人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

生命のながれ

2017-04-25 06:32:50 | スピリチュアル
 生命のながれというものは、実に悠々
とした、それでいて穏やかな流れであります。

 それは、我々のいのちの源である大生命が、
全く愛とゆるしにみちた寛やかさそのもので
あるからであります。

 この寛やかさのなかに入ること、それが
信仰でありまして、信仰とは、大生命の流れに
入り切って、神様の愛の光を浴びるということ
なのであります。

 愛というものは、これはもう理屈では
ありません。抱きしめて抱きしめて、そうして、
その一人びとりのいのちの流れを見守っている。
 これが神様の愛、宇宙の大元を保っている
調和の源なのであります。

 で、この愛の光と申しますものは、すべて
我々のいのちの中に入っている。我々は肉体で
生きている、身体が動いて心臓が動いて生きて
いると思うけれども、実は、その奥底は、
神様の愛の光によって生かされている生命
なのであります。

 神様の愛念が、私どもに及ばなければ、
この指の一本だって動きはしない。神様に
隷属する生命だというのではなく、
とてつもなく寛やかなほがらかな神の愛の
光が、私どもを生かしめ、動かせている
ということなのであります。

 何故なら、私どもは、神様の子供
なんだから。分生命(わけいのち)であり、
分御霊(わけみたま)なんだから。
 分かりますか?私どもは、神様の光の
一筋なの。私達のふるさとは神様なんです。
 私達の親、両親は神様なんだ。で、この
神様という方はね、人間が、地上で暮す為に
身につけた肉体を、自分自身だと思い
まちがえて、その為に、いくつもの苦しみや、
あやまちを何億回くり返して来たことをようく
知っているんですよ。だから、何とか、
お前達の帰る所はここだよ、こっちこっちと
まねいてまねいて、導いて、本体は決して
迷いも疑いも何にも無いひかり輝く生命だ
ということを知らせる為にね、その為に、
わたくしが来たんです。その為に世界平和の
祈りを下さったんです。

 世界人類が平和でありますようにって
祈りましょう。あの世界人類が・・・の祈り言をね、
口にしますと、それはそのまんま、我々の本心、
本体、我々の持っている、宇宙までずっと
しみとおって、その奥のからだ(悟っている、
分かっているからだ)と、我々の肉体が
唱和する。そうすると、肉体は、普段は
我にとり囲まれて、がんじがらめになって
いるものですけれども、世界平和の祈り
のような、すべてをずーっと浄めてゆく、
そういう祈り言にすっぽり包まれることによって、
その肉体をおおっている我が浄まるんです。

 そうしますとね、この我ってものはですね、
我々が何十回、何百回、何千回
生まれかわって身につけて来た、いうなら、
現世にいたるまでの魂のアカですわね、
それが浄まるってことは、それは、過去世が
浄まるってことなんですよ、分かります?
 皆さんは、五井昌久っていう、私という人間に
ここでこうして会って、世界平和の祈りに出合う
その為に、ずーっと今まで苦労を
して来たんですよね。御苦労様でした。
 だけどね、過去世を浄めて、そうして、今、
皆さんはここにこうして現在生きてる
訳でしょ。それじゃ、何の為に過去世を
浄めるかというとですね、それは、神様の
受け器として、皆さん一人ひとりが、
持ち場持ち場で十分に働いていただくその為
なんです。

 だから、世界平和の祈りというのは、過去世
ばかりじゃなく、現在につながって、我々を
本当に生かしめてゆく祈りなんです。

 じゃあ、現在、現在が過ぎればどうなるんだ
ということですけれども、私がいつも申して
おりますようにね、生きかわり死にかわりじゃ
ないけれど、我々のこのいのちというのは、
永遠でしょ。生き通しのいのちですよね。

 だから、向こうへ行っても修行がある。何の
為の修行かというと、素になる為の
修行ですよね。そのまんま、ありのままに
自分のいのちをよろこび、他人(ひと)の
いのちをよろこび、自然にとけ入り、草木に
とけ入り、空にとけ入り、ね、神様のいのちの
一部なんだということをよろこぶ。よろこべる、
そうなる為の修行がありますよね。人間
というのは、ずっとずっと進化してゆく
わけだから、そして、向こうへ行ってもね、
その進化した分、光が強くなって、それが愛
となって、地上にふりそそぐわけ。その愛の
エレベーターが世界平和の祈りですよ。

 ですから、世界平和の祈りは、過去現在
未来をつらぬいている大きな深い祈りなんです。
 そして、決してうばわれることのない
本心本体の光明は、宇宙の兄弟たち、そうして、
大神様につながっていますから、我々が、今
ここで唱える祈りは、宇宙に鳴りひびいて、
この身このままで、生命のながれのなかに
もう抱きとられているわけです。
 よろしゅうございますか?

 それではどうもありがとうございました。
      昭和63年1月14日 午前
           五井 昌久

信仰というもの

2017-04-24 07:29:26 | スピリチュアル
 神を信ずる者にとって、神がいるという
ことは、 ごく自然なあたり前な事実であります。
 私どもは、そこに神の愛の姿をみるので
あります。この信ずるというところから、すべてが
生まれ出てくるのであります。信ずるということ
なしに、我々の生命は発現致しません。

 今、私がここで、生命と申しましたのは、目に
見える肉体の生命だけのことではない
のであります。肉体を支え、さらに、我々自身を
ありのままに動かしめているもの、奥の奥の
朗らかな生命をいうのであります。

 この生命を覚知する時、人は信仰に入って
ゆくのである。目に見える世界が、実は目に
見えないさまざまの力、愛情によって支えられて
いるということを知る時、人は信仰に入るので
あります。

 これを私は、神の愛と呼ぶのであります。信仰
とは、神の愛に抱きとられていることを知った
人間が、もはや、引き返すことなく、すなおにその
ふところの中に抱かれることをいうのであります。

 こういう風に申しますと、我々の心は、
しょっちゅう迷っているではないかといわれる
かも知れません。実際、我々の心は迷いに迷って
いる。迷っているという状況だけを見ますと
その通りであります。

 しかし、それは、心というもののごく入口の
ところを指して、悲しんでいるとか迷っている
とかいうのでありまして、真実の心は、迷いも
疑いもないのだ。人間はみな、神の分霊(わけ
みたま)である。光の子なのであります。
 私どもの奥の奥にある内蔵されている
本来心は、実は、少しも迷っていない。
ひかり輝いて、光そのものとなっている
のであります。

 祈りというものは、この奥深く内臓されている
光明そのものの自分自身、法身を引き出して
ゆく為にあるのであります。南無阿弥陀仏も、
主の祈りも、すべて、神に仏に呼びかけてゆく
祈りは、この自らのうちにある光を自覚し、顕現
する為のものなのであります。

 私どもの、世界人類が平和でありますように
という祈りは、その光明の大親玉と申します、
大親分なのであります。これ以上純一な祈りは
ない。自他を愛し、ゆるし、祈るところに
大光明が輝く、その易行の頂きの祈りであります。
それは、神のこころが、自他などという
わけへだてなく、ただ、愛とゆるしと光とを
私どもにふり注いでいる。この宇宙にふり注いで
いる。この大調和を祈りにしたもの
でもあるのであります。
 いわば、生命と生命の合唱、神と、神から
分かれて来たいのちであるところの
私どもの、合唱なのであります。

 ですから、どのように我々の心が迷いましても、
真実のところは、しっかりと神の愛によって
結ばれ見定められているということを信じて
ゆきますと、明るくならざるを得ない
のであります。

 我々の信仰は、神の愛の光によって、光明
によって結ばれている。この信仰は、我々の
いのちの大元が限りなく明るいものだ
ということを、体に心に刻んで、この世を
生活してゆく為のものなのであります。神の
みかお、みこころというものは、大愛そのもの
なのであります。
 我々は、その大愛に回帰してゆく一人びとり
なのであります。
 世界人類が平和でありますように
        昭和62年11月14日 朝
            五井 昌久

愛一筋に

2017-04-23 09:12:06 | スピリチュアル
         〇
一つとして同じ言葉はないと思わせる人の
雄弁は感心させられるね。けれど、愛一筋に
同じことを、かんでふくめるように言って
いらっしゃるのが神様。分かるかな。
         昭和62年8月29日