Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(54)テラヴィ(ジョージア)

2009-10-29 23:46:58 | カフカス(アルメニア・ジョージア)
 首都 Tbilisi (トビリシ)を起点にして近郊の街を観光しているので、数回に分けて紹介したい。

 申し訳ないが旅日記には詳細な記述が無いので、記憶を辿りながら書かせて頂く。



 トビリシの東にある Telavi (テラヴィ)まではバスで約3時間。

 テラヴィの街は、10世紀から12世紀にかけてと、17世紀から18世紀初頭まで、カヘテイ王国の首都だったらしい。
 グルジアワインの産地として有名だ。

 ここではバトニスツィヘ要塞を見学している。
 歴代のカヘティ王の居城跡にはペルシャ文化の名残が見られる。



 ここから、北西へ15km位のところに、アラヴェルティ大聖堂がある。
 11世紀後半にグルジアが統一された頃に、統一の象徴として建てられたらしい。



 周りには草原が広がっており、訪問時には管理人のおばちゃんが一人いるだけでひっそりしていた。
 長い年月が経った為か、すっかりさびれた感じの第一印象だった。
 
 しかし、そのおばちゃんはとても素朴で純粋な人だった。
 異国からはるばるやって来た旅人にいたく感激してくれているのが分かる。
 言葉が通じなくても気持ちは分かる。

 このおばちゃんに出会えただけでもここに来た甲斐があったと思う。

(ピンボケで申し訳ないが、おばちゃんの写真を紹介したい)



 余談になるが、ジャーナリストのみやこうせいさんがマラムレシュ地方(ルーマニア)からジョージア(旧グルジア)に拠点を移しつつあるという話をこの時旅人から聞いた。

 みやこうせいさんは、その昔ルーマニアのマラムレシュ地方を取材して紹介していた。
 400年以上も伝統を守り続けて生活しているマラムレシュ地方の人々を【魂の美しい人々】と形容し賛美した。
 しかし、ルーマニア革命(1989年)後彼らの生活が変わりつつあり、魂の美しい人々も変わっていってしまったのだろう。

 魂の美しい人々を探し求めたところ、ジョージアに辿り着いたそうなのだが、その意味が分かるような気がした。



※地図はこちら

(53)トビリシ(前編)(ジョージア)

2009-10-22 22:22:51 | カフカス(アルメニア・ジョージア)
 ジョージア(旧グルジア)の首都 Tbilisi (トビリシ)に着いた第一印象、それを一言で言うならば、暗い街だ。
 冬(12月)ということを差し引いても暗かった。街ゆく人々の表情が暗いのだ。

 アルメニアの Yerevan (イェレヴァン)(エレヴァン)から国際列車でトビリシ駅に着き、地下鉄に乗り換えたのだが、駅の構内ですれ違った時の人々の表情が今でも鮮明に記憶に残っている。

 それはまさしく獲物を見る(けもの)の目だった。
 後にこの街で出会った旅人が、「Mexico City (メキシコシティー)(メキシコの首都)みたいだ。」と言っていた。
 自分はメキシコに行ったことがないので分からないが、昔 Bucharest (ブカレスト)(ルーマニアの首都)に行った時に肌で危険を感じたことがあった。
 しかし、ここはブカレストより危険度が高いと感じた。

 この街では、ナジの家というプライベート・ハウス(民宿)に滞在した(1泊3$)。
 首都といえども停電が多く、毎晩早く寝たのを覚えている。

 少し離れたところに HAMAM (ハマム、ハンマーム)(公衆浴場)もあった。5日振りに浴びたシャワーがとても気持ちよかった。

 この街を起点にしていろいろ周辺の観光に出かけているので次回から紹介したいと思う。

※地図はこちら

(52)イェレヴァン(後編)(アルメニア)

2009-10-15 06:15:38 | カフカス(アルメニア・ジョージア)
 Yerevan (イェレヴァン)(エレヴァン)3日目の朝。

 さて、アルメニアのトランジットビザをどうやって延長するか。
 今まで同じようにトランジットビザで入国した旅人たちは、延長を認められずに駆け抜けるように出国していったらしい。

 当時、イランの Tehran (テヘラン)から行動を共にしていた旅人二宮さん(仮名)がいた。
 彼のナイスアイディア(?)で、ビザ延長にチャレンジすることにした。

 そのプランはこうだ。

 まず、イェレヴァン人文大学に行く。
 ここには日本語学科があるらしいので、日本語の先生にこう頼む。

 「日本の文化を紹介したいのだが、ビザを延長できないと今日中にここを立ち去らなければならない。何とかビザを延長出来るようにお力添え頂けないか。」

 その先生にアルメニア語で一筆書いてもらおうというプランだった。
 これはテヘランでイランビザ再延長をした時に、ペルシャ語で通訳文を書いてもらったという成功例が頭にあったのだろう。

 後から考えると初対面の人に対して随分手前勝手で図々しい話だと思うのだが、いつの間にか人の情けに甘えるクセみたいなものが自分についていたのかもしれない。



 意を決して大学に行くと、そこに日本語学科は存在しなかった。情報が間違っていたらしい。しかし日本語を教えるクラスはあるらしいので、担当の教授に挨拶をしに行った。

 その先生は40代~50代のおばちゃんだった。

 事情を説明してお願いすると、「何で私があなたたちの面倒を見なくてはならないの?」ときつい口調で一蹴され、更にお説教をくらった。
 仕事もしないで何をしているのだとかそんな感じのことだったと思う。
 
 相手の言い分はごもっともであり、反論の余地はないのだが、そこまで言わなくてもという気持ちが残ったのを覚えている。

 意気消沈したが、仕方なく自力でビザ延長にトライしてみることにした。
 しかし、事はそううまく運ばない。
 
 イミグレに行き、交渉を始めたが、担当官は 「No」 の一言しか言わなかった。
 どんな理由をつけてもその答えは変わらなかった。

 最後に、今晩の夜行列車でジョージア(旧グルジア)に行けと言われ、どうにもならないことを悟った。

 仕方なくイェレヴァン駅で切符を買った後、食事をしたり街を散策したと思うのだが、心ここにあらずといった感じだったのだろう。どこで何をしたかあまり覚えていない。

 ホテル青年宮殿に戻り、従業員の青年ゾフラップに別れを告げて駅へと向かった。



 アルメニア美人と友達になるどころか観光もほとんどしていない。そして滞在中一度もシャワーを浴びていない。

 自分の認識が甘かったと言えばそれまでなのだが、まさしくトランジットで終わったアルメニア滞在だった。



 夜行列車の出発前、同じ客車に乗り込んだジョージア人が部屋に入るや否や、コーヒー豆の入った大きな袋を屋根裏に隠し出した。
 どうやらアルメニアで仕入れた豆をジョージアで売るらしい。内緒にしてくれと言うので黙っておくことにした。
 こちらとしてもジョージアに入る前にビザが切れてしまう身(5時間程のアルメニア不法滞在になる)なので、厄介事に巻き込まれたくなかった。



 イェレヴァンを19時に発った列車は、翌朝10時半にジョージアの首都 Tbilisi (トビリシ)に着いた。

※地図はこちら

【目次】(その2)

2009-10-10 14:43:02 | 【目次】
 【2020年12月29日更新】

 (51)イェレヴァン(前編)(アルメニア)
 (52)イェレヴァン(後編)(アルメニア)
 (53)トビリシ(前編)(ジョージア)
 (54)テラヴィ(ジョージア)
 (55)カズベギ(ジョージア)
 (56)ムツヘタ(ジョージア)
 (57)トビリシ(後編)(ジョージア)
 (58)クタイシ(ジョージア)
 (59)クタイシ(ジョージア)~トラブゾン(トルコ)
 (60)トラブゾン(トルコ)
 (61)イスタンブール①(トルコ)
 (62)ブカレスト(ルーマニア)
 (63)シゲット・マルマツィエイ①(ルーマニア)
 (64)シゲット・マルマツィエイ②(ルーマニア)
 (65)ボルシャ(ルーマニア)
 (66)スチャヴァ(ルーマニア)
 (67)プトナ(ルーマニア)
 (68)ヴァド・イゼイ(ルーマニア)
 (69)ラズ・バチューリィ(ルーマニア)
 (70)サプンツァ(ルーマニア)
 (71)ボティザ(前編)(ルーマニア)
 (72)ボティザ(後編)(ルーマニア)
 (73)ポイエニレ・イゼイ(ルーマニア)
 (74)シゲット・マルマツィエイ③(ルーマニア)
 (75)オラデア(ルーマニア)
 (76)ブダペスト①(ハンガリー)
 (77)ブダペスト②(ハンガリー)
 (78)ブダペスト(ハンガリー)~ザグレブ(クロアチア)~リュブリャーナ(スロヴェニア)
 (79)リュブリャーナ(スロヴェニア)
 (80)ザグレブ(クロアチア)
 (81)スプリット(クロアチア)
 (82)ドブロヴニク(クロアチア)
 (83)モスタル(前編)(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)
 (84)モスタル(後編)(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)
 (85)サラエヴォ(前編)(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)
 (86)サラエヴォ(後編)(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)
 (87)サラエヴォ(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)~ベオグラード(セルビア)
 (88)ベオグラード①(セルビア)
 (89)ベオグラード②(セルビア)
 (90)スコピエ(マケドニア)
 (91)ベオグラード③(セルビア)
 (92)ヴェネツィア①(イタリア)
 (93)ヴェネツィア②(イタリア)
 (94)ヴェネツィア③(イタリア)
 (95)ヴェネツィア④(イタリア)
 (96)ブダペスト③(ハンガリー)
 (97)ブダペスト(ハンガリー)~ベオグラード(セルビア)
 (98)ベオグラード④(セルビア)
 (99)ベオグラード⑤(セルビア)
 (100)ソフィア①(ブルガリア)

(51)イェレヴァン(前編)(アルメニア)

2009-10-08 22:38:15 | カフカス(アルメニア・ジョージア)
 Yerevan (イェレヴァン)(エレヴァン)のホテル青年宮殿は、水が一滴も出なかった。
 歯を磨いたり、顔を洗うのもペットボトルの飲料水を使用するしかなく、2日ぶりのシャワーも諦めて横になった。
 一息ついた後、昼頃から街を散策することにした。
 
 青年宮殿は北にある小高い丘の上にあるので、南に面した部屋からは街を一望出来る。
 そのはるか向こうに見えるのはアララト山(標高5165m)だ。

 アララト山は、ノアの箱舟が大洪水の後、流れ着いたとされる山で、富士山に良く似ている(噂には聞いていたが、本当に良く似ていた)。



 宿からアボヴィアン通りをひたすらまっすぐ進むと、共和国広場へと辿り着く。

 イェレヴァンは人口100万人を誇るアルメニアの首都だが、それほど人口の多い街とは思えなかった。
 だが噂通り女性は美しかった。そしてとてもお洒落だった。
 
 第一次世界大戦中のオスマン帝国によるアルメニア人虐殺(一説によると100万人以上の人が亡くなったとされている)後、アルメニア難民達は世界中に散ったとされる。

 ヨーロッパやアメリカで暮らす裕福なアルメニア人たちは、アルメニア・ロビーを通じて祖国にいろいろ支援活動を行っているらしい。

 ちなみにアルメニアでは高価な毛皮のコートを着た女性を見かけたりしたが、隣国ジョージア(旧グルジア)では、ダウンジャケットが精いっぱいのお洒落だった。そこに国の経済力の差を垣間見た気がした。



 共和国広場にはアルメニア歴史博物館国立美術館があり、国立美術館を見学した。
 旧ソビエト連邦の国々の中でも3本の指に入るという巨大な美術館を全て見学するには時間が足りなかった。印象的な絵がとても多かったのを覚えている。
 仕方ないのでトランジットビザを延長してから後日再訪することにした。

 ちなみに旅日記にクェーガーの作品が良かったと書いてあるのだが、スペルが分からずネットで調べても見つからなかった。

 (下記の絵は、“ Salome (1907年)” Vardges Sureniants (1860年~1921年)の作品。ポスターを購入した。)



 この時点で夕方の16時を過ぎており、食事をした後宿に帰った。



 宿に帰ると、日本人が珍しいのか、宿の従業員が声をかけてきて部屋に招待してくれた。
 ゾフラップというその青年の月給は約$150。隣国ジョージアの1.5倍もらえるらしいが、それでも安い給料だと思う。

 彼の友人達もやって来て、「これから一緒にディスコへ行こう。」と誘われた。
 行けばアルメニアの美しい女性と友達になれるかもしれないと一瞬迷ったが、バスの長旅に疲れていたので断ってしまった。
 明日ビザの延長をすれば何泊も出来るのだ。今晩はゆっくり休もう。

 部屋に戻って蛇口をひねってみたが、水が出ないのでシャワーを諦めて眠りについた。



 翌朝聞いた話によると、アルメニアのトランジットビザを延長するのは難しいらしい。どうやら甘く考えていたようだ。
 イミグレに行く前に何か策を練らなければならない。

※地図はこちら

(50)テヘラン~タブリーズ(イラン)~イェレヴァン(アルメニア)

2009-10-01 00:00:16 | カフカス(アルメニア・ジョージア)
 アルメニアの首都 Yerevan (イェレヴァン)(エレヴァン)行きのバスは週一便しかなかった(金曜日発)。

 Tehran (テヘラン)を15時に出発し、おそらく途中 Tabriz (タブリーズ)の街で食事休憩を取ったと思う。

 タブリーズはテヘランの北西600kmにあり、東アゼルバイジャン州の州都だ。この地域の住民の多くはアゼルバイジャン人らしい。
 今までのイランの街の雰囲気とは少し違う。トルコ東部に近い感じだ。

 タブリーズの歴史はササーン朝(サーサーン朝)ペルシャ(224~637年)までさかのぼる。
 アルメニア王国の王ティリダテス3世の名にちなんで【 Tauris 】(タウリス)と呼ばれたことに街の名前の由来があるらしい。

 13世紀後期以降、イルハン朝(イル=ハン国)(1258年~1353年)、黒羊朝(カラ・コユンル朝)(1375年~1468年)、白羊朝(アク・コユンル朝)(1378年~1508年)、サファヴィー朝(1501年 ~1736年)の首都でもあった(サファヴィー朝では1548年に Qazvin (ガズヴィーン)に遷都するまで)。

 地震の多い地域らしく、遺跡はあまり残っていないらしい。



 バスは山岳地帯を走り続けた。
 翌朝6時に国境へ到着。国境が開くまで待ち、アルメニアビザ(トランジット)(3日間有効)を取得して国境を抜けた時は10時を過ぎていた。
 国境にかかる川の景色が美しかったと旅日記に書いてある。

 その後も食事休憩は一回きりで夜まで走り続けた。

 イラン~アルメニアの国境付近は山岳地帯で山の斜面に道路が敷かれていた。窓の外に顔を出すと、眼下に深い谷底が見える。
 昨晩暗くて外が見えなかったのはラッキーだった。
 景色を見ていると心臓に悪いので、移動中はほとんど寝ていた。寒かったが、テヘランで購入した皮のコートのおかげで何とか寒さに耐えられた。この皮のコートには随分助けられたと思う。



 イェレヴァンに着いたのは翌日の0時30分。時差を考えても33時間かかっている。
 今から深夜の街をホテル探しに行くのは厳しい。
 バスの運転手に一晩の寝床をお願いすると、快く家に招待してくれた。
 
 Mr.Karam どうもありがとう。



 翌朝、まずイェレヴァンの街でしたこと。それはホテル探しだ。
 重い荷物を担ぎながら丘の上にあるホテル青年宮殿まで歩いたのだが、辿り着いた時には、疲れきっていて動きたくなかった。
 しかし、ビザの有効期間が残り2日しかないので延長しなくてはならない。

 その他いろいろプランを考えていたのだが、後に自分の認識の甘さを痛感することとなった。

※地図はこちら