飛騨さるぼぼ湧水

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正義感こそ社会の骨! 馬鹿の語源

2017-06-17 18:38:10 | エッセイの部屋

以前、宮城谷昌光氏の中国古代史の本を読んでいた時、「馬鹿」と言う言葉の語源が出てきた。
秦の始皇帝が死んだ時、傍で仕えていた一人の宦官が権力を握った。
彼は、始皇帝の息子が来た時に、皆の前で鹿を指差して、「あれが馬です」と言った。
始皇帝の息子は、「変な事を言うな、あれは鹿じゃないか」と答えた。
すると宦官は、「いやとんでもない、あれは馬です、なあ、皆よ、そうだろ?」と周りの大臣達に問い正した。
すると、大臣達は、彼を恐れて、皆が「馬です」と答えた。
これお見て、息子は、もう権力は自分には無い事を悟って宮殿を去った。
と言うような話だった。
宦官に逆らえば命や地位も失う、その威を恐れた人達は、そろって鹿を馬と呼んだのだ。
同じような事が現代の日本の中でも起こっている。
最近では文部省の加計学園問題の書類や学校での「いじめ」問題調査である。
権力者が「そんな書類は無い!」と言うと、威を恐れた内部の人達は皆、口を揃えて「無い!」と言う。
同様に「いじめは無かった!」と言うと、内部の皆が口を揃えて無かった!と言う。
前述の二千年前に宦官に合わせて大臣達が、鹿を馬と言ったようにである。
私は、こんな「長いものに巻かれろ!」的な、「空気を読む」的な、または「周囲に合わせる」的な日本社会ならば、先に希望が持てないと憤慨していた。
しかし、その後、鹿を鹿だと言う気骨のある人達もいる事を知って、少し安心した。
有ったものを無いと言ったり、白を黒と言ったりする事は、例え強要されたとしても天に恥じ良心にも恥じる嘘つきの言動である。
世の中、正義感を発揮する人達が少なくなり、打算的な人達ばかりになると、社会や組織は腐敗する。
自分の不利益を返り見ずに悪に憤慨する人達が増えないと世の中はエアで風通しが良くならない。
私も入社5年眼の会社時代に、些細な事をきっかけに自分よりはるかに大きな力を持っている先輩に一人で立ち向かって一撃を与え、会社をやめた。
その先輩の思想と行動が社会的正義感から許せなかったからである。
その先輩に、どんな弱い立場の人間も、本気になって怒ると怖いぞ!と言う事を分からせておかねば!と思ったからだ。
その先輩は他社の優秀な若者を将来自社の後輩が負けてしまうからと、立場の低い内に潰そうとした。
他にも私が寮生の会長の時に、会社の食事全般を担当していたヤクザのような会社に正々堂々と公開質問状を出して、それをきっかけに会社の人事部長と協力して最終的に追い出した事もあった。
世の中をうまく渡るには、もっと賢くならなければと言う人がいるかも知れない。
しかし、私は悪に対する憤慨は大いに持つべきで、その行動おいては賢くなるべきで、常に天に恥じず、良心に恥じぬようにすべきと思っている。
もっと端的に言えば、目に見えない神仏や先祖が見ている。
そして嘘をつけば、死後に閻魔様に舌を抜かれると本心から思っている。

(おわり)

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