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庶民には読み書きそろばん以上の教育は不要…日本の指導者層が「あまりに高い大学費用」を放置する理由

2022年10月18日 06時40分06秒 | 教育

日本の大学の学費はなぜ高いのか。生物学者の池田清彦さんは「教養ある知識人を増やしたところで、資本主義にはたいして役に立たないどころか、反政府分子になる恐れも強い。むしろ庶民は読み書きそろばんで十分――。そのように日本の指導者層が考えているからではないか」という――。

※本稿は、池田清彦『平等バカ』(扶桑社)の一部を再編集したものです。

「富裕層の子ども」でなければ東大には合格できない

経済的な格差はあらゆる格差の元凶だが、とりわけ教育の格差に及ぼす影響は大きい。

教育社会学者の舞田(まいた)敏彦(としひこ)の調査によると、大学生のいる家庭の平均年収は私立が871万円、国立が854万円で、大学生の子がいる世代と想定される40代の世帯主家庭の平均である702万円や、50代の世帯主家庭の平均である782万円(「平成30年学生生活調査結果」日本学生支援機構、「平成30年国民生活基礎調査」厚生労働省の数字)と比較して、明らかに高くなっている。

また、学費が相対的に安い国立大生の家庭の年収のほうが高いのは、「国立大学は入試の難易度が高く、幼少期より多額の教育投資(塾通いなど)が求められるため」だと舞田は分析している。

つまり、ある程度以上の富裕層の子どもでなければ、国立行政法人の大学に入る学力をつけられないということだ。

東大生に限っていえば、その家庭の年収分布は40〜50代が世帯主の一般的な家庭のそれとは大きく異なっており、半数以上は世帯年収が950万円を超えているという(図表1)。

「受験は富裕層に有利」もはや当たり前に

ただし、これを意外な事実として受け取る人が果たしてどれくらいいるだろうか。

多くの人は、「それは当たり前だろう」と納得したに違いない。

もちろんダントツに勉強ができる子なら塾も家庭教師も必要ないだろうけど、それは極めてまれなケースであり、一般的にはどれくらい教育に投資したかが、その子の学力、ひいては学歴を左右するであろうことは、今の世の中を見ていれば誰だって容易に推察できる。

また、受験そのものも富裕層に有利にできている。

どこも受験料はバカにならないし、それを何度も払って何校も受験できる子のほうが、そうでない子に比べて大学に進学できる可能性は高いだろう。

学力以外の能力を測るとか、社会的な活動を評価するとかいう総合型選抜(旧AO入試)も、習い事や海外旅行などの豊かな経験を重ねているほうが明らかに有利なのだから、親の年収との関係は大アリだ。

大卒と高卒の格差は歴然

だからといって大学進学を諦めてしまうと、親と同様に経済的な弱者の道を歩むことになる可能性が高い。

大学進学率が50%を超えるような社会では、大卒であることの価値自体、実はあまり高くはない。

しかし、国民全体の学歴が底上げされたぶん、中卒や高卒では社会の低層に沈んだまま浮かび上がれない可能性が高い。

実際60歳までの生涯賃金(退職金を含めず)を大卒と高卒の場合で比較すると、男性の場合は約6000万円、女性の場合は7000万円も差のあることがわかっているのだ(『ユースフル労働統計‐労働統計加工指標集‐2020』)。

その差は歴然であり、結局それが我が子の学力の格差へとつながっていくだろう。

このような「格差の再生産」によって、埋めようのない格差は埋める術を持たぬまま、そのまま拡大していくのである。

「読み書きそろばん」以上を求めていない

だからやっぱり大学に行くしかないと奮起して、なんとか学力をつけて受験を突破したとしても、大学に入ったら入ったで授業料に頭を悩ますことになる。

私が東京教育大学(筑波大学の母体となった国立大学)に入学した1966年当時、国立大学の授業料は年間1万2000円だった。

当時の大卒の初任給はおよそ3万円だったが、現在は22万円ほどになっているので、それで換算しても年間9万円程度だから随分割安であったと思う。

しかし、1975(昭和50)年には3万6000円、1976(昭和51)年には9万6000円、1978(昭和53)年には14万4000円、1980(昭和55)年には18万円とうなぎのぼりに上昇していく(図表2)。

これは国家の指導層が、資本主義には読み書きそろばんと多少の事務処理ができる知的レベルがある労働者がたくさんいれば十分だと考え始めたせいだと私は思っている。

税金を使ってまで国立大学に通わせて、それなりの教養がある知識人を増やしたところで、資本主義にはたいして役に立たないばかりか、政府の政策にいちいち文句をつける、反政府分子になる恐れのほうが強い。

だったら授業料を高くして、貧乏人を遠ざけてしまおうという魂胆だったのだろう。

奨学金という名の立派な借金

しかし、当の一般大衆は、我が子には自分より多い収入を得させたいという夢を描いていた。そのためにはやはり大学には行かせなければと考えたので、授業料が上昇したにもかかわらず、大学進学率も同様に上昇していったのだ。

その後も財政悪化を理由に国から大学への補助金は年々引き下げられ、国立大学の授業料は2003(平成15)年には52万800円になっている。2004年に国立大学法人となって以降は53万5800円とされる標準額から一定範囲内なら独自の判断で授業料を増減できることになったため、例えば東京工業大学の2021年の年間授業料は63万5400円にまで膨(ふく)らんでいる。

授業料が高くても、奨学金などのケアがあれば公平なのだが、2020年に始まった国の修学支援制度は、住民税非課税世帯とそれに準じる所得の家庭に限られており、相対的な低所得層まで十分カバーされているとは言い難い。

奨学金の中には返済義務のあるものも多く、なかには有利子のものまで含まれるので、これはもう奨学金という名の立派な借金である。

大学に進学しても逆効果に

こうなると社会人生活とともに借金返済が始まることになり、頼らざるを得なかった奨学金によってマイナスからのスタートになってしまう。

大学を卒業したとしても、非正規社員などの不安定な職にしかつけなかった場合は、その借金のせいで生活はどんどん困窮していくかもしれない。

経済的弱者からの脱出を目指し、必死に努力して大学に進学したことがかえって逆効果になってしまうというのは、あまりにも気の毒な話である。

そういえば、私の若いころは、大学院の奨学金をもらえるかどうかは親の収入などとは関係なく、あくまでも成績順で決まっていたと記憶している。

大学院は純粋に学問をする場であることからしても、実にシンプルで理にかなったシステムだと当時は感じていたが、よくよく考えると、そのころは家庭の経済状況がいいあんばいに平等だったからこそ、それでよかったのだろう。

今も優秀な学生の授業料を免除するシステムはあるが、学力や体験の格差が、家庭の経済格差に左右される状況下では、そのような奨学金システムが果たして本当に公平なのかどうかは、なかなか悩ましい問題だね。

---------- 池田 清彦(いけだ・きよひこ) 生物学者、評論家 1947年、東京都生まれ。東京教育大学理学部生物学科卒。東京都立大学大学院理学研究科博士課程単位取得満期退学。専門は、理論生物学と構造主義生物学。早稲田大学名誉教授、山梨大学名誉教授。フジテレビ系「ホンマでっか!?TV」への出演など、メディアでも活躍。『進化論の最前線』(集英社インターナショナル)、『本当のことを言ってはいけない』(角川新書)、『自粛バカ』(宝島社)など著書多数。 ----------


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