるべく、またお越し下さい。

 思わずくすっと笑ってしまった。内容からして、あの若い店員が書いたのだろう。大勢客がいるだろうに、この間のつまらないスタイル談義を覚えていてくれたとは。少し嬉しくなった。
 カードの隅には営業時間が書いてある。どうやらランチタイムの営業もあるようだ。次は昼間に行ってみよう。ふとそう思った。
 宏美がシャンティを訪れたのは土曜日のランチタイムだった。ニットのコートにジーンズ、そしてブーツ。出勤の時にはジーンズは履かないようにしているが今日は休日だ。いつもよりは軽やかな気分で行きたい。
 シャンティに着いたのはまだ十一時半だった。扉を開けるとまだ客がいない。
「あら、一番乗り?」
 思わず呟くとカウンターの中の店員が振り向いた。あの若い男だ。
「いらっしゃいませ。……ええっと、中川宏美様、でしたよね?」
 切れ長の目にふわりと微笑みが浮かぶ。
「覚えてくれてるの? 凄い記憶力!」
 宏美は目を瞬かせた。
「忘れませんよ。大切なお客様ですから」
 宏美は笑いながらカウンターに着いた。この前と同じ席だ。
「特に美人は忘れない」
 店員は澄ました顔でそう言ったものの、直後に決まり悪そうな表情を浮かべた。思わず宏美は笑い出した。
「案外お口がお上手ですね~」
「……お世辞じゃないですよ。ランチタイムのメニューになっております」
 店員は困った顔のままメニューを差し出した。
「はいはい、額面通り受け取らせて頂きます」
 宏美はクスクス笑いながらメニューを受け取った。他愛ないリップサービスだが悪い気はしない。
 宏美はメニューに目を通した。朝はゆっくり寝ていたから朝食は食べていない。この食事が朝昼兼用、ブランチだ。いきなりカレーでは胃がびっくりするだろうか。
「野菜中心のカレーもありますし、辛さも調節させてもらいます」
 宏美の心を読んだようなタイミングに宏美は小さく肩をすくめる。しばらく悩んだ末、ほうれん草のカレーとナンのコースを注文した。
 店の中には既に強い香辛料の匂いが満ちている。匂いだけでも元気が出そうな気がする。
「お仕事はお近くですか?」
 店員がお冷を出しながら声をかけてくる。
「ええ、駅前の第四ビルの中」
「じゃあ、かなりの大手ですね。格好いいじゃないですか」
「そんなこと……」
 確かに駅前の第四ビルといえば大手有名企業のオフィスが入っていることで有名だ。そして宏美の会社も世間的には名の通った会社である事には違いない。だからと言ってそこに働く自分が格好いいとはとても思えなかった。四十歳目前のお局様。仕事は出来るけれど所詮は一般職。どんなに頑張ったところで所詮主任止まり。同じ女性でも総合職で四十歳の同僚(正確には二年後輩)は既に本社へと異動し、管理職としてバリバリ働いている。そう言えば先月、育児休暇明けの女性職員を支援する「ママ・サポート・プロジェクト」の責任者として社内報に載っていた。彼女は確かに格好いい。それに比べて自分は子供どころか、結婚すらしておらず、挙句に不倫と来ている。
「全然格好良くない。もう、ね、どん底ですよ」
 宏美は自嘲した。負け組という言葉が頭に浮かび、大きな溜息をつく。
「ダメだ~。最近どうも被害妄想というか、卑屈になっちゃって。どんどんブスになっていく自分が怖い……デス」
 ちょっとおどけては見せたが、全くの本音だった。
「……そんなこと。誰にでもありますよ。僕も覚えがあります」
 店員が呟くように言った。宏美は店員を見上げる。彼の目は宏美を映していたが、宏美の後ろの、もっと遠くを見ているようにも見える。
「その頃は……どん底で、自暴自棄になって。最悪でした。今日まで生きているのが不思議なくらい」
「……」
「まあ、こうして生きてますけどね」
 店員は小さく肩をすくめてみせた。
「そう……。生きていれば、そんな事もあるわよ、ね。一回二回は」
 宏美は妙な安堵感に包まれていた。理由を聞かれる訳でもなく、励まされる訳でもなく、可哀想がられる事もなく、ただ、同じ思いを味わった事がある。ただそれだけの事。なのに心の中の澱みが静かに流れ出していくような気がした。
 厨房からオーナーが顔を出す。
「慎! ちょっと!」
「はい。失礼します」
 店員は軽く頭を下げると厨房へと消えていった。あの店員の名前は慎と言うのか……。宏美はその名前を口の中で静かに繰り返していた。

 宏美は週末毎にシャンティに通うようになった。カウンター席はすっかり宏美の指定席となり、オーナーとも親しく話すようになった。
 オーナーは原田と言う。ぱっと見た目は髭もじゃの大柄な、なにやらつかみどころの無い怪しい男のようにも見えるが、話していると明るく気さくな、飾り気のない人柄という事が伝わってきた。髭の中に浮かべる笑みが屈託なく、可愛らしい。それと同時に力強さと懐の深さを感じさせる。
 原田は若い頃から飲食業界で料理と経営の手腕を磨いてきた。そして、数年前にアジア各地を放浪し、帰国してからシャンティを構えたとの事だった。英語とヒンドゥ語を喋ることが出来るそうだ。ちなみにシャンティとはサンスクリット語で「平和」という意味らしい。
「人は旅をすると平安を切望するようになります。まさにそんなところかな」
 アジア各地を放浪した原田にとってはこの店が「シャンティ」そのものなのだと、原田は髭モジャの顔に明るい笑みを浮かべてそう言った。
 若い店員、慎は山村慎と言う。元々は板前だったが、インドに旅行した事がきっかけとなりエスニック料理にハマッたらしい。そして知人の紹介でここ、シャンティで働くようになった。ちゃんと聞いたことはないが宏美と似たような世代、もしかしたら少し若いかもしれない。しかし、慎は会社の同世代の男性に感じるような俗っぽさを感じさせなかった。控えめに淡々と話す姿はまさに職人、ストイックさと素朴さが同居している感じがした。今は原田から少しずつ経営について教わっている途中だという。もっとも料理人の腕ほど、接客業の腕前は確かではないようだ。宏美がランチサービスに行った時の「特に美人は忘れない」と言う台詞は、彼にとって精一杯の言葉だったことがだんだんわかってきた。どうやらそれ以上、凝った事はまだ口に出来ないようだ。
「時々僕の台詞をパクるんだから」
 原田が宏美にそう囁いてクスクス笑った。
「慎のヤツ、あいつ口下手というか、普段あんまり喋らないから思いつかないんだろうね。僕のセールストークを必死で聞いて盗もうとする」
「で、習得出来そうなんですか?」
「莫迦言っちゃいけない。若い頃はそれこそホストまがいの事までしてたんですよ、僕は。その僕が三十年かけて体得したこの話術を、あんな朴念仁が三年やそこらでマスターできる訳ない。それに、あいつは僕と違って、女性にもてない」
「ひどい言い方~」
 少し離れたところでデザートの盛り付けをしている慎を見て二人でクスクス笑った。慎はじろっと視線を投げてきたが、黙々と作業を続ける。しばらくしてデザートの入った器を宏美の前におきながら、
「聞こえてましたよ」
 口をへの字にする。そのうらめしそうな表情に原田は豪快に笑い、宏美は横を向いて必死で笑いをこらえた。
 他愛ない会話が宏美のささくれ立った心を少しずつほぐしてくれていくのがわかる。そして何より、シャンティにいる間は田牧の事を考えなくて済む。それが宏美にとってなによりの癒しだった。

 課内の女の子の一人が出産を期に退職することになった。その送別会が開かれたのは師走に入ってすぐだった。忘年会には少し早いし、主役が妊婦という事もあって宴の席は居酒屋ではなく、ちょっとお洒落なイタリア家庭料理の店になった。小さな店なので十四人全員が参加したらそれだけで店はほぼ満席となった。事実上の貸切状態で、他の客への遠慮もなく和やかに食事は進んでいく。
 宏美は少し離れた席で部下である樹里と話しながら、今日の主役である上田を眺めていた。八ヶ月になるという大きなお腹を抱えて、上田はけらけらと笑っている。
「よく八ヶ月まで頑張りましたよね」
 樹里は上田と同期で入社して一番仲が良い友人だったようだ。モデルのようなスレンダー美人でしっかり者の樹里と、ぽっちゃりしたマシュマロ系で天然ボケの上田は凸凹コンビとして社内でも有名だった。
「結構大変だったんですよ、悪阻(つわり)もあったし」
「そうね」
 ロッカールームで青い顔しながら休憩している上田の姿を宏美は思い出していた。
「ほんとよく頑張ってたよ。うん。うちの姉がすごい悪阻がひどくて入院したりして、それ見てたから上田って凄いなって。感心してたんです」
 樹里は宏美の顔を見て嬉しそうに笑う。
「よく主任が女で良かったって言ってましたよ。男にはわからないもんね」
 宏美は曖昧に笑った。少し心苦しい。正直、妊婦の大変さなど想像がつかない。樹里のように姉や妹もおらず、身近に妊婦がいたことがないのだ。口に出した事こそないが、しょっちゅう体調不良で休憩している上田の姿に、時折苛立ちを感じたものだ。
 自分には何か足りないものがある。ほんのりと頬を染めながら陽気に笑っている上田を見ながら宏美はもやもやした黒い霞が身体に充満してくるのを感じていた。
 送別会がお開きになり、二次会チームと帰宅チームに分かれる事となった。
「主任はどうします?」
 二次会チームの上田が宏美を誘う。
「上田さん、大丈夫なの? 二次会参加して」
 宏美は上田の膨れたお腹を一撫でした。
「大丈夫で~す! お母さんが楽しいと子供も楽しいのです!!」
「ちょっと、飲んだの?」
 上田のテンションの高さに心配になる。上田はけらけら笑った。
「いいえ、さすがにアルコールは。でもなんか、楽しくって」
 仕事がなくなるというだけでもストレスは減るだろう。天然ハイと言うことだ。
「悪いけど、私はここで失礼するわね」
「え~」
 上田が抗議の声を上げる。このテンションの高さに快く付き合えるような心境ではなかった。そんな気持ちで無理に二次会に付き合って、部下を見送るというのも失礼な話だと思う。ここは失礼した方がどちらにとっても得策だと思えた。
「身体、大事にしてね。生まれたら連絡頂戴よ」
「はい! 主任、お世話になりました」
 上田は深々と頭を下げるといきなり泣き始める。
「主任には……いっぱいご迷惑をかけてしまって。本当にありがとうございました。私にとって主任は会社のお母さんでした」
 宏美も唐突に込み上げてきて、思わず言葉につまる。上田はべそべそ泣きながら宏美に抱きつこうとして、
「お腹が邪魔でハグ出来ない~」
 と叫ぶ。思わず宏美は噴き出した。こういうとぼけたところが彼女の長所だった。ムードメーカーとして随分助けられた。きっと退職して、良いママになるだろう。
 二次会チームを送り出し、残りのメンバーと共に夜道を歩き出す。駅に着くと皆がそれぞれの方向へと散っていき、宏美は一人になった。
 電車に乗り込み、扉の近くに立つ。暗いガラスは不鮮明な鏡となって宏美の顔を映し出していた。
 ガラスに映る自分の顔をぼんやりと眺める。普段は童顔で若く見られることが多いが、今日は随分と生気のない寂しげな顔に見えた。会社のお母さんなどと言う顔には程遠い。疲れた顔をした寂しい中年女の顔だ。
 上田の満たされた表情を思い返しながら宏美は自問する。自分には一体何が足りないのか。
 宏美は身体の向きを変え、扉に背中を預けた。これ以上自分の顔を見るのは嫌だった。

3に続く

人気ブログランキングへ
刊販売促進キャンペーン中(笑)
ぽちっと一押しお願いします



最新の画像もっと見る

コメントを投稿