人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

偶々成詩献友

2011-06-23 10:13:02 | スピリチュアル
日月天在人照心
人者光為互観自
眼放水者其流楽
草木之戦覚恵神
天地統誰声云聞
星微笑愛投降地
語不止人之心相
即聴其実相神之
愛児光源宇宙帰
永遠生命往還己
己満愛世界知足
心天地朗高唱我
人間之超無空離
自由自在身為唯
献祈自光明放忘
茫々空々然非虚
久遠流身任大我
大我小我抱即一
生命太初人運行
其流悠々如大河
神慮愛尽未来際
止休人憩光之屋
自在生命歓喜之
声者到天我人倶
永遠之自由身謳


今日は私のつくりました詩を
もとにして祈りということを
考えてみたいと思います


日月天在人照心
人者光為互観自

(じつげつはてんにありてひとのこころを
てらし、ひとはひかりとなりて
かたみに、みずからをかんず)


 日月、太陽も月もですね、それは空にあって
それぞれが光を万物に届かせているわけ
ですけれども、人間のどこを一番照らしているか
というと、それは、心、本心、いのちの
みなもとを照らしている、というんです。
 勿論、からだも照らしますよ、けれど、からだを
照らしながら、その実は、人間の心、おおもとを
てらして、神様の愛を伝えているとこういう
わけです、これは真実なんですよ、事実
そのまんまです。
 で、その光を受けた人間、神様の愛を日月の
光から感じとった人間はどうかというと
ほん然と、本来の自分の姿、光そのものの自分
であることをさとってですね、光明となって
お互いに、その光体光身を、しみじみと
永遠者の前にさながらにみつめるわけです。
 自分の本来をつくづくとながめる
わけですよね、ようございますか?


眼放水者其流楽
草木之戦覚恵神

(めをはなてばみずはそのながれを
たのしみ、くさきのそよぎにすらかみの
めぐみをさとる)


 第一句が日月は天にありてで、うーんと高い
感じでしょ、それで、おんなじことを、今度は
我々の生きてるこの地上にみてみよう、と
こういうわけですよね。
 眼を地上に移してみると、せせらぎにしても
大河にしてもですね、水というものは、自分が
どんな風に流れようとか、流れたいとか一切
考えない。ねっ。それでいて、おのずからなる
そのながれを、ながれのまんま楽しんでいる。
 任せ切った姿ですね、それでもって悠々と
してる。朗らかでさえある。
 実は、我々を生かしめておりますいのち
というものも、このとおりなのでありまして、その
相(すがた)は、悠々としたものなのであります。
 真理の相の無邪気さ、朗らかさを、わたくしは
ここでうたったつもりです。
 さて、そこで、水の流れの自在なすがたを
受けて、今度は、自然に眼を向けてみました。

草木之戦覚神恵
(くさきのそよぎにすらかみのめぐみをさとる)

 くさきは、そのそよぎにすらかみのめぐみを
さとる。そよぎですから、それ程の風じゃ
ありません。ありませんけども、自分自身を
ゆらゆらさせる、フラフラさせるものには
ちがいないんです。
 これを、人間世界におきかえると、火事に
なるってことかも知れないし、病気になる、貧乏
になるってことかも知れませんよね。
 とにかく、いいことじゃない。この世で、不幸と
よばれているもののいくつかに襲われる、そういう
ことです。
 けれど、地の上の草木は、突然風が吹いて
きて、踏んばるのがやっとなんていう時にもね
ああ、これは神様が私に働いていて下さるからだ
神様ありがとうございますって、イヤホントですよ。
 私なんぞ、花の精や木の精としょっちゅう
そういうことを話してるんですもの、で
そういう風に、感謝してしまう。ありがとう
ございますといってね、神様と一体になる。
 いつも、私のいってる消えてゆく姿で
世界平和の祈りそのものですよね。
 神様の愛を受けて、万物は生い育っているんです。
 勿論、その筆頭に人間がくる。そうすると
本当に、素直な、さながらのすがたになるとですね
あらゆることに、いいことに出合っても、また悪い
ことに出合っても、神様ありがとうございますって
いえるようになるんです。それが自然なんです。
 次にいきましょうか?


天地統誰声云聞
星微笑愛投降地
語不止人之心相

(てんちをすべるは、たそというこえを
きけば、ほしはほほえみてあいをちに
なげ、ひとのこころのすがたをかたりて
やまず)


 この天地、あめつちのすべて、すべてを
統(お)さめていらっしゃるのはどなたでしょう
と、問いかけ、これは、人間からの問いかけ
ですよ。問いかけを耳にした星は、にっこりして
人の心の真実の相(すがた)について語り
はじめた、それは、うむことなく語り
つづけられた─という意味です。
 ここでは、人の心というものに主眼を
おいています。
 この天地すべてを治めておられるのはどなた
なんだろう、こういう人間の呟(つぶや)きが
きこえてきた時、星が、地上に投げたものは
愛だったというのです。
 神様という言葉を、ここでは使って
おりませんけれど、愛を投げた、しかも、にっこり
笑って投げたということで、この愛が、神様の
愛だということをあらわしているわけです。
 いつも申しますように、神様という方を、別の
言葉におきかえるとすれば、それは極みのない
愛なのです。徹底した愛なのです。
 その神の愛を地にふりそそいで、そうして
人の心、本心の姿というものについて、うむこと
なく語りつづけたところですね。人の心が
神の愛をあらわす主体であることをここでいいたい
のであります。心をさかのぼれば、本心、本体に
なってゆくのであります。


即聴其実相神之
愛児光源宇宙帰
永遠生命往還己

(すなわちきかずや、そのじっそうは
かみのあいじにして、こうげんは
うちゅうにきし、えいえんのいのちは
おのれにおうかんす)


 さあききなさい、と、こううながしている
わけですよ。
 人間の心、本心というものの真実、それに人間
というものは、神様のいとし児なんだということね。
 人間っていうのは、神からきて、神に帰るいのち
ですからね。よく帰命(きみょう)帰命って
いうけども、帰命ってのは、これをあらわした
言葉なんです。
 もっというと、神様から分かれてきた人間は
我々自身のなかに神そのものの愛とゆるしと
智恵を、持っているわけなんです。本当に
神の子なんです。
 ですから、自分をみがいてみがいて、祈って
祈って、心を澄ませてゆけばね。人智ではない
神智がかがやきとともにあらわれ出るんですよ。
 その神様の光でもって、人間は、いのちを
養ってるんです。その光は、どこまでたずねる
ことが出来るかっていえば、勿論神様ですけど
それをここでは、愛の気、平和の気、世界人類が
平和でありますようにっていう世界平和の祈りが
なりひびいている宇宙の大奥にまで、たずねる
ことができる、源は宇宙から来てるって
いってるんです。
 そうして、その光の源、いいかえれば、永遠の
いのち、生命はですね、もうすでに、一人の
人間のなかに自由に内包されて、ぐるぐると
まわって、幾万世代にもわたっていのちという
ものの場所になってる。それが、この器である
人間の肉体であり、又、人間それ自身の真性
なんだ。自在ないのちのなかに、人間は
遊んでるんだ。それが、人間の本来の相であり
肉体人間を生かしている直霊、本心の真実の相
なんだとこういうことです。


己満愛世界知足
心天地朗高唱我

(すでにあいにみちたるせかいとしりて
た(足)らい、こころこそてんちとわれは
ほがらかにうたわん)


 こうやって、人間、またこの世界というものの
実相を内観してきますと、もう愛で満ちて
いる。あふれている。
 こういうことがわかってきますと、本当に満足
するんです。嬉しさでいっぱいになってくる。
 そうでしょう?
 そこで、自分自身を生かして下さっている
心─本心ですよね、本心こそ、自由の天地だと
高らかに唱いましょう、というんです。さしずめ
ここは、ベートーベンの歓喜。合唱にあたる
部分ですね。


人間之超無空離
自由自在身為唯
献祈自光明放忘
茫々空々然非虚

(じんかんのむをこえくうを
はなれて、いのりをささげ、おのずから
ひかりをはなつことをもわする。ぼうぼう
くうくうしかれどもきょ(虚)ならず)


 さあそうなってくると、人間という
ものはですね、もう本体だけ、光だけに
なってるんですよ。無とか空を超えちゃって
はなれて本当に自由になって、ただ、神様と
一体になって、祈りをささげている。もう
自分のからだから、すばらしい光が出てる
ということも忘れている。忘れていると
いうよりね、もうそれはどっちでもいいんだ
ということになる。そんなことどっちだって
いいんです、全く我(が)というものをはなれた
輝きにかがやいたそういう人間の本当の姿が
あるんです。それは、ひろびろとしてね、ひろやか
になって、何にもとらわれるものがないという
そういう状態なんで、決して、うつろな、むなしい
状態じゃないと、こういうことですね。
 祈りをささげて、祈ってることさえ忘れる
それ程に、神様と一体になっていると
そういうことです。


久遠流身任大我
大我小我抱即一
生命太初人運行
其流悠々如大河

(くおんのながれにみをまかせて、たいが
となる。たいがしょうがをいだきて
すなわちひとつ。いのちはたいしょに
ひとをはこびゆけば、そのながれは
ゆうゆうとして、たいがのごとし)


 で、こういう私達、すみきわまった人間
というものは、久遠の神様の愛の流れへと
身をまかせて、宇宙そのものになるというんです。
 宇宙というものは、もう何物をも呑み込んで
しまう。とらわれにみちた肉体我といった
ものも、全部抱きとって、宇宙そのものとなった
自分自身があるだけだ、つまりは、限りなく一つ
となるのだ、ということです。 これは、神と
一つということでもありますし、直霊と一つに
なるということもありますが、さらに、宇宙神が
混沌のなかから、愛の気をみたして宇宙を
つくられた、そのおおもとである一に帰る
つまり、いのちに帰るのだということであります。
 いのちというもののはじまりに、祈りは
世界平和の祈りは、こうして、私どもを運んで
ゆくのでありまして、この祈りによって、いのちの
流れのなかに溶け込みますとき、全くその流れが
大河のようにゆったりとおおらかな朗らかな
ものであることを私どもは知るのであります。


神慮愛尽未来際
止休人憩光之屋
自在生命歓喜之
声者到天我人倶
永遠之自由身謳

(しんりょはあいにしてじん
みらいざい。やむことなくひとを
ひかりのおくにいこわせん。じざいなる
いのちよ。かんきのこえをてんに
いたらしめ、われひとともに
とこしえなるじゆうしん、をうたわん)


 神様の心というものは、未来永劫、ずっと
愛なんだということですよね、そうして、つねに
一人びとりを、ひかりの家にみちびいて
休ませているということです。
 自在なるいのちよ、これは、自分への
語りかけです。よろこびの声を天に
到らせて、私も、天地の霊人たちも
ともどもに、この朗らかな自由身、自在身の
よろこびをうたおうではないか・・・
 と、ざっといいますと、こういう詩なんです。
 これは、真実の相であって、しかも、我々は
毎日の生活に疲れ果てているけれども
ひとたび、世界平和の祈り言を唱えて祈って
ゆけば、こうした真実の本来の自分に
出会えるんだということなんです。自分自身に
出会うために祈りはあるんです。その自分
というのは、朗らかな神のいのち、大我、宇宙
そのものであるということなのであります。

            昭和62年3月6日 夜

  「偶々成詩献友」の稿 終了