Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(32)タシュクルガン(中国)

2009-05-28 00:08:45 | プロローグ・タイ・中国
 出発前に会った旅人から、パキスタンの首都イスラマバードクーデターがあったと聞き、無事入国出来るか不安になったが、とにかく国境まで行ってみることにした。

※この軍事クーデター(無血クーデター)でシャリフ首相に代わり、ムシャラフ大統領が最高権力者となった(2008年8月辞任)。



 喀什(カシュガル)を発(た)ったバスは、パキスタンへと続くカラコルム・ハイウェイをひたすら南へ進んだ。

 道中、視界に入る山肌に砂が堆積していた。タクラマカン砂漠の砂が風で運ばれて来るのだろう。

 途中、卡拉庫里(カラクリ)で休憩をした。美しい湖だったが、歩くだけでも息が切れた。ここは標高約3600mもあり、酸素が薄いと感じた。



 塔什庫爾干(タシュクルガン)の街に着いたのは、出発から8時間後だった。
 バスの中では高山病でグッタリしていたのだが、カラクリ湖からは少し標高が低くなっており、何とか動き回ることが出来た。

 タシュクルガンは、突厥(とっけつ)語で【石の城】を意味する。
 歴史的には、様々な国の統治下にあったらしい。当時は人口の8割以上がタジク族で、漢族は数%だったらしいが、現在は他の地域同様、漢族が増えているかもしれない。

 街の東端には石頭城なる城壁跡があった。この街の名前の由来はここから来ているのかもしれない。
 ここは、唐代喝盤陀国(かつばんだこく)の都城跡、または同じく唐代の葱嶺守捉(そうれいしゅそく)城跡(パミール高原を警備する兵の駐屯地跡)とされている。



 街の物価は高く、内陸部の値段にまけてもらおうとすると、先方が怒り出すこともあった。僻地(へきち)なので輸送にコストがかかるのだろう。

 中国最後の晩餐は、定番となっていた西紅柿炒鶏蛋(シーホンスー チャオ チータン)を食べた。これでも10元(約150円)した。嘉峪関で食べた時のの5倍の値段だ。
 もう中華料理を食べられなくなると思うと、少し寂しい気がしてじっくり味わって食べた。



 いろいろあったが、明日で中国ともお別れだ。

※地図はこちら

(31)カシュガル(中国)

2009-05-21 22:22:40 | プロローグ・タイ・中国
 阿克蘇(アクス)からバスで10時間半かかり喀什( Ka Shi )(カーシー)(カシュガル)に着いた。
 道中建設中の線路が見えたが、現在南疆(なんきょう)鉄道カシュガル駅が終点になっている。

 カシュガル地区の首府カシュガル市は、今まで訪れた新疆(しんきょう)ウイグル自治区のどの街よりもウイグル人が多く、街の雰囲気もイスラム色が強かった(現在では漢族の移住者が増え、街の中心に巨大な毛沢東像が建っているらしい)。

 カシュガルは、タクラマカン砂漠西端に位置し、東トルキスタン西部のオアシス都市として栄えた。
 蜀漢三国時代(220年~280年)に最盛を誇った疏勒(そろく)の国都があった地でもある。
 シルクロードの要衝として多くの民族の行き交いがあったこの地は、名前(カシュガル)の由来にも諸説ある。

【玉の集まる所】(古ペルシャ語、ペルシャ語、チュルク語)
【緑色の屋根をもつ建物】(モンゴル語)



 ここで有名なのは日曜バザールなのだが、木曜と金曜の2泊しかしていないので残念ながら見ていない。
 記憶に残っているのはウイグル自治区最大のモスクエイティガール寺院(明代の1422年に創建)だ。多くのウイグル人で賑わっていた。
 また、道端で売っていたハミウリ(哈密瓜)(フユメロンの一品種で細長い)が美味しかったのを覚えている(1/4~1/8カットで1元(約15円)。



 自分が泊まった宿は、たまたま辿り着いた色満賓館( John’s Café )だったのだが、多くの旅人は其尼瓦克(チニワク)賓館に泊まっていた。ここからパキスタン国境行きのバスが出ていたからだ。その為、夜は話し相手もいなかった。
 そのせいか分からないが、2日目に無性に音楽が聞きたくなった。

 実は、自分で編集したテープを1本だけ持って来ており、どこかで機会があればラジカセで流してもらおうと思っていたのだが、2ヶ月近くそのチャンスが無かった。
 音楽に飢えていた自分は、我慢できなくなって街で見かけたウォークマンを購入することにした。
 さすがに【SQMY】とロゴの入ったバッタもんを買う気にはならず、ちょっと割高だがラジオ付きのウォークマンを購入した(約千円)。
 その夜、部屋で一人、久し振りに好みの音楽を聴くことにした。

 テープの1曲目は、U2“ ONE ”という曲だった。

※ U2 “ ONE ”のおまけ記事はこちら

 曲が流れ始めると、砂に水がしみ込むかのように心に響くものがあり、感動のあまりが出てきた。今はだいぶ涙もろくなったが、音楽を聴いて涙したのはこの時が初めてだと思う。

 しかし、2曲目になると急にテープの回転が遅くなり、間延びした歌になってしまった。どうやらモーターの回転力が弱いらしい。
 高い買い物になってしまったが、満足したのを覚えている(ちなみにこのウォークマンは Delhi (デリー)(インド)で売り払った)。

 旅日記にはこう書いてある。

 「何か一つでもいいことがあったら感謝するクセを付けよう(本来は嫌なことがあってもそうすべきなのだが)。」

 そして、旅人に交換してもらった『潮騒』(三島由紀夫著、新潮文庫)の一節を書き写している。

 「悪意は善意ほど遠路を行くことはできない。」

 旅の疲れが出始めた自分にとって、この言葉は妙に納得出来るものがあった。



 翌朝、パキスタン行きのバスに乗り込んだ。
 塔什庫爾干(タシュクルガン)を越えれば、中国ともいよいよお別れだ。

※地図はこちら

(30)アクス(中国)

2009-05-14 22:13:00 | プロローグ・タイ・中国
 庫尓勒(コルラ)から阿克蘇( A Ke Su )(アーカースー)(アクス)までは列車で所要10時間半。南疆(なんきょう)鉄道の当時の終着駅だった(現在の終着駅は喀什(カシュガル))。



 途中庫車(クチャ)の街を通ったが、先を急いでいたので下車しなかった。

 クチャは、その昔亀茲(きじ)が栄えた場所だ。
 亀茲国は前漢時代(紀元前206年~8年)に現れ、10世紀頃まで繁栄したらしい。
 仏教が盛んだった国らしく、数多くの仏教遺跡が存在する。

 また、般若心経の訳者(漢訳)とも言われる鳩摩羅什(くまらじゅう)(クマラジーバ)(350年(344年)~409年(413年)は、亀茲国の王族だったらしい。
 鳩摩羅什は玄奘(三蔵法師)(602年~664年)と共に二大訳聖と呼ばれている。

※鳩摩羅什以前の訳経を【古訳】、鳩摩羅什から玄奘以前の訳経を【旧訳(くやく)、玄奘の訳経を【新訳】と呼ぶ。

 と、クチャの街について調べて書いてみたが、当時は仏教遺跡がある位しか知らなかった。

 ちなみに自分は四国遍路をしたことがある。
 その当時、唱えていた般若心経が弘法大師空海によって中国(唐)からもたらされたのは知っていたが、鳩摩羅什のことは知らなかった(鳩摩羅什について知ったのはおよそ2年前)。

 今はクチャに行っておけばよかったと思うし、機会があれば行ってみたいと思う。



 アクスはウイグル語で【白い水】という意味のオアシス都市だ。
 後漢時代(25年~220年)には姑墨(こぼく)が栄えたが、その後亀茲国の支配下に置かれた。
 新疆(しんきょう)ウイグル自治区アクス地区全体ではウイグル族が7割を超えるが、アクス地区の首府アクス市は逆に漢族の方が多いらしい。ビジネスになるのだろう。

 この街に見どころは特に無い。
 列車の移動が2泊続いていたので、宿でゆっくり休みたかった。
 早めに就寝して、翌日の移動に備えることにした。



 翌朝8時に宿を出たが、まだ夜が明けておらず星が出ていた。中国全土に強引に北京時間を採用するのには無理があると感じた。

 仕方なく朝を待ち、早朝10時発のバスでカシュガルへと向かった。

※地図はこちら

(29)コルラ(中国)

2009-05-13 20:46:34 | プロローグ・タイ・中国
 19時間半かかり、翌日庫尓勒( Ku Er La )(クーアールラー)(コルラ)(ウイグル語で【眺め】の意)の街に着いた。
 車窓の風景も砂漠ばかりで単調だった(きれいな砂丘のある砂漠ではない)。

 時刻はすでに18時を過ぎていたが、外はまだ明るかった。
 北京時間を採用しているせいで、時間の感覚にかなり違和感を感じたが、住んでいる人々は適応して生活していた。
 すでに新疆(しんきょう)ウイグル自治区に入っていて、街にウイグル文字が目に付くようになり、ウイグルの音楽も流れていた。【西域】にいることを実感した。

 ここは、ウイグル自治区の中のバインゴル・モンゴル自治州の州都で古来よりシルクロードオアシス都市として栄えた。香梨を盛産するので、【梨城】の名もある。
 天山山脈の南、タリム盆地・タクラマカン砂漠の北に位置する。

 現在の写真を見ると、当時と比べてだいぶ近代化が進んだように思える。近年タリム油田の開発基地として発展しているそうだ。そのせいもあってか、現在、人口の7割が漢族らしい。



 この街にも名所・旧跡はあるのだが、先を急ぐことにした。パキスタンとの国境(フンジュラーブ峠)は雪が降り始めると閉まってしまうらしいのだ。

 観光をしてないこの街で印象に残っているのは、初めて食べたウイグル族の食事【拌面(バンミェン)】だ。いわゆる焼きソバなのだが、麺が太い。味は店によって違うと思うが、この時食べたものはトマトソースのパスタのような味で美味しかった。



 次の目的地は、列車の終点の街阿克蘇(アクス)だ(現在は喀什(カシュガル)まで鉄道が敷かれている)。
 出発は翌日0時半だ(時差を考えると22時半位だろうか)。



 時間があったので食堂で放送している映画を見ることにした。
 放送していたのは香港映画の海賊版らしい。
 中国ではVCDプレーヤーが市販されていて、そのソフトは海賊版が多いことで問題になっている。

 今なら違法ダウンロードされたものが多いかもしれないが、当時は映画館にビデオカメラを持ち込んで直接撮影されたものがVCDとして出回っていた。
 従って映りも悪く、画面が傾いているものもあった。撮影時にカメラを水平に置かなかったのだろう。そんな場合、みな首を傾けながら我慢して見るのだ(首が痛くなる)。



 食事と映画を見ただけの僅(わず)か6時間程の滞在だった。
 出来ればゆっくり移動したかったが、逸(はや)る気持ちを止められなかった。

※地図はこちら

(28)敦煌(中国)

2009-05-07 23:58:38 | プロローグ・タイ・中国
 敦煌( Dun Huang )(ドゥンホアン)(とんこう)は、甘粛(かんしゅく)の西端に位置する。
 西へ行くと新疆(しんきょう)ウイグル自治区だ。

 日本でも、井上靖さんの小説『敦煌』(新潮文庫)(映画化もされている)でお馴染(なじ)みの土地かもしれない。



 バック・パッカーのたまり場である飛天賓館には多くの旅人がいた(【飛天】とは天女の意味らしい)。
 チベットから近いせいか、チベット帰りの旅行者やこれからチベットに向かうという旅行者が多かった。彼らの語るチベット談話に耳を傾けていたのを覚えている(後年チベットに行ったが噂に違(たが)わず素晴らしい土地だ(参考記事はこちら))。
 旅人の一人が語った言葉を旅日記に書き留めてある。

 「自分にしか分からないものを求めるのが旅」

 自分にしか分からないもの、それはきっとそこにしかないものなのだろう。
 しかもその時・そのタイミングでないと得られないものなのかもしれない。



 到着初日の夕方、鳴沙山(ミンシャーシャン)(めいさざん)に行った。
 生まれて初めて見る砂漠は、とても美しかった。
 砂丘に登り辺りを見渡したところ、砂丘はどこまでも続いていた。



 この砂丘の上で日没を待ち、美しい夕陽が消えていくのを眺めた。

(写真は、三日月型のオアシス月牙泉(ユエヤーチュエン)(げつがせん))



 翌日、中国三大石窟の一つとして有名な莫高窟(モーガオクー)(ばっこうくつ)(世界遺産)を見に行った。

※中国三大石窟 ― 莫高窟、龍門石窟(河南省洛陽市)、雲崗(うんこう)石窟(山西省大同市)

 莫高窟は、敦煌が五胡十六国時代前秦の支配下にあった366年(355年とも)に仏教僧楽僔(らくそん)が彫り始めたのが最初と言われ、その後1000年もの間、この近辺の600余りの洞窟に彫り続けられた仏像の数は2400を越えるという。

 当時莫高窟内で見学出来たのは15の石窟だったが、半分位しか見学しなかった。
 日本人ツアー客に混じってガイドの説明を聞いたりもしたが、ただ漠然と見ていても情報が無いので正直良く分からなかったのだ(ガイドブックは購入しなかった)。
 見学するのに追加料金を払わされる特別窟もあったりしたが、結局見学しなかった。
 当時の自分はまだその価値を判断するには未熟すぎたのだと思う(今も変わらないかもしれないが)。



 宿に戻り、次の場所に向かうことにした。

 敦煌滞在時一緒に行動していた旅人がバスターミナルまで見送りに来てくれた。
 別れ際、その方から一冊の本を手渡された。それは『アジア横断(旅行人ノート)』(旅行人刊)だった。
 ガイドブックと言えば『地球の歩き方』(ダイヤモンド社)しか知らず、そのコピーを持ち歩いていた自分にとって、それは渡りに船とも言うべき一冊だった。

 しかし何故自分にくれるのか。

 その方は中国に留学していた方で、留学を終えた後ユーラシア大陸を横断してから帰国する予定だったらしいのだが、親御さんが病気になった為、やむなく帰国されるとのことだった。

 その一冊を熱い想いと共に託されたような気がした。



 バスターミナルから柳園駅までは2時間かかった。
 ここから西へ向かう次の列車は庫尓勒(コルラ)行きらしい。
 出発まで時間があったので駅に荷物を預けて夕陽を見に行くことにした。

 夕陽を見るポイントを探している間に、工事をしている人々に出くわした。
 彼らは道路脇で自分の位置より高いところで作業していた。
 土嚢(どのう)を担(かつ)ぐ労働者の背後に沈みゆく夕陽が重なり、働く人の姿がシルエットとなって浮かび上がった。

 カメラを持って行くのを忘れたことを後悔したが、今でも心に焼き付いている光景だ。

 人の働く姿に深く感動し、同時に旅に満足した実感があった。

 旅を始めてもうすぐ2ヶ月になる。旅は2ヶ月がちょうどいいのかもしれない。
 好奇心が旅の大きな原動力だと思うのだが、これは言い換えれば飽くことのない心のことだと思う。
 旅は満足したら終わりなのだ。

 この後、何を見ても今までと同じように感動することが難しくなっている。好奇心が磨耗してしまったとも言えるし、陸路だと変化が分かりづらいからとも言える。或いは、旅という【非日常】【日常】になってしまったからかもしれない。



 しかし、一冊の本を託してくれた旅人の想いも背負っているのだ。
 そう自分を奮い立たせて先に進んだ。

※地図はこちら