丘を越えて~高遠響と申します~

ようおこし!まあ、あがんなはれ。仕事、趣味、子供、短編小説、なんでもありまっせ。好きなモン読んどくなはれ。

砂の果ての楽園 3

2009年05月31日 | 作り話
有名百貨店の特設フロアーで有名な画家の個展が開かれていた。日本画家として名前が通っているが、中国を始めアジア諸国に造詣が深いその画家はしばしばシルクロードをテーマにした作品を描くことも知られている。今回はそのシルクロードを描いた作品を中心に展示しているという事だった。
 日曜日に宏美はその個展を訪れた。開店して間もない時間だったが、師走の百貨店は賑わっていた。もっとも上の階に行くほど人の数は減り、個展会場の人影はまばらだった。ゆっくりと一枚一枚見て歩くには丁度いい。
 宏美は順路に従いながら、時々行きつ戻りつしながら、ゆっくりと見て回る。仏像の絵、異国の街並の光景、美しい装いの少数民族の娘の絵。ちゃんとした完成品というよりはクロッキーが多い。しかしあっさりとした素朴な筆致の中に異国の匂いが漂っている。どこかで観た事がある絵も多く、特に月の砂漠を行くキャラバンの絵は宏美も知っていた。
 しばらく展示物を観て回っていたが、一枚の絵の前でぴたりと宏美の足は停まった。
 「楼蘭」とタイトルがつけられたその小さな絵は、砂漠と遠くに揺らめく蜃気楼が描かれていた。ほとんど素描の黒い線だが、わずかに水彩色鉛筆のような淡い色彩が施されている。宏美は吸い込まれるようにその絵を見つめた。
熱い砂漠の遥か彼方に、揺らめきながら浮かび上がる幻の都。夢とも現とも区別のつかない儚い楽園。歩いても歩いても辿り着かない砂漠のオアシス……。旅人達を惑わし、苦しめる楽園。
宏美は足元が揺らめいているような錯覚を感じていた。立ち上る熱気と踏みしめても崩れていく足元の砂。どうしようもない乾きに苦しめられ、蜃気楼に翻弄される旅人。それはまるで、今の自分のようだ……。
「中川さん?」
 突然誰かが後ろから声をかけた。無想を破られた宏美は吃驚して振り向く。そこには一人の男性が立っていた。
「ああ、やっぱりそうだったんだ。よく似た人がいるなぁ……って思ってたんだけど」
 はにかんだような微笑を浮かべる。一瞬わからなかったが、その笑顔でやっと気がついた。シャンティの慎だ。
「ああ、吃驚した!」
 宏美は思わず大声になり、慌てて声を落とした。
「偶然ですね」
 そしてまじまじと慎を見る。何かいつもと雰囲気が違う。
「あ、そうか、バンダナ……」
 いつもはバンダナで額から上は隠されているが、今日はバンダナがない。少し広いめの額と黒いしっかりした髪。いわゆる無造作ヘアという雰囲気で自然な乱れ方だ。いつものシャープなイメージが和らぎ、普通のお兄ちゃんといった雰囲気だった。慎は照れくさそうに自分の髪をかき上げた。
「絵、好きなんですか?」
 慎が尋ねる。
「う、う~ん……」
 宏美は苦笑いしながら曖昧な返事をした。正直なところ絵画に興味があるかというとそうでもない。
「好きって言えたら格好いいんだけど、実はあんまり興味ないかも」
 てへっと照れ笑いをして見せる。
「あ、でも仏像とか遺跡とかは好きなんですよ。シルクロード展って書いてあったから観にきたの」
「そうなんですか」
「慎さんは?」
「いや、僕も実はさっぱり。たまたま買い物に来たんで、ついでに」
「なんだ」
 二人とも顔を見合わせて小さく笑った。
「もう観終わったんですか?」
「はい。今から出ようかなって思ってたら、中川さんを見かけたものだから」
「そうですか、私ももう出ます」
 二人は自然に出口の方へと歩き出した。薄いベニヤ板で囲われた安普請の出口を出ると、ポストカードやTシャツを売るワゴンが並んでいる。大きなポスターなんかも置いてあった。
「何か買います?」
「いえ、いいです」
 そのまま販売エリアを素通りして通路へと出た。展示会場と同じフロアーにはフードエリアがあり、そろそろ昼食を取る人々で込み始めていた。
「あの、もうお帰りですか?」
 宏美は慎を見上げた。カウンターの中に入っている時には気付かなかったが、慎は宏美より頭一つ分いや、それよりもう少し背が高い。
「良かったらコーヒーでもどうですか?」
 何気なく誘ってみる。どうせこれから一人で昼食を取るのだ。連れがいた方が気が紛れる。
 慎は驚いたような顔で宏美を見たが、ふわっと微笑んだ。
「お昼時だし、そうですね、軽く食事でも。幸いまだ空いてる店もありそうだし」
 二人は辺りを見回し、店を物色した。しばらく意見交換をした後、洋食中心のレストランに決定した。ここならなんでもありそうだ。
 二人は店に入ると四人掛けの席に向かい合って座った。注文を取りにやってきた若いウエィトレスに宏美はサンドイッチセット、慎はランチセットを頼んだ。
「でも奇遇ですね、こんな所で会うなんて。それもお互い全然絵とか好きじゃないっていうのに」
「本当に。でも、中川さん、最後の絵は随分熱心に観てたじゃないですか。だいぶ長い時間、あの前に立ってましたよ」
「……ああ、あの絵」
 楼蘭の姿が宏美の脳裏に甦る。
「なんか妙に、こう、心惹かれるっていうか……。楼蘭って言葉の響きが好きかな」
 なんだか曖昧な答えになってしまう。自分でも何故吸い込まれるように見入っていたのか、わからないのだ。
「ポストカードとか、買えばよかったのに」
「ううん、そんなんじゃないんですよ。それに、なんか寂しい絵だと思って。そんな寂しい絵、家に飾ってたら余計寂しいじゃないですか。只でさえ寂しいお一人様なのに」
 宏美は苦笑いした。
「一人?」
 慎が首をかしげる。
「そ、一人暮らしデス。あ~、それ以上は聞かないでね」
 宏美は手で制する真似をした。慎は肩をすくめる。
「聞きませんよ」
 慎はグラスの水を一口飲み、顔をしかめた。
「……カルキ臭い」
「え?」
 宏美も一口飲んでみる。言われて見ればそのような気もするが、宏美にとっては気になるようなレベルでもない。ふと慎が元々は板前だったという話を思い出す。和食の料理人の経験があれば、舌は敏感だろう。
「板前さんだったんですよね」
「ええ、十年くらい前の話ですけどね」
「和食とエスニックじゃ、随分勝手が違うでしょう? 味だって匂いだって凄い強烈だし」
「そうですね」
 慎は小さく頷いた。
「だから今の僕には和食はもう作れませんよ。エスニックに馴らされてしまってるから。でもエスニックはエスニックなりの繊細さが有るし」
「エスニックの繊細さ?」
「意外なくらい、味が深いと思いませんか? 辛い。確かに辛いけど、辛いだけじゃ旨くない。辛い中に色んな味が入って、色んな食材が入って、それが時間をかけてこなれて、馴染んで、それでようやく旨くなる。辛さで誤魔化しているような料理を出すような店もあるけど、そんなのは邪道でしょ。まして、ただの辛さ自慢みたいな激辛ナントカとか、何倍カレーなんて料理じゃない」
「確かに」
「トムヤムクンって知ってます? あれなんか、物凄く辛いけど、本当に複雑な味がする。全ての味が入ってるって言われてるくらいですから」
宏美は頷いた。トムヤムクンは一度食べたことがある。確かタイのスープだった。
「深い旨味があるから、病み付きになっちゃうんですよね。私は香草があんまり好きじゃないから、大好きって訳じゃないけど」
「多いですよ、香草苦手な人。日本人受けしない香辛料も確かにあります」
「あんまり食べつけない物を無理に食べると、お腹壊したりしてね」
 宏美の言葉に慎が笑いながら頷いた。
「日本の中で日本人向けに作るなら、多少はアレンジしないとまだ受け入れられにくい部分はあるかも。……そう考えると、やっぱり和食の経験が生きてるような気はしますね」
「ふうん」
 宏美は何度も頷いた。店の中では口数の少ない慎だが、料理の話となるとなかなか饒舌である。その語り口調には静かながらも、信念と情熱を感じることが出来た。自分の仕事に対する誇りなのだろう。サラリーマンでこういうタイプはあまりいないような気がする。
「慎さんって職人歴どれくらいなんですか?」
「え、高校出てから直ぐにこの道に入ったから……二十年かな」
 という事は三十代半ばから後半という事か。宏美は密かに計算した。自分よりも少し若いが、やはり同世代と言ったところだ。
「凄いな、料理一筋で二十年か」
 宏美は小さく首を振った。
「そんな事ないですよ。二十年なんて職人の世界じゃザラにある話だし、それに……」
 僅かに苦い表情になる。
「僕は途中で脱線してるから……」
 そして口をつぐんでしまう。その続きを聞きたい。宏美は脱線って? と聞こうとしたが、その瞬間ウエィトレスがトレイにサンドイッチセットを載せて現れた。
「来ましたね、どうぞ、お先に」
 慎がさりげなく促す。結局その話はそこで終わってしまった。

     *

 クリスマスが近づいてきた週末。仕事を終えた宏美はシャンティへと向かった。このところ連日忘年会で、いい加減疲れていた。幸い今日は忘年会の誘いもなく、一人ゆっくり食事が出来る日だ。かといって、一人寂しく部屋で夕食という気分にもなれない。休日なら家で料理もするが、平日は外食しなければ家に帰ってもきっと何も食べずにそのまま風呂場へ直行して、寝るだけになってしまうのだ。それではあまりにも味気ない。
 それよりもなによりも今日は慎に会いたかった。この間、百貨店で昼食を一緒にした時間は思いのほか楽しかった。特に何を話したという訳でもないが、いい気分転換だったのだ。
 サラリーマンのように学歴だ、職歴だとキャリアを看板にするのではなく、自分の腕と経験で世間を渡っていく職人というのが潔く思えた。自分には真似の出来ない仕事である事は間違いない。
 シャンティの扉を開ける。すっかりなじみになった香辛料の匂いがふわりと身体を包み込む。
「いらっしゃいませ」
 カウンターの中の原田と慎が同時に宏美の方を見た。自然と頬が緩む。
 宏美はぐるりと店を見回した。お客の入りは八割程度だが、幸い自分の指定席が空いている。原田がにこやかにいつもの席を指差した。
 宏美は席につくと原田が差し出したメニューを受け取った。
「今日は何にしようかな」
「今日のお薦めはプラウンカレーですよ。食べた事ありましたっけ?」
「ううん」
「レモン果汁がたっぷり入っていてさっぱりしてますけど、結構風味が引き立ってイケます」
「じゃ、それとプレーンのナンで」
「はい」
 宏美はメニューを原田に返した。カウンターの中の慎と目が合い、慎が小さく会釈する。頬に微笑が浮かんでいるのを見て宏美は少し嬉しくなった。
 原田と何気ない会話をしていると、店の扉が開き、数人の男性客が入ってきた。何の気なしにそちらに目をやり、宏美は凍りついた。
 男性客の中に田牧がいた。連れと話していたが、直ぐに宏美に気が付き一瞬動きが止まる。
「田牧さん、こっちですよ」
 連れに声をかけられ、田牧は宏美の後ろを通り、奥のテーブルへと向かった。田牧が宏美の背後をすり抜ける。田牧のコロンの香りがした。
 その途端、急激に心拍数が上がり、胸が苦しくなり始めた。どうしようもないくらい心の中がかき乱される。思わず両手で胸元を押さえたが、そんな事で動悸が治まるはずもない。息苦しさと混乱で、宏美は頭がくらくらしてきた。
「原田さん、ごめん!」
 宏美は苦しさに耐え切れなくなって立ち上がる。
「用事を思い出した。ごめんなさい、帰らなきゃ。オーダー通ってるわよね? お金払いますから」
「え? 中川さん?」
 宏美はそのままレジの方へと向かう。原田が慌てて追ってきた。
「どうしたの? 大丈夫? なんか顔色悪いよ?」
 宏美の顔を覗き込む。宏美は手を振って笑ってみせた。
「大丈夫。ごめんなさい、せっかくオーダーしたのに」
 財布を出すと原田が慌てて手で制した。
「五分待てる? テイクアウトにするよ。慎! 中川さん、テイクアウト!」
「はい」
 慎がちらりとこちらを見ると、すばやく動き始めた。
「ほんと、ごめんなさいね。急ぎの仕事を思い出してしまって。今日中にしなくちゃならないのすっかり忘れてた」
 宏美はそう言いながら財布から紙幣を出す。一連の動作をしながらも意識は奥の席の田牧に集中しているのだ。自分でもそれがわかるだけに苦しくて仕方がなかった。
「ごめん、外で待たせてもらいます」
 宏美は扉を開けて外へ出た。凍りつくような強い風が吹いている。宏美は身体をちぢ込めた。まさかこの店に田牧が来るとは思いもよらなかった。ここは田牧を忘れるためにきていたのに、これでは意味がない。
 ふいに涙がこぼれる。胸がかきむしられる様な苦しさだった。しばらく忘れていたのに、なんでこんな時に思い出させるのか。酷い男だ。
「中川さん、お待たせしました」
 扉が開き、慎が店のロゴの入った白い袋を手に出てきた。宏美は慌てて涙を拭う。
「ありがとう」
 包みを受け取る。慎が涙に気付き、顔を覗き込んだ。
「大丈夫、ですか?」
 心配そうに尋ねる。
「具合悪いんじゃないですか? 本当に大丈夫?」
「うん。大丈夫」
 宏美はコートの袖で鼻と口を覆った。慎にこんな情けない顔を見られたくない。
「タクシー、呼びましょうか?」
「本当、大丈夫。ありがとう。駅前でタクシー拾うから。ごめんなさい、心配かけちゃって」
 宏美は頭を下げると歩き出した。ふと後ろを見ると慎が心配そうに見送ってくれている。宏美は小さく手を振ると、慎も軽く手を上げてくれた。
 宏美は逃げるように足早に表通りへと向かった。

 ベッドの上に宏美は身体を投げ出し、ぼんやりと天井を見つめていた。シャンティの扉を開けて入ってくる田牧の姿がスローモーションになりながら、何度も頭の中でリピートされる。考えまいと思うのに、また繰り返される映像。なんと自分は莫迦な女なんだろう。
 皮肉な話だった。田牧と会えない時間が苦しくて、どうしようもなくなって逃げ場を捜し求めていたのだ。ようやくシャンティという店で文字通りささやかな心の平和を取り戻せたと思ったのに、そこに田牧が現れる。宏美の心をあざ笑うかのように。田牧の手から逃れられない自分が情けない。
 テーブルの上にはテイクアウトした包みが手付かずのまま置いてある。食欲はなかった。帰宅するや否や風呂場に飛び込み、シャワーを頭から被りながら泣いていたのだ。ひとしきり泣いてしまうと少しはすっきりした。いや、自分がすっかり空っぽになってしまったような空虚な寒々しい感覚だ。食欲どころか、テレビをつける気にもなれなかった。宏美は目を閉じた。
 
 どのくらい時間が経ったのか。遠くで目覚まし時計が鳴っている。宏美は条件反射のように枕元に手を伸ばし、スイッチを押した。それでも時計は鳴り止まない。
「……?」
 閉じようとする瞼を無理やり開けて時計を見る。時計は十時を指している。何がなんだかわからなくてもう一度時計のスイッチを押す。それでも音は止まらない。いや、音は時計から流れているのではないようだ。
「あ」
 時計の音ではなく電話の呼び出しだ。ベッドから転げ落ちるように降りると電話の受話器を取った。
「……はい」
 我ながら物凄く不機嫌な声だと思った。地獄の使者も顔負けだ。セールスの類ならば一発で電話を切るだろう。
「中川さんのお宅ですか」
 聞きなれない男性の声。セールスだろうか。
「そうですが」
「シャンティのヤマムラと申します。……恐れ入ります、中川宏美さんはいらっしゃいますか?」
「山村さん……?」
 宏美の頭はなかなか働かない。相手の言葉を頭の中で繰り返してみる。シャンティのヤマムラ、シャンティのヤマムラ、シャンティの……。
「シャンティの山村さん……? 慎さん? もしかして」
 恐る恐る訊ねてみる。電話の向こうの声がぱっと明るくなった。
「そうです、やっとわかってもらえた。中川宏美さん……ですよね?」
「あ、はい。え、何で?」
 宏美は電話を握ったまま戸惑う。何故慎が電話をかけてくるのか。
「アンケート用紙にご自宅の電話を書いてくださってたでしょ? すみません、ずかずかとお電話してしまって」
 電話の向こうで慎が恐縮しているのがわかる。一体何の用なのだろうか。
「そうでしたっけ?」
 警戒心が表に出て硬い口調になる。宏美の口調に気付いたのか、慎が慌てたように言葉をつないだ。
「すみません、お客様に個人的に連絡を取るのはマナー違反だとはわかってるんですけど、昨日の中川さんの様子があまりにも気になったので」
「え?」
「あの、大丈夫ですか? 電話に出ているって事はまあまあ大丈夫って事なんですよね?」
 心配そうな口調で念を押すように訊ねてくる。宏美はあっけに取られた。
「心配して、かけてくれたんですか」
「ええ。ちゃんと自宅に辿り着いたのかとか、途中で倒れてるんじゃないかとか、気になってしまって……。夜のうちに掛けようかとも思ったんですが、店を閉めてからだと真夜中なのであんまりにも失礼だなと……。せめて朝になってからならと思って……。いや、もし途中で行き倒れてたら自宅には辿り着いてないんでしょうから、余計慌てたんでしょうけど」
 慎は一気に喋ると、大きな溜息をついた。
「でも良かった。ちゃんと電話に出てこれたって事は、大丈夫って事なんですね?」
 宏美はゆっくりと床に座り込む。
「……ありがとう。大丈夫です。ちゃんと家に辿り着きました。体調も悪くないです、多分」
「そう、良かった」
 慎が呟く。宏美は何か気の利いた言葉を返そうと思ったが何も思いつかない。慎もその先の言葉が出てこないようで、電話の向こうで黙り込む。なんとも居心地の悪い、それでいてそれを破るのがもったいないような不思議な沈黙だった。
「じゃ、またお店に来て下さい」
 慎が電話を切ろうと口を開く。その言葉にかぶせるように宏美は慌てて喋った。
「あの、昨日のテイクアウトしてくれたカレーとナン。今から頂くんだけど、どうしたらいい?」
 何をとぼけた事を聞いているのだろう。そんな事、電子レンジでチンすれば済む話ではないか。なんてマヌケなんだろうか。しかしそんな言葉しか思いつかないのだ。それでもいい、もう少し繋がっていたかった。
「カレーは電子レンジでもいいけど、ナンはトースターの方がいいかもしれません。焦げないように軽くトーストしてもらえたら」
 慎は丁寧に答えてくれた。
「わかった。……慎さん」
「はい?」
「ありがとう」
「はい。じゃ、また。お店でお待ちしてます」
 慎は丁寧な口調で挨拶すると電話を切った。慎の声の変わりに単調な電話の機械音が流れてくる。
 宏美はしゃがんだまま受話器を元に戻した。そのまま壁に背中を預け、膝を抱える。腕の中に顔を突っ込んだ。
「……やばい」
 部屋の空気は冷え切っていて、手も足も冷たい。それなのにどうして頬だけ熱いのだろう。どうして脇の下に汗をかいているのだろう。どうしてドキドキしているのだろう。風邪やらインフルエンザでない事は確かだった。
「ホント、やばいかも……」

4に続く

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