![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/8f/f85ed53acc625ed58484939fedc3795e.jpg)
火の山山頂の公園に狩野芳崖が描いた地図がありました。
芳崖が故郷(長府)に戻り、糊口を凌(しの)ぐために、藩の地図製作に
関わったことは知っておりましたけどね。
あれれ? 1885年とあるな! 芳崖は結構長い間、貧乏したんだと思いながら、
写したんですけど、家に帰ってモニターで見てちょいとびっくり。
慶応元年となってるんだよね。おい、おい!って感じです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/eb/cda30234302ef754d4f056b3da26e286.jpg)
そんなことはともかく、僕が興味を持ったのは150年前のスリムな彦島と、
隣にあるべき大和町がない彦島のお姿なんです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/9f/60d9dfe946fdbf49bd88ad95157eaffa.jpg)
これが現在の彦島です。
ま、スリムだった彦島の方は、おいら達年寄りにとっては、どうってこと
ないのです。西山町の本土側なんて、おいら達の少年時代には埋め立てられて
なかったのを憶えています。
老の山の山頂から見える西山の海岸線は、ほんと、きれいだったんですよ。
松尾芭蕉が同時代の人だったら、「ああ、西山や、西山や」と詠んでかも
しれません。ま、少年期の思い入れだろうから、それほどまでってのは
実際ないのだろうけど、まあ綺麗だったんだ。
でも、大和町が間近にない彦島っていうのは、新鮮なイメージでした。
大和町が昭和初期に埋め立てられて出来たってのは、もちろん知って
いましたよ。
しかし、人間が持つイメージって、その人が生まれる前と生後では、
リアリティが、異次元の世界になるよね。
火の山山頂にて、大和町のない古地図を見た時、そのことをすごく実感。
本来の関門海峡を大瀬戸、彦島の海士郷と本土の伊崎町との間を小瀬戸と
言われてたのは、そりゃー、年寄りだから知ってたけどさ。
150年前の彦島と本土の具体的なイメージを見ると、「小瀬戸」と
言われてたことを、はらから実感しますよね。
で、僕達の世代が通ってきた彦島を、航空写真で追ってみました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/d8/0e7a92ac706d5aae8c2f254d3f2180b1.jpg)
1947年3月の写真です。僕達が生まれる寸前の彦島です。
西山町に繋がる首の部分、迫町が埋立で、「首」が太くなっています。
西山海水浴場の砂浜は、今の倍近くあったのも分かりますね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/97/13445f4cb85ef8e1f82f343d39a0db3e.jpg)
1960年5月の写真です。僕達が彦中1年生の時です。
大和町が完成形に近くなっています。僕の彦島&大和町のイメージは、
いまだこの時代に固定されたままです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/f0/acfa5d5629d48c3fec8009f4d3d1dc34.jpg)
1983年10月の写真です。僕達が35~36歳の時です。
就職や進学で下関を離れ、都会に住み着き、子育て等で忙しく、
あまり帰郷しない間に、彦島も変っていたのです。
この時代は高度成長だったから、ま、彦島も変わるのも当然なんだけどね。
にしても、この変わりよう!!
福浦湾は北岸が埋立で狭くなり、荒田も西山もはげしく埋め立てられてます。
竹崎、東大和町間の下関駅周辺も、埋立で広くなっています。
彦島大橋もかかり、関門橋もすでに架かっています。
外形とともに彦島内部も大きく変っています。
山中町・塩浜町・向井町が大団地としてすでに登場しており、彦島の中心が
大和町側の江の浦町や本村町から福浦口、塩浜口の移っています。
おまけに我らが彦島中学校の木造校舎も、この間に焼け落ちているんだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/9f/60d9dfe946fdbf49bd88ad95157eaffa.jpg)
再び現在の写真です。1983年からあまり変っていません。
変わったのは荒田の木材貯木場の埋立と、西山海水浴場の人工海浜化と、
西山町の本土側の海岸線が整備され、南風泊(ハエドマリ)への直通道路が
できたことぐらいですね。
by K
森がロールシャッハ・テスト受けたらどうなんだろうと、
連想しちまったよ。
なかなか興味深い写真ですな。