Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

おまけ(その7)マザー・テレサの言葉

2010-05-31 00:04:24 | おまけ
(90)スコピエ(マケドニア)のおまけ記事



 マザー・テレサの言葉(詩)を紹介したい。
 以下の詩を知ったのは数年前のことで、この時の旅とは直接関係ないのだが、心に響く言葉だと思う。



 もともとは1968年、ケント・M・キース( Kent M. Keith )氏が19歳の時に高校生の生徒会のリーダー向けに書いた詩『逆説の10カ条』である(キース氏の HP (英語)はこちら)。
 その詩が30年近く経過した1997年に Calcutta (カルカッタ)(正式名称 Kolkata (コルカタ))(インド)にあるマザー・ハウス(マザー・テレサの家)の壁に書かれていたことを知った。
 口コミ・ネットで広がった詩を、マザー・テレサも大切にしていたことを知ったキース氏は、この詩を出版することにした(日本語訳は早川書房より発売されている(『それでもなお、人を愛しなさい―人生の意味を見つけるための逆説の10カ条』))。

※マザー・ハウスの壁に書かれた詩は、キース氏の原文にある6番目と7番目の文章が抜けている。代わりに最後の一文が加えられている。
  


 【 Do It Anyway (『あなたの中の最良のものを』)(マザー・ハウスの壁に書かれた詩)】



 人は不合理、非論理、利己的です

 気にすることなく、人を愛しなさい



 あなたが善を行なうと

 利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう

 気にすることなく、善を行ないなさい



 目的を達しようとするとき

 邪魔立てする人に出会うでしょう

 気にすることなく、やり遂げなさい



 善い行ないをしても

 おそらく次の日には忘れられるでしょう

 気にすることなく、し続けなさい



 あなたの正直さと誠実さとが

 あなたを傷つけるでしょう

 気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい



 あなたが作り上げたものが

 壊されるでしょう

 気にすることなく、作り続けなさい



 助けた相手から

 恩知らずの仕打ちを受けるでしょう

 気にすることなく、助け続けなさい



 あなたの中の最良のものを世に与えなさい

 けり返されるかもしれません

 気にすることなく、最良のものを与え続けなさい



 最後に振り返ると、あなたにもわかるはず

 結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです

 あなたと他の人の間であったことは一度もなかったのです  



 【 The Paradoxical Commandments (『逆説の10カ条』)(キース氏の原文)】

1.People are illogical, unreasonable, and self-centered. Love them anyway.

2.If you do good, people will accuse you of selfish ulterior motives. Do good anyway.

3.If you are successful, you win false friends and true enemies. Succeed anyway.

4.The good you do today will be forgotten tomorrow. Do good anyway.

5.Honesty and frankness make you vulnerable. Be honest and frank anyway.

6.The biggest men with the biggest ideas can be shot down by the smallest men with the smallest minds. Think big anyway.

 (最大の考えをもった最も偉大な男女は、最小の心をもった最も卑小な男女によって打ち落とされるかもしれません。気にすることなく、大きな考えを持ちなさい。)

7.People favor underdogs, but follow only top dogs. Fight for a few underdogs anyway.

 (人は弱者をひいきにはしますが、勝者の後にしかついていきません。気にすることなく、弱者のために戦いなさい。)

8.What you spend years building may be destroyed overnight. Build anyway.

9.People really need help but may attack you if you do help them. Help people anyway.

10.Give the world the best you have and you'll get kicked in the teeth. Give the world the best you have anyway.



 【マザー・ハウスにて追加された最後の一文(原文)】

 You see, in the final analysis,it is between you and God. It was never between you and them anyway.



※この詩に映像と音楽を加えて作られた動画を発見したので紹介したい(動画はこちら)。

 (追記)上記の動画は削除された模様。

(90)スコピエ(マケドニア)

2010-05-30 05:01:00 | 旧ユーゴの国々
 Belgrad ( Beograd )(ベオグラード)の後どこに行くか迷っていたが、コソボ(当時の名称はコソボ・メトヒヤ自治州)行きを諦め、Skopje (スコピエ)(マケドニア)に行くことにした。旧ユーゴスラビア連邦から1991年に独立した為、状況も落ち着いていると判断したからだ。

 ちなみに独立後の正式名称はマケドニア共和国なのだが、ギリシャの反対もあり、マケドニア旧ユーゴスラビア共和国として国連に加盟している。
 地理的にマケドニアと呼ばれてきた地域は、現在のマケドニア(国土の4割)だけでなく、ギリシャ(5割)やブルガリア(1割)も含んでおり、反対したギリシャの国内にはマケドニアという地域がある。古来より「マケドニアを制する者はバルカンを制する」と言われた土地だ。
 マケドニア(紀元前808年~紀元前168年)のアレクサンダー大王(アレクサンドロス3世)(紀元前356年?~紀元前323年)は、マケドニアからエジプトインドまで遠征している。
 


 夜行列車で所要約10時間。国境を超える乗客は少なかった。客車の中は寒く、あまり眠れなかった。
 この日はユース・ホステルに泊まることにした(1泊約1500円)。
 
 観光したのは下記の通り。

マザー・テレサ像  ここスコピエにはアルバニア人の家庭に生まれたマザー・テレサ(1910年~1997年)生誕の地がある。アレクサンダー大王はインドの人々を戦いに巻き込んだが、マザー・テレサはインドの人々をその愛で救った。



※今年で生誕100周年を迎えたマザー・テレサの言葉はこちら

城塞  11世紀の城塞跡。丘からは市街を一望できる。

聖クリメント大聖堂  1990年に建てられた新しい教会。これが現代風なのか、建築も今まで見て来た教会とは一風変わっていた。



オールド・バザール  巨大なマーケット。敷地内にマケドニア博物館がある。

・マケドニア博物館  マケドニアの考古学・民俗学を中心に展示。

スコピエ博物館  死者3000人を出した1963年の大地震で半壊した旧鉄道駅を利用している。外壁にある時計は地震のあった時刻( PM 17:17 )を刻んでいる。

国立美術館  残念ながら閉まっていた。



 スコピエに1泊した後どこへ行くか正直迷った。
 この頃になると、ヨーロッパの国々をスタンプラリーのように巡りたくなっていた。

 マケドニアの隣には、第二次大戦後長い間鎖国状態でベールに包まれていた国アルバニア(アルバニア共和国)がある。この国の情報はほとんど入って来ていなかったので、正直この旅を始める前までアルバニアの存在を知らなかった。
 故ミロシェヴィッチ(スロボダン・ミロシェヴィッチ)大統領が進めたエスニック・クレンジング(民族浄化)により、コソボにいたアルバニア人80万人以上が難民となって国外へ流出し、その約半分が隣国アルバニアへ避難した(現在もアルバニアに留まったままの人々もいる)。そのせいもあり治安は良くないと聞いていた。
 アルバニアの首都 Tirana (ティラナ)までの直通バスがあると聞いていたが結局行くのを諦めた。

 ちなみに、コソボ共和国の独立は現在の時点で、国連加盟192ヶ国のうち半数にも満たない69ヶ国(日本含む)からしか認められていない。
 国民の9割以上を占めるアルバニア人が隣国アルバニアとの合併を望んだ場合、国境線の引き直しに繋(つな)がる。それは民族問題を抱えている国々にとって、火の粉が降りかかることにもなりかねないからだ。

 マケドニア国内にも見所はある。観光名所となっている世界遺産の街 Ohrid (オフリド)だ。
 食堂で出会った自称実業家のおじさん( Mr.Mise )の話では、ここには美しい湖(オフリド湖)があり、日本の企業に工場誘致を働きかけたらしい。実際に日本から視察に来ていたそうだ。しかしここも行くのを諦めた。

 アルバニア行き、そしてオフリド行きを諦めて行くことにしたのは Venezia (ヴェネツィア)(イタリア)だ。
 ネットで調べたところ、名波浩さん(元サッカー日本代表)の所属する ACヴェネツィア(現在の FBCユニオーネ・ヴェネツィア)とユヴェントスF.C.の試合が間近に迫っていた。
 当時のユヴェントスには、ジネディーヌ・ジダン氏(元フランス代表)や、エドガー・スティーヴン・ダーヴィッツ氏(元オランダ代表)、アレッサンドロ・デル・ピエロ選手(元イタリア代表)、フィリッポ・インザーギ選手(現 ACミラン)(元イタリア代表)といった名選手が在籍していたので是非見たいと思ったのだ。
 それにこのところずっと暗い気持ちになっていたので、ラテンの国に行って明るい気分になりたかった。この選択は正解だったと思う。素晴らしい出会いがあったからだ。

※地図はこちら

(89)ベオグラード②(セルビア)

2010-05-29 23:07:00 | 旧ユーゴの国々
 Belgrad ( Beograd )(ベオグラード)では、NATO (北大西洋条約機構)によるセルビアモンテネグロコソボに対する空爆(アライド・フォース作戦)(1999年)の跡が見られた。

 (写真は空爆された政府庁舎)



 当時Jリーグで、ドラガン・ストイコビッチ氏(現名古屋グランパスエイト監督)がアンダーシャツに【 NATO STOP STRIKES 】と書いて抗議の意を表明していたが、平和な国日本では温度差があったような気がする。
 他にも、モンテネグロ出身の選手達が遺憾の意を表明していた(ゼリコ・ペトロビッチ(浦和レッドダイヤモンズ)ネナド・マスロバル(アビスパ福岡)アント・ドロブニャク(ガンバ大阪))。当時モンテネグロはユーゴスラビアから分離・独立前だった。

 彼らが抗議したのは、民間人も被害を受けていたからだ。
 【二頭の象が戦うとき、傷つくのは草だ】というケニアの諺(同じような諺は他の国にもある)を思い出した。
 故ミロシェヴィッチ(スロボダン・ミロシェヴィッチ)大統領の行ったことは許されるものではないかもしれないが、結局のところ被害を被るのは一般市民だ。



 前述の軍事博物館では、空爆で使用された爆弾の不発弾(爆発部分を取り除いたもの)を展示していた。
 トマホーク(巡航ミサイル)や AGM-88(対レーダーミサイル)、停電爆弾( Graphite bomb )(クラスター爆弾の一種)などがあったが、クラスター爆弾は不発弾が多い為、世界的に使用禁止への流れがある。
 また、セルビア側の砲撃で3台の F-117(ステルス攻撃機)が撃墜されたらしく、そのうちの1台の写真も展示されていた。



 この時、誤爆されたという中国大使館にも行っている(不気味すぎて写真を撮る気になれなかった)。
 廃墟と化した建物がそのまま残されていた。中国側の無言の抗議の姿なのかもしれない。
 辺りに建物が密集しているわけでもなく、誤爆というのは正直信じがたいと感じた。
 アメリカ側の言い分は、古い地図を元にした為、軍の施設だと誤って判断したからだと言うことらしい。
 
 軍事博物館の職員の話では、ユーゴ紛争時に、中国はセルビアに武器を輸出しており(ライフル1丁=$15)、アメリカはクロアチアに輸出していたらしい。実は誤爆ではなく、中国を威嚇(いかく)したのかもしれないと思った。
 あるいは他に理由があるのかもしれない。様々な憶測が飛び交ったが、真相は分からないままだ。

※中国大使館誤爆事件の責任者ウィリアム・J・ベネット氏はこの事件の責任を取る形で CIA を解雇されたが、昨年暗殺された。

※地図はこちら

(88)ベオグラード①(セルビア)

2010-05-28 23:58:43 | 旧ユーゴの国々
 Belgrad ( Beograd )(ベオグラード)にはこの時3泊している。

 当時は故ミロシェヴィッチ(スロボダン・ミロシェヴィッチ)大統領が政権を握っていた(この年の秋に退陣)。
 街には特に混乱は見られなかったが、人々の心には現政権に対して不満がある模様。
 ここ何年か反ミロシェヴィッチ集会も開かれ、20万人近い人々が集まったそうだ。
 若者達は外国に行きたがっているが、ビザが取れないらしい。



 この時観光したのは下記の通り。

カレメグダン公園  動物園や、教会(聖ペトカ教会・聖ルジツァ教会)、博物館(自然史博物館・軍事博物館)、他にもいろいろ見どころがある。

・動物園  カレメグダン公園の敷地内にある。映画『アンダーグラウンド』( Sarajevo (サラエヴォ)(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)出身のエミール・クストリッツァ監督の作品)にも登場。

・軍事博物館  カレメグダン公園の敷地内にある。職員の若者達がガイドブックをただでくれた。旅が出来るなんて羨ましいと言っていた彼らは今どうしているだろうか。

セルビア正教大聖堂  現在の建物はセルビア王国(近代)(1882年~1918年)君主ミロシュ・オブレノヴィッチ1世によって建て替えられたもの(1840年完成)。

聖サヴァ教会  セルビア正教の中心的教会。東方正教系の教会としては世界最大。聖サヴァセルビア王国(中世)(1171年~1346年)の初代君主ステファン・ネマニャの息子。1935年に建設が始まり、現在もまだ完成していない。



アレクサンダー・ネフスキー教会  何度か改修され、現在の姿になったのは1930年。中には入っていない。

国立博物館  セルビアで最初に出来た博物館(1844年に開館)。美術品も多数展示されていた。

 ちなみに、旅日記にメモしてある画家・彫刻家の名前は下記の通り。

 Uros Predic (1857年~1953年)
 Rista Vukanovic (1873年~1918年)( Uros Predic と Rista Vukanovic の参考記事(英語)はこちら ※リンク先削除)
 Simeon Roksandic (1874年~1943年)(参考記事(英語)はこちら)
 Stevan Aleksic (1876年~1923年)(参考記事(クロアチア語)はこちら ※リンク先削除)
 
スカルダリヤ通り  夜になるとレストランで民族音楽を披露してくれる。



 ベオグラードには、かつてドラガン・ストイコビッチ氏(現名古屋グランパスエイト監督)の所属した、レッドスター・ベオグラード(セルビア語で Crvena Zvezda (ツルヴェナ・ズヴェズダ) 、【赤い星】という意)のホーム・スタジアムがある(2006年には鈴木隆行選手(現ポートランド・ティンバーズ(米 MLS ))も在籍した)。
 サポーターは熱狂的で彼らは自身たちをこう誇っている。「世界の三大組織はローマ・カトリック、CIA、そしてレッドスター・サポーターだ」と。
 せっかくなので試合を見に行った。

 スタジアムには博物館も併設され、今まで獲得したタイトルや賞の数々を展示していた。
 ちなみに今までの【星人】(クラブの歴史10年に対して1人の選手だけに与えられる称号で、大きな貢献をした偉大な選手に贈られる)も紹介されていて、ストイコビッチ氏は1980年代の星人だった。

 練習風景を見ていると、星型になって5対1のダイレクトパス回しを行っていた。4対2という練習方法もあるが、こちらの方がディフェンス側はハードだと思う。

 ちょっと気になったのは、若い選手しかいないことだった。選手として熟成を迎える年代の選手がほとんどいない。
 国外のクラブチームへ移籍しているからなのか、あるいは兵士としてユーゴ紛争時に亡くなってしまったのからなのか、はたまた選手が皆童顔なのか。真相は分からないままだ。



 試合は大差をつけてレッド・スターが快勝した。



 また、日本大使館にも行っている。この時コソボ(当時の名称はコソボ・メトヒヤ自治州)に行くか迷っていて、情報を得ようと思ったのだ。

 応対してくれた職員の方はとても親切だった。正直なところ、今まで訪問した日本大使館の職員の方は、事務的というか、ちょっと冷たい感じがしたものだ。時間を割いて話をしても何のメリットもない旅人相手に、それはある意味当然のことかもしれない。
 しかし、ここの職員の方は自身もかつてバックパッカーだったらしく、当時の自分を思い出すのかとても親身になってくれた。
 コソボ(当時の名称はコソボ・メトヒヤ自治州)は紛争(コソボ紛争)(1996年~1999年)後、いまだ治安が良くないとのことだったので、コソボ行きを諦めることにした。
 何かあれば、この方にも迷惑をかけることになるし、もともと旅のプランには入っていなかったので、そこまで無理をして行く必要がないと思ったからだ。

※地図はこちら

(87)サラエヴォ(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)~ベオグラード(セルビア)

2010-05-27 22:01:00 | 旧ユーゴの国々
 Sarajevo (サラエヴォ)2泊目、夜中に宿泊客の(いびき)で目を覚ますと、その後ほとんど眠れなかった。
 壁が薄いので危惧していたことだが仕方ない。再度寝ようと思ったが結局眠れず朝4時に起床した。
 しかし、思った以上に目覚めは良かった。精神が研ぎ澄まされている感覚がある。この感覚を漢字一文字で表現するなら【凛(りん)という文字が思い浮かぶ。
 Mostar (モスタル)、そしてサラエヴォと、必死に生きている人々を見て影響を受けたのだろう。
 多少睡眠時間が少なかろうがそんなことはたいした問題ではない。彼らと比べれば、自分ははるかに恵まれている。



 トラムでセルビア人共和国側バスターミナルへ向かい、そこで朝8時半発の Belgrad ( Beograd )(ベオグラード)(セルビア共和国(当時の国名はユーゴスラビア))行きのバスに乗り込んだ(記憶が定かではないが、直通ではなく国境付近で乗り換えがあったかもしれない)。

 モスタルからサラエヴォに行くバスでも感じたが、人々の表情が暗い。乗客同士の会話もほとんどなく、まるでお通夜に行くかのようだ。

 道中何度か検問があったのを覚えている。ルート上危険地域があるらしく、銃を持った兵士がバスに乗り込んできて身分証の提示を求められた。その後安全地帯に着くまで兵士が同乗していた。

 道中、川のそばを走っていたのだが、山間(やまあい)から流れ込んだ支流が本流と合流していた。本流は綺麗な水なのだが、支流は濁っている。そしてその二つの流れは水と油のように決して混ざり合うことなく並行して流れていた(これは水の温度比重が違う為起こる現象らしい)。なぜかその光景がこの国の状況を象徴しているように思えた。



 ベオグラードに着いたのは夕方17時。実に8時間半かかっているが、これは検問が多かったからだろう。現在はもう少し短い時間で行けるのではないだろうか。
 NATO空爆を受けた翌年に訪問したのだが、戦争後いまだ人々の心の傷は癒えていないようだった(それでもボスニアより状況はましかもしれない)。


 この日はプライベート・ルーム(民宿)に泊まった。
 ここのおばちゃんは本職がデザイナーなのか絵がうまかった。そしてハキハキした性格の人だった。
 昨晩あまり寝ていないせいか、旅日記を書きながらうとうとしていたらしい(ボスニアでの連日の緊張感から解放されたせいもあるだろう)。突然、「早く寝なさい」と宿のおばちゃんにピシャリと言われた。久しぶりに叱られたという気がして逆に心地良かった。

 この日の旅日記には、当時読んでいた本の文章を書き写している。

 「どんな時代に生き、どんな事件のなかに身をおいたかとういうだけでは、個人の歴史体験は、ほとんど意味をなさないような気がする。(中略)それが歴史的な経験として刻まれるためには、時間という距離と意識的な対決という研磨を必要とするらしい。」澤地久枝『ぬくもりのある旅』(文春文庫)-

 日本では戦争を経験した人々が高齢化している。
 「もう二度とこんな戦争を起こしてはならない」と戦争を体験した人々は言う。
 しかし、その体験を個人的なものだけに留めてしまうと、彼らが亡くなってしまえばもう分からなくなってしまう。

 思いが伝わればそれは戦争の抑止力になる。

 戦争を体験した人々は、思い出したくないかもしれないが、当時何を経験してどんな思いをしたかをきちんと子孫に伝えておいてもらいたい。そして我々はその言葉をきちんと聞かなければならないと思う。そうしないと、いつまでたっても同じ過ちを繰り返すことになるのではないだろうか。

 旧ユーゴの国々で起こったことは決して他人事ではないと思う。

※地図はこちら

おまけ(その6)“ Bosnia ”( The Cranberries )

2010-05-23 00:23:04 | おまけ
(86)サラエヴォ(後編)(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)のおまけ記事



 The Cranberries (クランベリーズ)の“ Bosnia ”を紹介したい。

 クランベリーズは、アイルランド出身のロックバンド。
 王菲(フェイ・ウォン)がカバーしてヒットした“ Dreams ”などが有名(カバー曲名『夢中人』(映画『恋する惑星』の主題歌))。
 “ Zombie ”等の反戦メッセージの歌も歌っている。



①“ Bosnia ”の映像はこちら

こちら紛争時の実際の映像が使われている。ショッキングな内容だが敢えて紹介させて頂く。



 (追記)

※以下、動画にはショッキングな内容が含まれています(閲覧注意)。

 ②の動画は非公開にされた模様。
 他に写真でつづった投稿動画を発見した。反戦メッセージが込められている。

 他にも下記リンク先のボスニアの惨状を伝える動画の中にこの曲が使用されている。

・動画はこちら

(86)サラエヴォ(後編)(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)

2010-05-22 23:44:11 | 旧ユーゴの国々
 日本大使館で新聞を読み終えてから、街を散策した。

 まず向かったのは、Vrbanja Bridge (ブルバニャ橋)。
 ここは、ボスニア紛争最初の犠牲者 Suada Dilberovic (スアダ・ディルベロヴィッチ)さんが撃たれた場所だ(1992年4月5日)。
 当時医大生だった彼女は、「これがサラエヴォなの」とつぶやきこの世を去ったという。
 ご冥福を祈りたい。



 この後見たものを順次羅列する。

旧共和国議会ビル  セルビア人勢力によるサラエヴォ包囲(1992年4月5日~1996年2月29日)( Wikipedia の記事はこちら)の際、砲撃で焼けてしまったビル。



Holiday Inn (ホリデーイン)  紛争中は各国のジャーナリストの溜まり場と化してたらしい。スナイパー(狙撃兵)通りに面している。

・スナイパー通り   紛争時には、この通りで動くものは全て高層ビルに潜んだセルビア人狙撃兵の標的となった。まるでゲームのように大勢の方が撃たれて亡くなったらしい。この近辺(グルバヴィッツァ地区)には破壊された廃墟のような建物で人々が暮らしているという話を聞いていたが、行かなかった。見られた方は気分がいいものではないと思ったからだ。

・新聞社オスロボジェニェ(【解放】の意)  記者達は地下の核シェルターに泊まり込み、サラエヴォ包囲の間も新聞を休刊することはなかった。隣には完成間近で破壊された老人ホームがあった。



サラエヴォ五輪スタジアム(コシェヴォ・スタジアム)  1997年9月23日、ここでU2コンサートが開かれた。民族の垣根を越えて、遠方から人々が駆け付けたという。この時、喉を痛めて声が出なかった BONO (ボノ)の代わりに、観客達がずっと歌い続けていた。翌朝の新聞の社説には「今日という日がサラエヴォ包囲が終わった日だ」と書かれたらしい。現在、五輪スタジアムの補助グラウンドは巨大な墓地と化している。紛争時に亡くなった人々を埋葬する場所が無かった為、ここが墓地となった。



 アイルランドのミュージシャン達は、自身の姿とダブるのだろうか、強い反戦メッセージを表現している。
 他に例を挙げると、アイルランドのロックバンド The Cranberries (クランベリーズ)。
 “ Bosnia ”という曲を歌っている。
 ヴォーカルの Dolores O'Riordan (ドロレス・オリオーダン)が“ Sarajevo (サラエヴォ)”“ Sarajevo ”と連呼している。

※クランベリーズ“ Bosnia ”のおまけ記事はこちら

※地図はこちら

(85)サラエヴォ(前編)(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)

2010-05-21 23:02:31 | 旧ユーゴの国々
 Mostar (モスタル)には1泊しかせず、翌朝ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都 Sarajevo (サラエヴォ)へと向かった(バスで所要2時間強)。

 バスはボスニア・ヘルツェゴビナ連邦側バスターミナルに着いた。どうやらサラエヴォの街は民族ごとに居住区が分かれているらしく、このあたりはムスリム人(ボシュニャク人)の居住区になっているらしい。街の中心部まではトラムが走っていた。

 中心部に着いてから最初にしたことは宿探しだ。意外とすぐに見つかった。
 バシチャルシア(旧市街にある職人街)で見つけた宿の名前は HOTEL KONAK (1泊約1800円)。壁は薄く、部屋も寝るだけのスペースしかなかった。
 モスタルのプライベートルーム(民宿)の約2倍の金額だったが、他のホテルを探すことなく泊まることに決めた。サラエヴォの街は治安がいいとは思えなかったからだ。

 宿に荷物を置き、まずはカフェでコーヒー(ボスニア風コーヒー)を1杯飲んだ。いわゆるトルコ風コーヒーと同じで、小さなカップに注がれたコーヒーは非常に味が濃い。

 コーヒーを飲みながら外の様子を眺めた。

 モスタルの街は静かだったが、ここサラエヴォは復興に向けての活気がある。
 物乞いの子供達も多く、人々の目からは生きるのに必死な様子が感じられた。
 しかし、瞳の中に光が無い人達もいた。絶望の暗い淵から立ち直れていないようだ。

 モスタル、そしてサラエヴォと戦後の厳しい状況の中必死に生きている人々を見ていると、背筋がピンと張る感覚があった。生ぬるい自分に対して冷や水を浴びせかけられた感じだ。
 というものを強く実感し、平和で幸せな国に生まれてこれたことを感謝した。



 その後、プリンツィプ橋(現在の名称はラテン橋)へ行っている。
 ここは第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件の起こった場所だ。

 1914年6月28日、サラエヴォを視察に来ていたオーストリア=ハンガリー帝国(1867年~1918年)のフランツ・フェルディナント皇太子夫妻が、セルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプにより暗殺された。
 調査をしていくと、暗殺団の背後に浮かび上がったのはセルビア政府の存在だった。
 最終的に報復と言う形でオーストリアがセルビアに対し宣戦布告し、第一次世界大戦が勃発した。



 サラエヴォの街には、各国の軍隊が駐留していた。これも国連平和維持軍と思われる。
 イタリア軍ドイツ軍などを見かけた。デンマーク軍地雷撤去にあたっているらしい。
 【 Mines! (地雷!) 】という看板に注意するよう言われた。



 翌日、まず向かったのは日本大使館だ。正直、日本の新聞を読んでほっと一息つきたかった。

 日本でも、世界でもいろいろなことが起こっていた。

 セルビア民兵組織アルカン・タイガーのリーダーだった、ジェリコ・ラジュナトヴィッチ(通称アルカン)が先月暗殺されていた。ユーゴ紛争時の戦争犯罪で告訴されていた人物らしい。これからセルビア(当時の国名はユーゴスラビア)に入国するのに物騒な話だ。

 明るい話題では、セリエAACヴェネツィア(現在の FBCユニオーネ・ヴェネツィア)に移籍した名波浩さん(元サッカー日本代表)の、リーグ戦初ゴールのニュースがあった。
 実は、ここから Venezia (ヴェネツィア)(イタリア)まではそれほど離れてはいない。
 Ljubljana (リュブリャーナ)(スロベニア)に行ったついでに行っておけばよかったのだが、無性に行きたくなってしまった。

 ちなみに余談になるが、この街はイビチャ・オシム(元サッカー日本代表監督)の生まれ故郷だ(申し訳ないが当時はオシムさんのことを知らなかった)。



 今思い返すと、外には必死に生きている人々がいるのに悠長(ゆうちょう)に新聞を読んでいるなんて随分と不謹慎かもしれないと思う。しかし街を歩いているとどうも気が滅入ってしまうのだ。

 強い意志があれば、こういう中でも希望を持って生きている人々を探し出せたかもしれない。あるいは相手に笑顔を取り戻せる何かが出来たかもしれない。
 
 しかし当時はただただ暗い気持ちに同調してしまっていた。氷点下を越える真冬の時期に行ったせいもあるかもしれない。滞在中空と心が晴れることはなかった。

※地図はこちら

(84)モスタル(後編)(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)

2010-05-20 22:30:00 | 旧ユーゴの国々
 どのタイミングで彼に伝えたか覚えていないが、客引きの青年 Mr.Dele と再会した時、宿の紹介料(約300円)を払うことに決めた。
 この街の状況が分かった今、小さな感情的こだわりなどなんの意味も成さないような気がしたからだ。

 彼も本心ではこんなことをしてお金を稼ぎたくはないと思っているに違いない。
 だが彼は家や家族を失い、ストリートに寝ていると言う。いわゆるストリート・チルドレンだ。
 そんな彼に他の選択肢は無いのだろう。
 


 彼には他にも街を案内してもらっている。

 街の東側(ムスリム人(ボシュニャク人))地区には共同墓地があった。
 老若男女問わず、墓碑には1993年に亡くなったと書いてある。
 おそらく、その時期が最も戦闘が激しかったのだろう。

 Mostar (モスタル)の象徴とも言える橋、【スターリ・モスト】(街の名前の由来にもなっている)も案内してもらったが、残念ながら破壊されていた。

 オスマン帝国支配下にあった1566年に、トルコの建築家 Mimar Hayruddin (ミマール・ハイルッディン)によって建てられた。ネレドヴァ川の両岸からアーチ状にかかる橋は、当時の最先端の技術をもって造られたらしい。

 この橋は、近辺のムスリム人の勢力圏にあったことから、1993年11月9日、クロアチア人側の砲撃で破壊された。
 Mr.Dele の話では、この橋はムスリム人のシンボルとなっていたので破壊されたということだった。建築家もイスラム教徒だからだ。長さ29m、高さ28mもあった立派な橋だったと彼は言っていた。若者達はこの橋から度胸試し的に飛び込んでいたらしい。



 (下記の写真は、当時購入したポスト・カード。破壊される前の橋の姿がそこにはあった。)



 ちなみに、1200万ユーロの巨費を投じて2004年に橋は再建された。翌2005年にはボスニア初の世界遺産に登録されている。
 また、橋の東側にある塔も再建され、現在スターリ・モスト博物館になっている。



 街の夜は不気味なほど静かな街だったのを覚えている。【UN】と書かれた国連平和維持軍の車が街を巡回していた。



 現在街の様子も変わったと思うが、Mr.Dele は今頃どうしているだろうか。



 翌朝の旅日記にこう書いてある。

 「朝起きると心臓が痛かった。寒いから?」

 実はここ数日(現在の話)、肩が重く、時に心臓まで痛くなることがあり、病気かもしれないと思っていたのだが、旅日記を読み返して同様に心臓が痛いと書いてあることに驚いた(特に心臓に持病があるわけではない)。

 以前おまけ(その1)に投稿した内容にも関連するが、この地にはまだまだ成仏出来ていない魂が多数眠っているような気がしてならない(心臓を撃たれて亡くなった方がいたのかもしれない)。

 一日も早く亡くなられた魂が成仏出来る日が来ますように。

※地図はこちら

(83)モスタル(前編)(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)

2010-05-19 20:05:20 | 旧ユーゴの国々
 Dubrovnik (ドブロヴニク)から先、どういう進路を取るか迷った。

 このまま海岸沿いに南下してユーゴスラビア(現在のモンテネグロ(2006年にセルビア共和国と分離・独立))へと進むか、それとも Mostar (モスタル)(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)へ行くのか。
 
 南下すれば世界遺産の街 Kotor (コトル)などの美しい街を観光出来る。
 その場合、国境を越えて Herceg Novi (ヘルツェグ・ノヴィ)という街へ向かうのだが、現在のように直通のバスは無く、国境付近を5km位歩かなくてはならないと聞いていた。
 重い荷物を背負って5km歩くのはきついし、情報がほとんどないということもあり、南下するのを諦めることにした。



 出発の朝、皮のコートが無いことに気付いた。Tehran (テヘラン)で購入したものだ。
 プライベート・ルーム(民宿)のおばちゃんに詰め寄ると、自分の部屋に隠してあったコートを返してくれた。

 「私はクレージーだから。」

 と変な言い訳をされたのだが、実際奇妙に思える行動が多く、何度か迷惑を被(こうむ)っている。
 文句を言うとクレージーだからで済まされてしまうことに当時は腹が立ったが、今考えると、戦争で精神的にストレスがかかりすぎたのかもしれない



 ドブロヴニクを朝に発ったバスは3時間程でモスタルの街に着いた。
 道中の景色はとても美しかった。山の間を道が続くのだが、緑が濃い。
 モンテネグロとは【黒い山】という意味らしいのだが、この辺りもその景観に近いのではないだろうか。

 バスターミナルでは、一人の青年( Mr.Dele )が客引きをしていた。
 どうやらプライベート・ルームを紹介しているらしい。

 事前に他の民宿の情報を持っていたのだが、値段も変わらないし(約900円)、彼の紹介する宿に泊まることにした。それ以上は払わないという条件で。

 しかし、いざ宿が決まり民宿のおばちゃんに支払いが済んだ後、彼は紹介料(約300円)を要求してきた。
 宿のおばちゃんに支払いを済ませている以上、今更宿を変えるわけにはいかない。
 先程の話と違うと青年の要求を突っぱねた。
 どんなに安い金額だとしても、今まで旅先でこの手の要求をされた場合、ずっと断ってきている。今後その土地を旅する人の為にも悪い前例を作りたくなかったし、最初に同意した金額しか払わないと伝えてあるのだ。

 街を散策するべく、お金を要求する彼を置いて歩きだした。
 すると、彼は諦めることなくついてきた。そして頼んだわけでもないのにガイドを始めた。だからと言ってお金を払う気はない。



 散策するうちに、だんだん街の状況が分かってきた。

 今まで自分が旅してきたどの土地ともそこは違った。戦争の傷跡が色濃く残っていた。
 【UN】と書かれた国連平和維持軍の車が絶えず街を巡回していた。
 いまだ戦時下というわけではないが、この街の人々の心の中で戦争は終結していないのかもしれない。



 ボスニアがユーゴスラビア連邦から分離・独立したのが1992年。
 しかし、様々な民族の血が入り混じっている状況で民族国家を立ちあげることに無理があったのか、今度はボスニア国内のセルビア人が独立の動きを見せ、これがボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと発展、ムスリム人(ボシュニャク人)クロアチア人セルビア人、の三つ巴の戦いへと泥沼化していった。

 モスタルの街は、ボスニア紛争期には一時期独立していたヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の首都であったらしい。
 街の中央を流れるネレトヴァ川を挟んで東側にムスリム人西側にクロアチア人が住んでいる。
 最初はセルビア側の空爆に対して団結して戦っていたムスリム人とクロアチア人の間に亀裂が生じ、同じ街の住民同士が殺し合ったという悲しい歴史がここにはある。



 街を散策しているうちになんとも遣り切れない思いになってしまった。

 ネレトヴァ川にかかるを渡ろうとすると、青年 Mr.Dele の気配が消えた。
 振り返ると、彼は立ち止っている。

 「俺はムスリム人だからここから先(クロアチア人居住区)へは行けない。」

 彼の中ではここに橋はないのだ。



 ちょっと複雑な思いもあるが、ようやく彼から離れることが出来た。
 
 対岸のムスリム人地区と比べ、クロアチア人地区は新築の建物が多かった。
 川のそばの建物はムスリム人側の襲撃を警戒しそのまま残されていたが、新しい土地に新しい建物を建てている。
 それに対し、土地の少ない東側(ムスリム人地区)では建物を修復して使わざるを得ないようだ。

 それにしても街の空気が重い。気分も重くなる。
 見るとそこに床屋があった。生まれて初めての長髪にチャレンジするべく伸ばしていた髪の毛をバッサリ切ることにした。スッキリしたかったのだ。

 言葉が通じなかったが、雑誌の写真を指さしてこんなイメージでと言うと綺麗なマダムは理解してくれた。
 しかし随分と短くされたものだ。20cm位あった髪の毛が5mm位にされてしまった。

 それでも気分的に軽くなって、東側へ戻るべく橋を渡った。



 するとそこには一人の青年が立っていた。( Mr.Dele )はずっと自分の帰りを待っていたのだ



(写真は銃撃された建物。当時そのまま残されていた。)



(崩壊の危険性がある為、立入禁止になっていた。)



※地図はこちら

(82)ドブロヴニク(クロアチア)

2010-05-13 23:42:24 | 旧ユーゴの国々
 Split (スプリット)からバスで4時間半かかり、城塞街 Dubrovnik (ドブロヴニク)へと到着した。

 道中の景色もとても美しかった。少し靄(もや)がかかっていたが、自然の中に家屋が溶け込んでいた。
 法律で決まっているのか分からないが、屋根(素焼き瓦)の色は明るいオレンジ色、壁はクリーム色で統一されており調和が取れていた。

 ドブロヴニクはその美しさから【アドリア海の真珠】と形容され、旧市街世界遺産に認定されている。
 旅人の間では、ここは宮崎駿監督の映画『紅の豚』のモデルになった街と噂されていた(真偽のほどは不明)。
 アドリア海の交易地としての最盛期は15~16世紀。都市国家ラグーサ共和国として繁栄を極めた。
 ちなみにこの街のラテン語名は Ragusea (ラグーサ)である。
 


 バスターミナルに着くと、プライベート・ルーム(民宿)の客引きがいた。
 まくしたてて話すおばちゃんだったが、宿代が800円位と格安だったので泊まることにした。
 とはいうものの、バスターミナルから観光地と逆方向に1km近く歩かなければならなかった。他にもいろいろ問題があり、結論から言うと泊まったのは失敗だった(しかし他に安い宿が見つからず、ここに3泊している)。



 街の一部は空爆により破壊されたまま残っていた(特に海岸側)。内戦時にはこの街も空爆されたらしい。



 この街で観光したのは下記の通り。

旧港  かつて交易で栄えた街の象徴。海がとてもきれいだった。

フランシスコ会修道院  15世紀に建てられたが1667年の大地震で倒壊し再建された。訪問時はミサの最中で賛美歌が歌われていた。心が洗われるようだ。

大聖堂  1192年に英国のリチャード王(獅子王リチャード1世)により創建。現在のものは17世紀に再建されたもの(バロック様式)。

スポンザ宮殿  1667年の大地震でこの街の建物の大部分は倒壊したがこの宮殿は無事だったらしい。閉まっていて入れなかった。

ドミニコ会修道院  15世紀に建てられた。内部は宗教美術館になっている。ユーゴ紛争時、空爆により一部焼失。

聖ヴラホ教会  ドブロヴニクの守護聖人ヴラホの名を冠した教会。現在の建物は地震後18世紀に建て直されたもの(バロック様式)。

聖イグナチオ教会  18世紀前半にバロック様式で建てられた。

総督邸  ラグーサ共和国の総督の住居で当時の行政の中心地。現在は文化歴史博物館として使われている。

海洋博物館  聖イヴァン要塞を利用しており、海上交易で発展した街の歴史を紹介している。



 また崖の上からアドリア海に沈む夕陽を見ている。人間は自分中心に考えがちだが、太陽が沈むのではなくて、地球が動いているのだとこの時気付いた。
 この時、日没まで日向(ひなた)ぼっこしながら本を読んでいたのだが、とても気持ち良かった。太陽に甘えさせてもらった感じがする。

 一部本から旅日記に書き写している。

 「歴史の色合いというのは、往々群体としての人の、集合的な無意識が決めていくものだ。」『独航記』(辺見庸著、角川文庫)-

 以下の文は子供の詩だ。日記に書名を書き忘れたが、故灰谷健次郎さんの著作かもしれない。



 おとうさん  やなぎますみ



 おとうさんのかえりが  おそかったので  おかあさんはおこって

 いえじゅうのかぎを  ぜんぶ  しめてしまいました

 それやのに  あさになったら  おとうさんはねていました


 
 週末には公園で大人達がサッカーをしていたが、国民性なのか非常に当たりが激しかった。一緒にやりたかったが怪我をしそうだったので子供たちとサッカーをした。

 無理にサッカーをしなくても良かったのだが、この街で子供たちと一緒に遊んだのには自分なりの訳がある。
 子供らしくない子供たちに何が起こっているのか間近で確かめたかったのだ(残念ながら英語が通じなかったが)。

 Zagreb (ザグレブ)でもアジア人蔑視と感じる態度をとる人がいたが、この街では子供たちがそうだった。
 小学生位の子供が遠くから石を投げてきたので叱ったこともある。その子に限らず子供たちの目が悪い意味で印象的だった。死んだ魚のような目をしていて子供らしい輝きが無かった(全員がそうだというわけではないがちょっと気になった)。



 正直自分は戦争を体験したことがないので彼らの心情を理解したとは言えない。

 戦争によって彼らの幼い心に大きな負荷がかかったのだろう。
 身体は生きのびたが、心は死んでしまったのか。外界に対して心を閉ざしてしまっているように思えた。

 ドブロヴニクの街は大きな戦禍にみまわれていないと思うのだが、空爆があったのは事実だし実際のところは分からない。
 子供たちのお父さんは徴兵されて帰って来なかったのかもしれない。あるいは、悲しい現実をいろいろ見聞きしてきたのかもしれない。



 やなぎますみちゃんの詩はとても素晴らしい。

 そして、そういう詩を書くことのできる環境もかけがえのないものだと改めて思う。

※地図はこちら

(81)スプリット(クロアチア)

2010-05-06 23:58:12 | 旧ユーゴの国々
 Zagreb (ザグレブ)から夜行列車で約9時間かかり、Split (スプリット、スプリト)へ到着した。

 ここはアドリア海沿岸最大の港町で、ディオクレティアヌス宮殿を中心とした歴史的建造物群は世界遺産に認定されている。

 ディオクレティアヌス宮殿のある旧市街はそれほど大きくはないので、2時間程観光しただけで見終わってしまった。
 
 観光したのは下記の通り。

・ディオクレティアヌス宮殿  305年にローマ皇帝ディオクレティアヌス(244年~311年)(在位284年~305年)によって建てられた宮殿(305年の皇帝退位後ここに住んだ)。この宮殿はスプリットの街の起源とされている(実際はこれより前にギリシャの植民地が建設されていたらしい)。ローマ帝国滅亡後の7世紀になると異民族が流れ込み、宮殿の基礎部分を残して増築する形で街が発展していった。城壁の周囲は800mにも満たない。

大聖堂  もともとはディオクレティアヌス帝の霊廟だったが、キリスト教の教会になった。宮殿の中での最大の見どころとなっている。

宮殿の地下  迷宮のようになっている。もともとは倉庫として使われていた。Budapest (ブダペスト)(ハンガリー)の王宮の地下も迷路のようになっていたが、造り的には似ている。

市立博物館  古代からの街の歴史を紹介。15世紀に建てられたパパリッチ邸(後期ゴシック様式)を博物館として利用している。

バザール  街の中心部にあり非常に活気があった。そのエネルギーと新鮮な野菜や果物、そして眼下に広がる青い海が一体となっていて見ているだけで気持ち良かった。



 最後にバザールに立ち寄ってパワーをもらった後、スプリットの街を後にした。

※地図はこちら