Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(41)アムリトサル(後編)(インド)

2009-07-30 22:07:36 | インド
 Delhi (デリー)に一週間滞在して、イランビザ(トランジットビザ)を取得した後、Amritsar (アムリトサル)へととんぼ返りをした(列車で所要7.5時間)。

 道中気付いたことに、チャイ(紅茶)のカップの変化がある。

 列車が駅に停車するとチャイ売りの少年が「チャイー」と言いながら乗り込んで来るのが常なのだが、チャイを注ぐカップが薄いプラスチックの容器に変わっていた。100円ショップで売っているような使い捨てのものだ。
 2年前は、陶器(素焼きの器)をカップとして使っており、ちょっとしたインドらしさみたいなものを感じることが出来た。みんな窓から空き容器を投げ捨てていたが、土に還るのでいいのだろうと思っていた。

 しかし、プラスチック製になっても、昔と同じように空き容器を窓から投げ捨てている。
 残念なことだが、人々の意識は簡単には変わらないのだろう。
 塵も積もれば環境破壊へとつながるかも知れない。



 アムリトサルでは、Golden Temple (黄金寺院)で食事を頂いた後、前回訪問しなかった Jallianwallah Bagh (ジャリヤーンワーラー庭園)へと向かった。

 インドの独立運動中にイギリス軍ダイヤー准将(じんしょう)の指揮により行われた機銃掃射で400名近い死者と1000名を超える負傷者を出した場所である( 【アムリトサルの大虐殺】)。

 旅立つ前に見た映画『ガンジー』でこの場所が登場したのを思い出したらしく、日記に書き記している。



 この街で1泊した後、すぐにパキスタンへ向かうことにした。

※地図はこちら

(40)デリー(インド)

2009-07-22 22:52:49 | インド
 Amritsar (アムリトサル)から夜行列車で10時間かかり、Delhi (デリー)の街に着いた。
 約2年振りのデリーだ。

 デリーに1週間滞在したが、この時はほとんど観光せず、事務的な用事を済ませる以外、もっぱら休養に努めた。

 到着してすぐにニューデリーのメインバザールにある Golden Cafe というレストランに向かった。
 店員に2年振りだと言うと、お前のことを覚えていると言う。調子いい奴だ。

 さっそくお腹にやさしいパスタを注文した。しかし料理が出て来たのは1時間近く待たされてから。
 いつものことだが、定番料理以外を注文すると、材料を買いに行くことから始めるので随分と待たされる

 その他にも贅沢をしてコンノート・プレイスにあるマクドナルドに食べに行ったりした。
 日本と変わらない値段設定なので、外国人以外はお金に余裕のあるインド人しか食べに来ない。
 それでも結構賑わっていたのを覚えている(現在ではもっとポピュラーになっていると思う)。



 デリーに来た一番の目的は、イランビザを取得することだった。

 まず日本大使館に向かいレターを発行してもらう。

 (余談になるが、日本大使館にある日本情報センター(図書館)では、多くのインド人が日本語の勉強をしていた。どこの国の日本大使館でもよく見かけた光景だが、その必死な姿は生きる姿勢そのものだ。)

 日本大使館のレターを持ってイラン大使館に赴き、ようやくトランジットビザ(1週間有効)の申請が可能になる(4日後発行)(現在の状況は不明)。



 他にも日本へ荷物を送ったり、喀什(カシュガル)で購入したウォークマンを売り払って新しいものを購入したりした(この後旅先でその国のミュージックテープを購入するようになった)。



 11月のデリーは思った以上に寒かった。

 そんな中お祭りがあったのを覚えている。確か Diwali (ディーワーリー)というヒンドゥー教の新年を祝うお祭りだ。
 10月末から11月初めのインド歴の第七番目の月の初めの日(新月と重なる)に行われ、女神ラクシュミを祝う【光のフェスティバル】と呼ばれる。

 この日は朝から爆竹の音が響いていたのを覚えている。



 余談になるが、ここで同じような服装をした日本人旅行者を何人か見かけた。
 白いTシャツGパン、そして茶色い皮のコート

 当時、沢木耕太郎氏の『深夜特急』(新潮文庫)が大沢たかおさん主演でTVドラマ化されていた(『劇的紀行 深夜特急』)。その影響ではないかと思う。

※『劇的紀行 深夜特急』のおまけ記事はこちら

 30年近い月日が過ぎてもなお、人を旅へと誘(いざな)う魅力がこの本にはあるのだろう。
 ドラマ化されたことで、よりリアルに旅を夢見ることができるようになった。
 そして夢見るだけではなく、実際に旅に出てしまう旅人もいる。



 自分も多くの人達から旅の種をもらった。
 その種が大きく成長したからこそ旅に出たのだと思う。

※地図はこちら

(39)アムリトサル(前編)(インド)

2009-07-16 06:41:14 | インド
 Wagah (ワガー)のイミグレを無事通過し、インドへ入国した。2kmほど行くと Atari (アタリ)という街に着く。

 ここからバスに乗って1時間程で Amritsar (アムリトサル)の街に着いた。
 ここで有名なのは、何と言っても Golden Temple (黄金寺院)(別名 Hari Mandir Sahib (ハリマンディル・サーヒブ))だ。

 1604年スィク教(シーク教)の総本山として建てられたこの寺には、Guru Granth Sahib (グル・グラント・サーヒブ)(スィク教の聖典)が納められており、毎日多くの参拝客が訪れる。

 ちなみに、インドでターバンを巻いている人がいたら、スィク教徒の可能性が高い(イスラム教徒の可能性もあるが)。更に手首に鉄の腕輪をしていたらまず間違いないと言える。

 スィクとは、創始者グル・ナーナク(1469年~1539年)に対してのスィク(弟子)という意味らしい。

(写真は、アムリタ・サラス(サンスクリット語で【不老不死の妙薬・甘露の池】の意)に浮かんで見える黄金寺院)



 寺院内部は多くのスィク教徒と観光客で賑わっていた。

 ここの巡礼宿では無料で宿泊も出来るらしく、宿泊させてもらうつもりだったが、予定を変更して夜行列車で Delhi (デリー)に向かうことにした。
 お腹にやさしい食べ物(香辛料のきつくない料理)を食べたかったからだ。
 インフルエンザから回復したとはいえ、正直なところ、まだ体調に不安があった。

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(38)ワガー(パキスタン)

2009-07-09 23:24:06 | パキスタン
 Rawalpindi (ラーワルピンディー)の街を朝8時半に発ったバスは、Lahore (ラホール)に14時に着いた。

 まだ日が暮れるには早い時間だったので先に進むことにした。
 運が良ければ今日中に国境を越えてインドに入国できるかもしれないという淡い期待を抱きながら。

 ミニバスを捕まえて国境の街 Wagah (ワガー)(正式名称ジョローモー)へと向かった。
 このミニバス(ミニバン)は日本の中古車を再利用していた。【○○自動車学校】と、東京のとある自動車教習所の名前が書かれていた。生徒の送迎に使われていたのかもしれない。

 しかし、この教習所で使われていた車に、身を縮めながら定員以上の20人近い乗客が乗っているというのは何とも滑稽な光景だった。もちろん彼らは漢字を読めないのでロゴには気にも留めないだろうが。



 1時間程で国境の街ワガーに着き、早速パキスタン側のイミグレに向かった。
 国境を越えようとすると、係の者が「今日の業務は終わりだ」と言う。
 交渉して何とかインドに入国しようとしたところ、パキスタンを出国することをOKしてくれたのだが、インド側のイミグレも閉まっているとのことだった。
 結局、ここワガーのイミグレ前で一泊することにした。



 そのおかげというか、ここで興味深い光景を見ることが出来た。
 国境を閉鎖する際、パキスタン・インド両国の国旗を収納する儀式を行うのだ。

 威厳に満ちた表情で、衛兵達が行進していく。
 それを見守る両国の人々。
 両国の衛兵たちが交互に儀式の段取りを進めていくのだが、観衆たちは自国のターンになると、割れんばかりの拍手で声援を送っていた。

 観衆の数・拍手の量はほとんど互角だったが、カメラのフラッシュの数では大差でインド側に軍配が上がった。両国の経済的な状況を垣間見たような気がした(ネット上にUPされた動画を見ると、現在では観客の数が増えているように思える)。



 翌朝、インド側のイミグレで【マジック・バス】と思われるバスに乗った欧米人旅行者達を見かけた。

 マジック・バスのシステムとは、ロンドン辺りで中古バスを安く買い込み、アフガニスタンやネパールで売り払うというものなのだが、インド方面に行きたい旅行者を募(つの)ってその運賃収入得るという画期的なアイディアらしい。

 正しいかどうか分からないが、『深夜特急』(新潮文庫)の著者沢木耕太郎氏がデリーからロンドンまで乗合バスで行くことにしたのは、このマジック・バスからヒントを得たと聞いたことがある。

 とにかくそのバスは、軍用のバスと思えるほど頑丈な構造をしていて、その形は昭和初期のバスに似ていた。大きなタイヤが印象に残っている。

 中ではヒッピーのような風貌の欧米人達が、楽しそうにおしゃべりをしている。
 長時間待たされているのも苦にならないようだった。彼らの時の流れはゆるやかなのだろう。

 旅のスタイルもいろいろある。

※地図はこちら

(37)ラーワルピンディー(パキスタン)

2009-07-02 21:49:46 | パキスタン
 Gilgit (ギルギット)を15時に発車したバスは、15時間かかって翌朝6時に Rawalpindi (ラーワルピンディーに着いた。
 NATCO というバス会社の夜行バスの旅は、想像していたよりも快適で、よく眠ることが出来た。

 到着してすぐに向かった宿( Popular Inn )(現存するかは不明)には、Hunza (フンザ)やギルギットで出会った旅人達が多数宿泊しており、再会を喜んだ。
 ほとんどの旅人がガイドブック情報ノート(旅人が他の旅行者の為に書き記したもの)を見て行動しているので、滞在先は偏る傾向にある。現在は、インターネットのおかげでこの傾向がより顕著になっているだろう。



 到着して仮眠を取った後、Taxila (タキシラ)(世界遺産)に向かった。
 ここはラーワルピンディーから北西に約35kmのところにある(バスで約1時間)。

 紀元前326年、アレクサンダー大王が東征した際、ここには Takshasila (タクシャシラ)という国があったらしい。名前の意味は【切り出された石の都】だ。
 その後、5世紀にフン族の侵攻により国が滅ぶまで文化的に栄えたこの地は、ガンダーラ遺跡群の中でも重要とされている。



 情報をしっかり確認しなかったのがいけないのだが、タキシラの遺跡は点在しており、徒歩で見て回るのは厳しいと思う。
 午後に訪問した為、時間も無かったのでタキシラ博物館とその周りを散策しただけになってしまった。

 ラーワルピンディー行きの帰りのバスに乗り込むと、タキシラに行く際に乗ったバスと同じだった。車掌がまた会ったなと微笑んだ。



 翌日、首都 Islamabad (イスラマバード)へ行った(バスで40分)。
 先日クーデターがあったということだが、その話が嘘に思える程とても落ち着いた感じの街だった。
 しかし日本大使館に行き日本の新聞を見ると、確かにクーデターがあったらしい。
 街が平和だったのは、無血クーデターだったからだろうか。

※この軍事クーデター(無血クーデター)でシャリフ首相に代わり、ムシャラフ大統領が最高権力者となった(2008年8月辞任)。



 ラーワルピンディー行きの帰りのバスに乗り込むと、また昨日の車掌がいた。
 さすがにびっくりした様子だったが、飛び切りの笑顔を返してくれた。
 このバスは、ラーワルピンディー・イスラマバード・タキシラを循環しているのかもしれない。
 それにしても、縁のある人とはよく会うものだと思う。



 翌日、インドに入国するべく Lahore (ラホール)へと向かった。
 パキスタンではイランビザを取得できないので、インドで取るしかないのだ。
 世界を見渡しても、隣国同士というのは仲が悪いケースが多い。歴史的に利益の奪い合いがあったからなのだろう。

※地図はこちら