Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

おまけ(その37)" Let it be "( The Beatles )

2013-04-04 23:55:55 | おまけ
(223)サンフランシスコ(アメリカ)(後編)のおまけ記事



 この旅に出る前に自分で編集した音楽テープの最初の曲は、U2" ONE "だった。

 そして最後の曲には、The Beatles" Let it be "を選曲していた。



 サンフランシスコを発つ前日、眠る前に曲を聴きながら、旅日記の最初に書いた言葉のように、自分の感じたまま歩んで来れただろうかと自問した。



※魂に響く名曲" Let it be "はこちら



 【追記】

 若かりし頃の自分は、旅のエンディングテーマとして" Let it be "を選んでいた。
 何のためらいもなくこの曲を選んだところに、(今の自分と比べると痛い位の)純粋さを感じる。それは=(イコール)若さとも言えるのかもしれない。

 もし、今の自分がこの旅のエンディングテーマを決めるとしたら、下記の曲を選ぶだろう。この後も(自分にとっての)旅は続くからだ。



※ U2 の名曲 " I still haven't found what I'm looking for "こちら

おまけ(その36) enduring spirit

2013-03-21 23:55:55 | おまけ
(222)サンフランシスコ(アメリカ)(前編)のおまけ記事



 San Francisco (サンフランシスコ)で購入した一冊の本について紹介したい。
 書籍のタイトルは、『 enduring spirit 』( Phil Borges 著)、当時33ドルで購入した。

※ enduring …[形容詞]永続する、持続する、耐久性のある、不朽の、息の長い、辛抱強い、我慢強い

 この旅において、大きな本やハードカバーの本は荷物の重量が増える為、なるべく買わないようにしていた。
 所持金が少ないにも関わらず、この本を購入したのは、この機会を逃すと手に入れるのが大変だと思ったからだ(当時はアマゾン等のネットショッピングも一般的では無かった)。
 もちろん、旅が終わるという点も理由として挙げられる。重いバックパックを背負う日課からも解放されるからだ。
 しかし一番の理由は、この本に登場する人物達の視線に射抜かれたことだと思う。



 この本に登場する人物達は、アフリカの部族民アメリカ先住民チベット人等、どちらかというと発展途上の地に住む人々だ。
 貨幣経済的な視点から言えば、貧しく慎ましい生活を営む彼らだが、そのに宿る力は我々よりはるかに強い。それはきっと彼らの強いを表しているのだろう。

 彼らの様々な表情(笑い、悲しみ、誇り…)が映し出されているが、たとえ小さな子供であったとしても、その視線によって本来見ている側の自分が、逆に見られているような感覚に陥(おちい)る。しかも彼らが見ているのは、私自身の魂だ。
 背後まで見透かされているような奇妙な感覚と共に、彼らにこう言われているような気がする。

 「お前は、全身全霊をかけて今この瞬間を生きているか」

 上記の言葉は、私が感じたことを100%正確に伝えきれていない。どちらかと言うと、

 「お前はそれ(今の現状)でいいのか」

 という感じだろうか。

 彼らよりはるかに物質的に恵まれ、楽な方に流されながら生きていて、(おのれ)を高める努力をしているのか?
 この本を読み返す度に、同じことを感じる。



 余談になるが、昔聞いた手相の話を思い出したので書き記しておきたい。

 農業等の身体を使う仕事をしている人は、毎日相当の力を使う。
 手を使って物を掴(つか)んだり運んだりすることにより、手の皺(しわ)が深くなる。
 皺の深い手は、立派な人生を送った手の証だそうだ。



※『 enduring spirit 』の著者、Phil Borges 氏のHPはこちら

おまけ(その35)ロード・ムービー

2013-03-07 23:28:34 | おまけ
(221)シラキュース~シカゴ~シャイアン~サンフランシスコ(アメリカ)のおまけ記事



 北米大陸をバスで横断した時に見た景色、それは旅をテーマにした映画でよく見た光景そのものだった。
 都市部を離れると、荒野の中を果てしなく道が続くのみ。
 西アジアから中東にかけての砂漠地帯と若干似ている部分もあるが、それよりもやはり映画で見た光景と言った方がしっくりくると思う。

 旅という場面での出来事を描いた映画を【ロード・ムービー】というらしいが、印象に残っている映画を幾つか紹介したい。



(1)『イントゥ・ザ・ワイルド』( Into the Wild )(ショーン・ペン監督)



 エミール・ハーシュ演じる、この映画の主人公クリストファー・マッカンドレスは、実在の人物。
 優秀な成績で大学を卒業したにもかかわらず、彼は家族から探し出されないように消息を断ち、アレクサンダー・スーパートランプ と名前を変えて放浪の旅に出る。



 一度は自分を試すこと

 一度は太古の人間のような環境に身を置くこと
 
 自分の頭と手しか頼れない
 
 苛酷な状況に一人で立ち向かうこと




 2年間北米大陸を転々とした後、彼が向かったのはアラスカだった。
 物質世界とかけ離れ、厳しい自然が残る大地で、たった一人で生きていこうとした彼の言葉(アラスカの地で書き記した最後の言葉)が心に染みる。

 Happiness only real when shared. (幸福が現実となるのは、それを誰かと分ちあった時だ。)



 長い旅に出る者は、その心の中に強い渇望感のようなものがあり、それが旅の原動力になっていると、昔誰かが言っていたのを、映画を見て思い出した。

 映画の中で主人公はヘンリー・D・ソローの言葉を引用している。



 愛よりも

 金銭よりも

 信心よりも

 名声よりも

 公平さよりも

 僕に真理を与えてくれ



※『イントゥ・ザ・ワイルド』の予告編はこちら



(2)『星の旅人たち』( The Way )(エミリオ・エステベス監督)



 製作者が違うが、『イントゥ・ザ・ワイルド』の続編的テーマがあると思う映画だ。

 主演に実父のマーティン・シーンを起用。
 彼は、聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラに辿り着く前に亡くなった息子ダニエル・エイヴリー(エミリオ・エステベス)の遺志を継ぎ、巡礼の旅をする父親トム・エイヴリーを演じている。

 様々な目的を持って集(つど)ったサンティアゴ巡礼者達のドラマが面白く、四国遍路以来の巡礼をしたくなった映画だ(いつかサンティアゴ巡礼をしたいと思う)。



※『星の旅人たち』の予告編はこちら



 【追記】

(3)『 LIFE ! /ライフ』( The Secret Life of Walter Mitty )(ベン・スティラー監督)



 この映画の主人公ウォルター・ミティを演じるのはベン・スティラー。
 休刊となる『 LIFE 』誌の写真管理部で働くウォルターは、10代の時に父を失くしてから自分の夢を封印して家族の為に働いてきた(モデルとなった LIFE 誌は2007年に休刊)。
 自分の心を閉じ込め、空想(妄想)で現実逃避をしていた彼だが、世界を旅していくうちに徐々に顔つきが精悍(せいかん)になっていくと共に、空想も減っていく。
 壮大な景色が美しい映画だ。

 (尚、この映画に『イントゥ・ザ・ワイルド』の監督ショーン・ペンが、カメラマンのショーン・オコンネル役で登場している。)



 「自分が信じていること、思いきってやろうとしていることであればリスクを考える必要はないさ」(ベン・スティラー)



 歳を重ねるにつれ失っていく情熱というエネルギーを、取り戻すきっかけになる映画だと思う。



[映画に登場した LIFE 誌の社訓]

 TO SEE THE WORLD (世界を見よう)

 THINGS DANGEROUS TO COME TO (危険でも立ち向かおう)

 TO SEE BEHIND WALLS (壁の裏側をのぞこう)

 LIFE !

 TO DRAW CLOSER (もっと近づこう)

 TO FIND EACH OTHER (お互いを知ろう)

 AND TO FEEL (そして感じよう)

 THAT IS THE PURPOSE OF LIFE (それが人生の目的だから)




※『 LIFE ! /ライフ 』の予告編はこちら

おまけ(その34)イロコイ族

2013-02-21 23:55:55 | おまけ
(220)シラキュース(アメリカ)のおまけ記事



 イロコイ族のことを知ったきっかけは、一冊の書籍だった。
 『一万年の旅路-ネイティヴ・アメリカンの口承史-』(ポーラ・アンダーウッド(著)、星川淳(訳)、翔泳社)だ。



 大地震による津波で安住の地を追われた民たちが、ユーラシア大陸を東に向かって横断し、ベーリング海峡を渡りアメリカ大陸に辿り着いた。
 その後五大湖のほとりに永住の地を見つけるまでの気の遠くなるような長い旅路について、イロコイ族は口承史を伝え残していた。
 この一冊の本にはその壮大な智慧が、物語として書き記されている。



 この本の翻訳者である星川淳氏は、他にも多数イロコイ族に関する著作を翻訳、執筆されている。
 『知恵の三つ編み』(ポーラ・アンダーウッド(著)、星川淳(訳)、徳間書店)(イロコイ族の文化を中心に紹介)、『小さな国の大いなる知恵』(ポーラ・アンダーウッド(著)、星川淳(訳)、翔泳社) (イロコイ族の歴史を中心に紹介)、『環太平洋インナーネット紀行-モンゴロイド系先住民の叡智-』(星川淳(著)、NTT出版)(イロコイ族探訪の記述あり)、等々。

 イロコイ族の理念は、その盟友であるアメリカ合衆国憲法にも反映されている。
 近年、イロコイ感謝決議としてその関係性が評価されたらしい。



 「一つの道でもなく、またもう一つの別な道でもなく、その二つの釣り合いが確かな道を照らし出す」-イロコイ族の言葉-

おまけ(その33)【9.11】で思い出すこと(後編)

2013-02-07 23:55:55 | おまけ
(219)ニューヨーク③(アメリカ)のおまけ記事



 【9.11】の翌年(2002年)、自分は北海道で働いた。

 きっかけはアイルランドコネマラ地方周遊ツアーガイドから「この景色は日本の北海道みたいだろう」と言われたことだ(そうだと答えつつも、北海道に行ったことがなかったことを内心恥じた)。そんな訳で、北海道に一度住んでみたいと思っていた。

 仕事先として北海道の東と西に候補地があったが、道東を選んでいる。
 その地で非常にお世話になった方(間宮さん(仮名))の御宅に招待された時のこと。訪問すると何故かそこには長倉洋海さんの写真が多数飾ってあった。
 理由を伺うと、「長倉洋海さんは俺の親友だ」と間宮さんは言う。二人とも出身地が同郷(釧路)であり、長倉さんが帰郷される度に会う間柄だそうだ。

 写真集(『マスード 愛しの大地アフガン』(長倉洋海著、JICC出版局(2001年河出書房新社より新装版刊行)))から長倉さんの出身地が釧路という情報を得ていた可能性があり、忘れていただけで潜在意識に情報が残っていた為、仕事先として道東を選んだのかもしれない。
 しかし、彼(か)の地に長倉さんの親友がいるということを全く知らなかったから驚いたのだった。



 一見偶然に見える物事の背後には、かすかな糸のような可能性があると思う。
 それは「そんなの偶然だよ」という一言で、もろくも切れてしまう蜘蛛の糸のようなものかもしれないが、そんなわずかな可能性に目を凝らしてみると、我々は一見何の関係の無いように思える出来事にも実は関係しているのではないかとたまに思うことがある。
 数学的に表すならば0.0000000000..........1%という微々たる関係性だとしても、時と場合によりその数値は変動する。
 その数値が大きくなった時に、奇妙なシンクロニシティ( Synchronicity )( Coincidence )として知覚されることがあるのではないかと思う。

おまけ(その32)【9.11】で思い出すこと(前編)

2013-01-31 23:55:55 | おまけ
(219)ニューヨーク③(アメリカ)のおまけ記事



 【9.11】について考えるとき、直接的に関係しているわけではないが、思い出す奇妙な出来事があるので書き記しておきたい。



 2001年の夏、旅先で出会った旅人の紹介で住み込みの海外ボランティア(滞在国:中国)に参加した(旅行とは違った種類の貴重な体験をすることが出来たと思う)。
 しかし、そのボランティアから帰国してわずか数日後、NY同時多発テロが発生した。

 実はボランティアに行く前に、仕事でお世話になったアメリカ好きの友人に一枚の写真(A3サイズまで引き伸ばしたもの)をプレゼントしていた。
 その写真は、バッテリー・パークのフェリー乗り場からリバティ島の自由の女神(世界遺産)を撮影したものだ。



 9.11の後、その友人に「お前が変な写真をよこすからだ」と言われた。
 


 話変わって、ボランティア出発の前日に中古書店で購入した一冊の本がある。その本のタイトルは、『マスード 愛しの大地アフガン』(長倉洋海著、JICC出版局(2001年河出書房新社より新装版刊行))だ。
 
 たまたま書店で見かけ、マスードの澄んだ眼差しに憧れて購入したのが出発前日だった為、この本をじっくり読むのが帰国後の楽しみの一つだった。

 アハマッド・シャー・マスード( Ahmed Shah Massoud )(1953年~2001年)は、アフガニスタン救国・民族イスラム統一戦線(北部同盟)副大統領、国防大臣、軍司令官を歴任。死後、【アフガニスタン国家英雄】の称号を追贈された。
 マスードが暗殺されたのは2001年9月9日。自分がマスードの本を読んでいる時に本人が亡くなったかもしれない思うと、当時何とも遣り切れない気持ちになった。彼が生きていれば、アフガニスタンは違った形で復興への道を歩んだことだろう。

※マスードの弟であるアフマド・ズィヤ・マスード( Ahmad Zia Massoud )は2004年からアフガニスタン第一副大統領に就任した(2009年まで)。



 不思議なことに、自分をボランティアに誘った旅行者と出会ったのは、Hunza (フンザ)(パキスタン)だった。この村の目と鼻の先にアフガニスタンがある。



 ここまでの話なら【偶然】の一言で済まされてしまいそうだが、この話にはまだ続きがある。

おまけ(その31) ANIMA

2013-01-17 23:55:55 | おまけ
(218)ニューヨーク②(アメリカ)のおまけ記事



 ANIMA の曲を紹介したい。
 ANIMA というアーティストについては詳細不明で動画も見つからなかったが、デヴィッド・アーカンストーン(アメリカのミュージシャン)が彼らの曲をカバーした動画が投稿されていたので紹介させて頂く。

 ちなみに購入した ANIMA のアルバム(“ ancient voices ”)は、かつてフォー・コーナーズに暮らしていた先住民達に捧げられたものらしい。

※フォー・コーナーズ…アメリカ西部にある、四つの州(ユタ州(北西)、コロラド州(北東)、ニューメキシコ州(南東)、アリゾナ州(南西))の境界線が集まった地域。

・ANIMA のカバー曲“ Dream Catcher ”(デヴィッド・アーカンストーン)こちら(動画は削除された模様)

・その他の ANIMA の動画はこちら



 また、先住民つながりで下記の曲も紹介させて頂きたい。

Sacred Spirit“ Yeha-Noha ( Wishes of Happiness & Prosperity )”こちら

おまけ(その30)『キャラバン』

2012-12-13 23:40:00 | おまけ
(214)ダブリン(後編)(アイルランド)のおまけ記事



 映画『キャラバン』(原題“ Himalaya - l'enfance d'un chef ”)(エリック・ヴァリ監督)を紹介したい。



 (あらすじ)

 家畜のヤクを運搬手段とするネパール高原民族の商隊(キャラバン)が、街での取引を終えて高原の村に戻ってきた。しかしそこに長老ティンレの息子はいなかった。事故で命を落とし帰らぬ人となっていたのだ。
 次のキャラバンの隊長は有能な若者カルマと思われたが、長老ティンレは彼を息子の仇とみなし、まだ幼い孫のツェリンこそ後継者だと主張した。
 二人は対立したまま別々のキャラバンを率いて出発するが、一行の前には猛烈な嵐が…。ヒマラヤの大自然を舞台に、少年ツェリンの成長が描かれた物語。

 第72回アカデミー外国語映画賞ノミネート。仏セザール賞最優秀撮影賞音楽賞を受賞。フランスでは250万人以上を動員する大ヒットを記録。ネパール以外の製作国はフランス、スイス、イギリス(合作)。



・映画のの予告編はこちら

・映画本編(字幕無し)はこちら



 余談になるが、この旅で出会った旅行者達から何度かチベットの話を聞いており(中にはチベタン(チベット人)になりたいと言う旅人までいた)、チベットに対する強い憧憬があったのだが、この映画を見てチベットに行きたいと更に強く思うようになった(この映画はチベット文化圏を舞台にしている)。

 チベットに対する憧れの気持ちは止まず、数年後にチベットを訪問したのでその写真を一部紹介させて頂く。



(ポタラ宮(布達拉宮))





(セラ寺(色拉寺)の問答修行)





(ガンデン寺(甘丹寺)のシウタン祭(セタン祭))  ※シウタン(セタン)とは【シルクの仏画】の意





(ナムツォ(納木錯))  ※ナムツォとは【天の湖】の意





(ギャンツェ(江孜)のパンコル・チョーデ(白居寺)の仏像)





(カイラス山(須弥山)(神山))





(カイラス山五体投地巡礼者)


おまけ(その29)“ Sunday Bloody Sunday ”( U2 )

2012-10-11 23:55:55 | おまけ
(206)ロンドンデリー(北アイルランド)のおまけ記事



 U2“ Sunday Bloody Sunday ”は、コンサートで毎回必ず歌われる名曲だ。
 そのメッセージ性の強さで彼らを世界的に有名にした曲だと言ってもいいと思う。



 U2のボノ( BONO )について書き記しておきたい。

 ボノの本名は、Paul David Hewson 。今や云わずと知れた世界最大ともいえるロックバンドU2のヴォーカリスト。音楽だけに止まらないその社会貢献活動から、ノーベル平和賞に何度もノミネートされている。
 
 南北に分断されたアイルランドDublin (ダブリン)にて、カトリックの父とプロテスタントの母との間に生まれる(1960年5月10日生)。
 北アイルランドイギリス連邦に属しており、プロテスタントが大多数を占める。逆にイギリスから独立した(南)アイルランドはカトリックが大多数である。
 アイルランドでは宗教の異なるカップルは通常、結婚を認められなかった。ボノの両親も周りの反対を押し切って結婚している。

 しかし、その母がボノ14歳の時に亡くなってしまう。

 ボノの祖父母(母の父母)の結婚50周年パーティーの日に悪夢は始まった。ハイになって酔いつぶれた祖父アレック・ランキンがその晩、心臓発作で死亡。
 失意の中、長女として葬儀を取り仕切る立場にあったボノの母、アイリス・ヒューソンも祖父の埋葬中に倒れ、4日後脳卒中で死去する。
 ボノの父ボブ・ヒューソンは亡くなった妻のことを一切語らなくなり、家の中から明るさが消えた。

 ボノは教会でよく祈ったらしい。

 「絶望の中で、僕は神に祈った。すると、沈黙の中でさえ時として神は答えてくださることを知った。耳をふさぎたくなるような答えであるかもしれないけど、真剣で身を任せる覚悟があれば、とにかく答えは必ずある」(『 U2 By U2 』(シンコーミュージックエンタテイメント刊))

 物心つく頃に母が亡くなったボノはこの頃の記憶が欠けているという。

 ボノの心にあったのは、異なる宗教同士が憎しみあっていた街で、異なる宗教の両親が愛し合って自分が生まれたということ。その愛の形が自分であるという強い理想である。

 だからこそ「ロックは死んだ」とシラケムードが漂った80年代に、アイルランドという田舎から生まれたバンドは、ロックを歌い続けて世界最大のバンドになったのだ。



※“ Sunday Bloody Sunday ”の動画を古い順に紹介させて頂く。

(1)アルバム『魂の叫び( Rattle and Hum )』より(動画はこちら)

(2)スレーン城(アイルランド)でのライブ映像中心の動画はこちら

(3)グラストンベリー・フェスティバル(イギリス)でのライブ映像はこちら

(追加)

(4)総集編的なもの→動画はこちら



 “ How long, how long must we sing this song? ”(いったいいつまでこの歌を歌い続けなければならないのだろう?)という歌詞には熱いメッセージが込められている。

 残念ながら、彼らがこの歌を置く日はまだ来ていない。

おまけ(その28) Bob Dylan

2012-09-20 00:24:34 | おまけ
(204)キラーニー(アイルランド)のおまけ記事



 もうすぐ本年度のノーベル賞の発表があるということで、日本人である村上春樹氏はもちろんだが、Bob Dylan (ボブ・ディラン)氏にも注目したいと思う。

 ボブ・ディランのことを知ったのは学生時代のこと。
 ボブ・ディランを尊敬する友人に勧められたのだが、彼のように崇拝者にはならなかった(ボブ・ディランの良さを理解するには未熟だったのだろう)。

 しかし、そんな自分にも耳に残る曲があった。
 【ボブ・ディラン】の名前を聞けば今でも思い浮かぶその曲のタイトルは、『時代は変わる』(“ The Times They Are A-Changin' ”)だ。

・“ The Times They Are A-Changin' ”の動画はこちら



 (追記)

 2016年、ボブ・ディラン氏はノーベル文学賞を受賞した。

おまけ(その27) The Corrs

2012-08-23 23:55:55 | おまけ
(201)ゴールウェイ(アイルランド)のおまけ記事



 The Corrs (ザ・コアーズ)の曲を紹介したい。

 コアーズは、コアー兄妹(姉妹3人とその兄)により1990年に結成されたアイルランドのバンド。 
 1995年にファーストアルバム『遙かなる想い( Forgiven, Not Forgotten )が発売された際、店頭で試聴してすぐに購入を決断した(最初のアルバムとは思えない程クオリティが高かった)。


 
 今回紹介させて頂くのは、カヴァー曲中心の3曲。

“ Little Wing ”

“ Haste to the Wedding ”

“ Black is the Colour ”



 2006年より活動休止中なのが残念だが、再活動を楽しみに待ちたいと思う((追記)2015年より活動再開 ‼)。

おまけ(その26)『フィオナの海』

2012-08-13 12:44:00 | おまけ
(200)キルローナン(アイルランド)のおまけ記事



 映画『フィオナの海』(ジョン・セイルズ監督)(原題“ The Secret of Roan Inish ”)を紹介したい。
 残念ながら、この映画のDVDは販売されていない(VHS(ビデオ)のみ販売)。

※動画はこちら



 この映画は、ケルトの古い伝説をモチーフに描かれている。
 舞台は1940年代のアイルランド北西部の侘(わび)しい島ローン・イニッシュ島

※(注)ここから下はあらすじになります(ラストまで書いていますので閲覧注意)。



 主人公の十歳の少女フィオナは、都会で働く父親から漁師の祖父母の元に預けられる事になった。
 沖合に見えるローン・イニッシュ島。そこは、かつて彼女の一家が暮らしていた島だった。
 フィオナが幼い頃のこと。母親が亡くなり島を離れることになった際、フィオナの弟ジェイミーが揺籠(ゆりかご)に乗ったまま波にさらわれて行方不明になっていた。

 今ではこの島は無人島になり、アザラシの島になっている。
 「夜にこの島に何かが光るのを見た者がいる」と聞かされたフィオナは夜になると島に目を凝らす。すると確かに光が点滅している。

 祖父ヒューはフィオナに色々な話を聞かせる。
 嵐の海でアザラシに助けられた先祖の話や、不思議な力で海にさらわれたフィオナの弟ジェイミーの話を。
 フィオナは「揺籠に乗って海を漂うジェイミーをローン・イニッシュ島の近くで見た者がいる」と従兄弟のイーモンから聞かされる。祖母テスはそんな迷信めいた話にいい顔をしないが、フィオナはジェイミーが生きている事を信じ、いつかみんなで島に戻るべきだと思う。

 そして、彼女は祖父とイーモンと共にローン・イニッシュ島を訪れた。すると一家の昔の家にはなぜか人の気配が。
 更に彼女は野原を裸で駆け回るジェイミーの姿を見た。彼は海に浮かべた揺籠に乗ってアザラシと共に逃げ去る。

 ある日、フィオナは祖父母と一緒に街に買い物に出かけて、タッドという黒髪の不思議な男に出会う。父の従兄弟である彼は村の人から変人扱いされているらしい。
 タッドはフィオナに「コネリー家(自分達)の祖先にはアザラシの妖精セルキーと結婚した青年がいる」という話を聞かせる。その時から、コネリー家には妖精の血を濃く受け継いだ黒い髪の者が生まれるようになり、ジェイミーもその中の一人だという。 

 その後もフィオナはローン・イニッシュ島へ出掛けてジェイミーを見かけるが、ジェイミーはすぐに逃げてしまう。
 フィオナはこのことを祖父とイーモンに話すが、祖母には言わないようにと口止めされる。

 そうこうしている間に、今住んでいる借家を近いうちに立ち退かならければならなくなった。
 今まで海と共に生きてきた祖父にとって、海岸から離れることのショックは大きい。
 フィオナはそれなら島に帰るべきだと考え、「家族が島に戻ればきっとジェイミーも島に帰って来るだろう」とイーモンを説得して密かに島に通い、二人で昔の家を修理する。

 ある日の午後、嵐が近付いていることでジェイミーの身を案じたフィオナは、ついに祖母にジェイミーが生きていると打ち明ける。
 すると祖母は人が変わったように「すぐに島に連れていきなさい」と言う。
 
 島に着き、祖父母は二人の孫が家を綺麗に修理したことを知り、再びここに住もうと思う。
 夜になると、アザラシに導かれたジェイミーが家族の待つ浜辺に戻ってきた。



 妖精の話を迷信として片付けてしまっていたならば、この物語は別の結末を迎えていただろう。
 フィオナの言葉を信じた祖父母の存在がこの映画を素晴らしいものにしている。
 
 ジェイミーの逃げ去るシーンが忘れられない名作だ。

おまけ(その25)“ Hey Jude ”( The Beatles )

2012-08-01 19:36:00 | おまけ
(198)リヴァプール(イギリス)のおまけ記事



 先日のロンドン五輪開会式において、ポール・マッカートニー“ Hey Jude ”を熱唱していた(動画はこちら)。
 五輪で勝者(金メダル)はごくわずか。この歌は、勝者になれない選手達への彼からのメッセージのような気がした。

※“ Hey Jude ”:(作詞・作曲)ジョン・レノン、ポール・マッカートニー

おまけ(その24)『アメリ』

2012-07-05 07:04:40 | おまけ
(195)パリ③(フランス)のおまけ記事



 映画『アメリ』(ジャン・ピエール・ジュネ監督)を紹介したい(知らない人はほとんどいないと思うが)。

 ストーリーや音楽、主演のオドレイ・トトゥの演技力、そして舞台となった Paris (パリ)の街(メインはモンマルトル付近)、そのどれもが印象的で心地よい。
 
 主人公アメリの趣味は「人を幸せにすること」
 「日常の生活にちょっとしたスパイスを与えるだけで人は幸せを感じることが出来る」ということをこの映画は教えてくれている。



 普段当たり前に思っている日常は決して当たり前ではない。しかしそのことを忘れてしまっている自分がいる。

 旅に出なくても非日常のワクワク感を味わうことの出来る人、それが真の旅の達人だ。
 それはまた人生の達人でもある。



 限られた時間の中でどこまで人生を楽しめるか、再度この映画を観てチャレンジしたいと思った。

※『アメリ』の予告編はこちら

おまけ(その23)ピエール・キュリー

2012-06-21 23:34:40 | おまけ
(194)パリ②(フランス)のおまけ記事



 ピエール・キュリー(1859年~1906年)を紹介したい。

 前述の写真は、以前 Warszawa (ワルシャワ)(ポーランド)にあるキュリー夫人博物館で撮影した写真を引き伸ばしてから、更にデジカメで撮ったものだ。見づらい写真だがお許し頂きたい。
 当時この写真を初めて見た時、ジェームス・ディーン(1931年~1955年)のようなカッコ良さに驚いたのを覚えている。内に秘めた強い意志を感じた。



 ピエール・キュリーは、フランスの物理学者。
 1903年に妻マリ(ポーランド名マリア)・キュリー(1867年~1934年)と共に、放射能研究の業績を讃えられノーベル物理学賞を受賞。
 放射能の単位、キュリー( Ci )は1910年、キュリー夫妻にちなんでつけられた。



 ピエールは小さいころから自然を愛した詩人のような科学者だったらしい(彼の澄んだ目がそれを証明していると思う)。
 結婚せずに科学に一生を捧げるつもりだった。マリアに出会うまでは。

 ピエールの研究室でマリアと出会った当時、彼女は屋根裏部屋で貧しい一人暮らしをしながら、研究に身を捧げていた。

 「あなたの故国に対する夢,人類に対する2人の夢,そして,科学に対する2人の夢,こうした2人の夢のなかに生活をともにすることは,きっと,信じられないほど美しいことでしょう」(ピエールがプロポーズして1895年結婚)

 結婚祝いで手に入れた自転車に乗って、2人は新婚旅行へ旅立った。
 自然を愛する2人ならではの発想で、目的地を定めずに自然の中を旅するものだったらしい。



 彼は左翼思想に同情的だったせいか、自国フランスでは晩年までほとんど認められなかった。

 1906年4月19日、パリにて通行中の馬車の下敷きになり亡くなった。



 【業績】

(1) 物質の磁性に対する温度効果の研究
(2) 結晶学における圧電効果の研究(兄弟であるジャック・キュリー(1856年~1941年)と共同研究)
(3) 放射能の物理的性質の研究→ノーベル物理学賞受賞



(1)磁性の研究

 磁性体が温度を上げるとその性質(強磁性)を失うことを発見。
 この業績にちなみ、鉄などの強磁性体がその磁性を失うその臨界温度は【キュリー温度( Curie Temperature )】と名付けられた。

(2)圧電効果の研究

 結晶中にみられる体積変化から、圧電( piezoelectricity )効果を発見。
 ある種の結晶は機械的に変形すると、相対する結晶面に逆符号の電荷を発生。
 逆に、結晶を荷電させると変形する。

(3)放射能の研究

 放射線障害による激痛に襲われながら、研究を続けた。

 ラジウム(元素記号 Ra )とポロニウム(元素記号 Po )という二つの新元素を発見。
 ラジウムからの放射線に磁場を作用させ、電気的に正・負・中性である三種の微粒子が存在することを証明。今日これらはα線・β線・γ線とよばれている。
 ラジウムの生理学的影響についても研究し,ラジウム療法の端緒となった。



 妻キュリー夫人(ポーランド名マリア・スクウォドフスカ・キュリー)は、彼の死後も研究を続け、1911年にノーベル化学賞を受賞(ラジウムおよび ポロニウムの発見とラジウムの性質およびその化合物の研究)。

 キュリーの娘、イレーヌ・ジョリオ・キュリー(1897年~1956年)も放射能研究を続け、夫フレデリック・ジョリオ・キュリー(1900年~1958年)と共に行った研究でノーベル化学賞(人工放射性元素の発見)を受賞した。



 もし彼らが今生きていたとしたら、福島第一原発事故後の放射能汚染について、何を思い、どう行動するだろうか。