丘を越えて~高遠響と申します~

ようおこし!まあ、あがんなはれ。仕事、趣味、子供、短編小説、なんでもありまっせ。好きなモン読んどくなはれ。

砂の果ての楽園 1

2009年05月28日 | 作り話
 何処までも続く薄い茶色の砂の世界。遥か地平線の彼方まで広がる砂漠は定規で引いたような直線で青い空と分けられている。その狭間でゆらゆらと揺らめきながら幻のオアシスが浮かんでいる。もう少し歩けば、そこに辿り着く。そんな期待を旅人に抱かせながら、ゆらりゆらりと誘うように、揺らめくのだ。
 わかっている。いくら歩いたって、そこに辿り着く事は出来ない。一歩近づけば、一歩遠ざかる。乾いた身体に心に残酷な夢を見させる、幻の楽園……。

 宏美は目を覚ました。暗い天井は窓から入り込む街の光で地味なステンドグラスのように彩られている。ちかちかと緑の光が点滅する。部屋の前にある歩行者用の信号だろう。世界が滅びてしまって、信号だけが働いている。そう、私は最期の時を迎えた、人類最後の生き残り。そんな想像がふと湧き上がってくる。
 宏美は身体を捻って、枕元の時計を見た。午前二時。草木も眠る丑三つ時。また目が覚めてしまった。最近、連続して睡眠を取ることが出来ない。元々寝付きも良い方ではないが、このところ眠りに落ちても二時間ほどですぐに目が覚めてしまう。更年期障害にはまだ十年以上もあるはずだが、四十歳という大きな節目を目前にして、少しずつ体が変化していくのを身に染みて感じる。そう、老化という変化。
 ベッドから下り、隣の部屋にある台所へと向かった。ダイニングキッチンの隅にある冷蔵庫を開け、スポーツ飲料の入ったペットボトルを取り出した。きりりとした冷たい液体が喉を通り過ぎて、胃を冷やしていく。すっかり目が覚めてしまったが構わない。どうせもうベッドに入ったところで朝まで眠れないのだから。
 宏美はペットボトルをぶら下げたまま寝室に戻る。2DKのこのささやかな城を購入したのは五年前だ。ついに結婚は諦めたのかと、親には散々嘆かれた。当時はそこまで深く考えてもいなかったが、今となってはそれが現実のモノとなりつつある。恐らく大地震でも起きない限りはここで生活し、年老いて、腐っていくのだ。きっと。一人寂しく。
 宏美は窓のカーテンを開けた。暗い通りには人の姿も車の姿もない。信号だけが静かに誰もいない道路を彩り続けている。虚しく寒々しい光景だった。
 胸が押しつぶされそうな不安が込み上げる。誰かに繋がりたい。誰かにすがりたい。宏美は枕元の携帯電話を手にしていた。携帯電話のアドレス帳を開く。
 指が素早い動きでキーを押していく。何回押せばその名前が出てくるのか、考えなくても指が覚えていた。
 田牧。その名前と携帯番号が画面に現れる。通話ボタンを一回押せばいい。それだけで田牧の電話が小刻みに震える。田牧の枕元で、宏美の存在を示してくれる。
 通話ボタンの上で親指が躊躇していた。ほんのわずかな動きですむのに、その一押しが出来ない。
 宏美は想いを叩きつけるように、携帯電話を折りたたんだ。パチンとはじけるような音が闇に響いた。
 
 前の彼氏は五歳年下だった。一途で可愛らしかった。いわゆる甘え上手というやつで、時々「姉さん女房がいいな」などと口にする。その反面、あまりにも頼りなさ過ぎた。少なくともその時の宏美にはそう思えたのだ。三十代も後半になって言う事ではないのかもしれないが、彼と一緒にいると否応なしに「大人」である事を要求されるようで、素直に自分を出せなくなっていた。そんな意固地さが余計に彼を子供に思わせていたのかもしれない。
 そんな気持ちが強くなる宏美と対照的に、結婚という二文字にこだわる彼。最終的には宏美の方が腰が引けてしまい、結局別れた。曖昧な態度を続けていく事に疲れた事もあるが、結婚願望が強い彼に自分のような女がいつまでもくっついていては、彼までも婚期を逃すと思ったのだ。もっともその時は自分にもまだまだ次があるなどと思っていたのかもしれない。
 年下の男と別れた後、ぱったりと出逢いが無くなった。気が付けば遊び仲間は皆結婚して、子育て真っ最中。電話をしても会話が弾まなくなっていた。子供の話を聞かされるのは面白くなかったし、あちらも「気楽なおひとり様の与太話」に付き合うほど暇ではないようだった。職場のコンパなどと言うものは不景気の影響もあり、ほとんど催される事がなかったし、若い社員はプライベートな付き合いを嫌うので飲みに誘っても付いてくる子はいない。
 口の悪い友人には、くもの巣が張るだとか、新品に戻るだとか、さんざんな言われようだったがなかなか次の恋に走る元気もチャンスもなかった。見た目がどうこうという問題ではない。歳は確かに三十代も限りなく終わりに近かったが、小柄で童顔の宏美は少なくとも十歳近く若くは見えた。笑うと小さなエクボが頬に浮かぶ。そんな見た目の若さと可愛らしさとは裏腹に、心は確実に実年齢だった。いや、仕事に追いたてられて、「見た目に似合わず出来る女」を演じ続けて突っ走っている間に、精神的には同い年の友人達よりも年上になってしまったかもしれない。自分よりも仕事の出来ない男は莫迦に見えてしまい、それだけで興味が無くなってしまう。そんな自分を自覚すればするほど、どんどん結婚という言葉から現実味が無くなっていく。若い頃「結婚は勢いが肝心」などと言って、スピード婚に踏み切った友人を半ばあきれてみていたが、今になればその言葉がわかるような気がする。世間知らずの間に突っ走った友人の勝ちだ。そう、要するに自分は世間擦れしてしまった挙句、完全にバスに乗り遅れた……。そんな思いを噛み締めている頃に田牧と出会ったのだ。
 田牧は宏美の上司にあたる男だ。宏美は業務部で課長補佐を務めているのだが、田牧は業務部長だった。二年前に本社から赴任してきた。地方の支店の業務部長にはもったいないような、いわゆる出来るタイプだ。それほど男前ということもないが、大柄でスーツが似合う。一見、怖そうな印象もあったが笑うと意外なくらい親しみのある表情になるのが可愛らしかった。
 年齢は宏美よりも八つ年上だ。海外生活の経験があるようで、英語も達者だし、考え方が合理的だった。噂では外資系の会社から引き抜かれてきたということだ。それを裏付けるように、一般職ながら長年業務で責任ある仕事を果たしてきた宏美を高く評価してくれ、課長補佐として抜擢してくれた。
「貴女の業績を考えると、本当は課長待遇なんだけど。職級の関係もあって肩書きは主任で精一杯だ……。本当にすまない。でも査定はきちんとさせてもらうから、期待してもらっていいよ」
 今までの部長とは違い、極めて割り切った視線で宏美の仕事ぶりを見ていてくれた。それが宏美には嬉しかった。
 仕事を通して、互いに信頼感が増してくるのがわかった。残業帰りに食事を一緒にする機会が増えた。
田牧と過ごす時間は楽しかった。博学だし、話題も豊富で話も上手い。ウイットに富んだ会話はお洒落で、またそれが様になっていた。田牧もまた宏美とのやりとりをを楽しんでいるようで、
「君を見てると日本人というより、アメリカの友人と話してるみたいだよ。もっとも見た目は向こうの高校生並みだけどね」
 などといって、悪戯っ子のような視線を宏美に向けてくる。そんな時間は甘口のカクテルのように宏美を酔わせた。
 
 何度目かの食事の時、田牧とそういう関係になった。いつもより少し大目に飲んだアルコールがそうさせたのかもしれないし、わざとお互いにそうしたのかもしれない。きっかけは何でも良かった。とにかく、その瞬間から宏美にとって田牧は恋人となった。
 よくある話だが、田牧には家庭がある。田牧と同い年の専業主婦の妻、そして大学生と高校生の息子が二人。
「専業主婦って言ってもさ、息子の手も離れてるし、やりたい事やってるよ。ボランティアだの、パートだの、僕なんかお呼びじゃないって感じだな」
 田牧はそう言って苦笑いしていた。
「そういうものなんですか? なんか、寂しいなぁ」
 宏美は田牧と関係を持つ前に、そう言った覚えがある。
「お子さんの手が離れたら、またご夫婦の時間が持てるんじゃないんですか?」
 田牧は顔をしかめた。
「そんなね、外国の夫婦じゃないんだから。ダメだねぇ、日本人は。二十年も一緒に暮らして、子供育てて、なんてしているうちに、男と女じゃなくなっちゃうね。まあ、確かに家族ではあるけど。息子ももう一緒に遊んでくれるような歳でもないし」
 田牧は少しだけ顔を宏美に近付けた。声を潜める。
「日本人夫婦が世界で一番淡白なんだよ。うちもそのうちの一軒だな」
 男はずるいな……。宏美は田牧の囁きに含まれている誘いを感じながら、そう思った。そう思いながらも、嫌な気分はせず、むしろ心のどこかが甘く疼いたのだ。誘われる事を期待している自分もしっかりずるい女だ。その時は、そう思えた。

 田牧は月に一度か二度、部屋にやって来た。いつも玄関の扉が閉まるか閉まらないかのうちに、壁に宏美の身体を押し付けて唇を貪る。大柄な田牧が覆いかぶさるようにして宏美の自由を封じ込めると、ややもすれば倒錯した快感に襲われる。そして頬にかかる田牧の荒い呼吸は宏美の身体を熱くし、更に淫らな気持ちを煽るのだ。
 今まで付き合った男の数はそれほど多い訳ではないが、田牧はその中でも一番上手い。宏美の耳に媚薬のような淫らなささやきを注ぎ、宏美の身体の隅々をくまなく指と唇と舌で探索し、快楽を呼び覚ます部分を探り当てていく。時には粘っこく、時には乱暴に、時には優しく……。繋がるまでに何度も悲鳴にも似た喘ぎが口をついた。
 宏美の悶える姿を見るのが田牧にとってはたまらない喜びのようだった。
「俺だってまだまだイケるって思うんだよ、宏美が乱れるのを見るとさ」
 笑いながらそう言ったことがある。
 ああ、そうか。そういうことなのか……。宏美はベッドの中でちょっと白けた気分になった。
 私を愛しているとか、そういう次元の話ではなく、女を狂わせるようなセックスが出来る、その能力を確かめているだけなのかもしれない。自分の老いを認めたくない、それだけなのかもしれない。
 もっとも自分もそうだった。田牧の責めに溺れながら、自分もまた田牧の身体に貪りつく。田牧の分身に自らの舌を絡め、舐め上げる。口に含んで攻め立てる。時には田牧を押し倒し、自分から激しく動いた。田牧が顔を歪め、振り絞るような唸り声を上げるのを見下ろしながら、ますます欲情する自分を止める事が出来なかった。 それは自分が「女」であると実感する瞬間。
 宏美と田牧はもしかしたら恋人同士などではなく、いわば同じ目的を持った「同志」なのかもしれない。
 そんな関係が一年ほど続いた。

「しばらく会えないかもしれない」
 いつもなら玄関先でまず求めてくる田牧が、神妙な顔でいきなり切り出した。
「どうしたの?」
 宏美は怪訝な顔で訊いた。田牧は珍しく言葉を濁しながら突っ立っている。
「上がって。ちゃんと話して」
 見慣れない田牧の態度に不安が掻き立てられるが、宏美はそれを押し殺し、努めて落ち着いた口調で田牧を促した。
 田牧はようやく靴を脱ぎ、上がりこんだ。
 リビングのソファーに腰をかけさせると、宏美は食器棚からカップを二つ出し、二人分のコーヒーを入れた。
 田牧に手渡す。
「どういうこと? 長期出張?」
「いや。……プライベートで、ちょっと」
「何、奥歯に何かはさまったみたいな言い方しないでよ。なんか気持ち悪い」
 宏美は軽い口調でそういってみたが、不安がますます募る。
「ねえ、プライベートって、おうちで何かあったの?」
 訊いてどうするのだろうと自分で思いながらも訊かずにはいられなかった。
 田牧は随分と躊躇っていたが、宏美が目で何度か促すと観念したようだった。
「……家内が入院する」
 低い声でぽつりと言う。
「…入…院……」
 宏美は言葉に詰まった。
「交通事故。大腿骨骨折だって。手術して三ヶ月ほど入院する」
「三ヶ月……お気の毒に。でもよく助かったわね」
「ああ。一歩間違えれば取り返しがつかないところだった」
 田牧はそう言うとコーヒーを飲んだ。
 気まずい沈黙が訪れる。
 不倫相手の妻の入院。田牧としては妻が入院している間に愛人といちゃいちゃしている気分ではないという事なのだろうか。
「……しばらくは俺も病院通いだ。息子達と交代だから、三日に一度か」
「……」
「家の事も少しはしないとだめだし。男ばかりってのはこういう時困るな。娘がいれば良かった」
 なんとなく白々しい笑い声。
「リハビリが結構時間かかるらしいんだよ。毎日あるらしいけど」
「いいのよ、無理に理由つけなくたって」
 宏美は田牧を遮った。
「家族なんだから、当然じゃないの」
 そう、私は「女」だけど、奥さんは「家族」なのだ。当然「家族」の方が優先順位は上に決まっている。田牧が言葉をつなげる度に、その事実を目の前に突きつけられるようで、どんどん惨めな気分になりそうだった。
「私になんか構ってる場合じゃないでしょ」
 宏美はできる限り平静を装った。私の心は何も感じていない。傷ついてなんかないから、痛みだって感じない。そう、私は全然平気。心の中で呪文のように唱え続ける。
「普段奥さんの事粗末にしてるんだから、こんな時くらいは奥さん孝行するモンよ」
 宏美はそう言うとコップを持ったまま立ち上がった。飲む気が全く無くなった。流しにコーヒーを捨てる。褐色の液体が排水溝に流れ込むのを見つめながら言った。
「今日はもうこのまま帰って。その方がいいでしょ、お互いに」
「そうだな。……そうするよ」
 田牧の声が聞こえる。
 田牧は立ち上がるとテーブルの上にコーヒーカップを置いた。
「ご馳走様。落ち着いたら連絡する」
 そのまま玄関に向かう。宏美は少し遅れて後に続いた。田牧は靴を履きながら独り言のように言った。
「大人の女はものわかりが良くて助かるよ……」
 身体を起こすと、ほっとしたような笑顔を宏美に向けた。
「じゃあ、また」
 そして玄関の扉を開けて、出て行く。バタンという扉の閉まる音が虚しく響いた。
 宏美はそのままずるずるとその場に座り込んだ。「大人の女」という言葉が勝手に頭の中を歩き回っている。「大人の女」である事が疲れたのではなかったのか? だから年上の田牧に魅かれたはずだったのに、またまとわりついてくる。いや、以前とはまた違った響きを感じていた。「大人の女」は「ものわかりが良い女」。会えなくなっても文句を言わない、遊びには好都合の女。結局、自分から「都合のいい女」というポジションを選んでしまった。今時の言葉で言うと、ただのセフレだ。そんな軽薄な関係ではないと思いたかったが、とどのつまりはそういう関係だ。
 のろのろと立ち上がり、田牧の残していったコーヒーカップを片付ける。自己嫌悪が心の中に降り積もっていくのを感じていた。最悪な気分だ。
 新しい週が始まり、宏美は重苦しい気分を引きずったまま出勤した。会社に出勤すると当然、田牧と顔を合わす。田牧は何事もなかったかのようにいつも通りに振舞う。宏美から報告書を受け取り、印を押し、それを宏美に手渡す。空々しい会社用の笑顔で仕事をねぎらう。そして宏美も営業用の微笑を浮かべながら、それに合わせる。
嘘っぽい笑顔と会話を交わすたび、心の壁に引っ掻き傷が増えていく。その傷は日毎にじくじくした熱とどろどろの膿を持っていくような気がした。


2に続く

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