Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(132)アカバ(ヨルダン)

2011-01-27 00:18:20 | シリア・レバノン・ヨルダン
 Petra (ペトラ)(世界遺産)近郊の街、Wadi Musa (ワディ・ムーサ)に2泊した後、次の目的地 Aqaba (アカバ)へ向かった(バスで Ma'an (マーン)の街を経由して1.5時間位で着いたと思う)。



 ヨルダンで唯一外海(紅海)に接するアカバは、物資調達の面で戦略的に重要な土地であり、近隣諸国との海上交通の要所・海洋貿易の一大拠点となっている。
 気温20℃を下らない温暖な気候で、雨も少ないためリゾート地としても人気の場所だ。



 紀元前4000年頃からこの街は存在しており、初期の集落は聖書によるとエラトと呼ばれていた。エドム人(エドマヤ人)(セム系)、後にはナバテヤ人(アラブ系)の交易の中心地であった。

 その後、支配された王朝によって街の名前が変わっている(ベレニケ(プトレマイオス朝(紀元前306年~紀元前30年))、アエラナ(アイラ)(ローマ帝国))。

 ヨーロッパ・アジア・アフリカをつなぐ海上交易の要衝であり、重要な軍軍事拠点であることもあり、様々な王朝の支配下に置かれてきた。

 この街は、第一次世界大戦中に起こったアラブ反乱(オスマン帝国に対するアラブ人の反乱)の際、アラビアのロレンス( Thomas Edward Lawrence (トーマス・エドワード・ロレンス)(1888年~1935年)の活躍の舞台となっている。

 (写真はロレンス、アカバにて)



 この街では特に観光をしていない。

 ペトラほどではないが、ここもツーリスティックで物価が高かったと旅日記に書き記している。
 そして夜景が美しかったと書いている。アカバからはイスラエルの街 Eilat (エイラット、エイラート)が間近に見れた。



 この街には1泊だけしてすぐに旅立った。次の訪問国はエジプトだ。

※地図はこちら

(131)ペトラ(ヨルダン)

2011-01-20 23:55:00 | シリア・レバノン・ヨルダン
 次の目的地は Petra (ペトラ)(世界遺産)だった。

 ペトラは観光客にとって悪名高き土地だ。遺跡は素晴らしいのだが、物価は観光地価格になっており、あまり居心地はよくない。



 首都 Amman (アンマン)からペトラ近郊の街 Wadi Musa (ワディ・ムーサ)まではバスで3時間。
 料金のことでもめてバスを2本遅らせたのだがこの時すでにその洗礼を浴びていたと言ってもいいかもしれない。
 
 もめた原因は大したことではない。車掌が事前に調査しておいた料金より高い言い値を言ってくるので言い争いになったのだった。
 結局、欧米人旅行者が支払った値段と同額ということで双方が納得した(変な話だが日本人はお金を持っていると思われ、旅行者の中でも一番高い料金を請求されるのでいろいろ面倒だ)。
 これで一段落と思っていると、今度は荷物代まで請求してきた。
 こんなことでずっともめているのも面倒になってしまった。たかだか合計300円の為に1時間以上足止め状態になっているのだ。仕方なく自分を納得させて先方に荷物代を支払った。
 腹を立てた理由、それは金額うんぬんより、足もとを見られている感じが嫌だったのだろう。
 実際、到着したペトラの街は観光地ずれしていて、滞在中お金のことでずっと嫌な思いをした記憶がある。



 ギリシャ語【岩】を意味するペトラには、紀元前1世紀頃から遊牧民のナバタイ(ナバテア)人ベトウィン達が住んでいたという記録が残っている(遺跡内でベトウィンの家族を見かけたが、ここで暮らしているのかもしれない)。
 この地は交通の要衝として中継基地の役割を果たし栄えたらしい。スパイス交易の拠点にもなった。
 治水システムに特徴があり、完全な岩礁地帯である為様々な工夫がなされている(ダム水道管を設置したことが分かっている)。

 紀元前からローマ帝国の影響下にあったが、西暦106年にローマ帝国の属州となった。
 その後363年の大地震で壊滅的な打撃を受け、6世紀には廃墟となったらしい。

 1812年にスイス人の探検家、ルートヴィヒ・ブルクハルトが、この地をヨーロッパへ紹介してペトラは再び脚光を浴びた。
 19世紀の英国の詩人・旅行家ディーン・バーゴン「時の刻みと同じくらい古いバラ色の都市」と表現している。
 20世紀初頭から発掘調査が行われ始めたが、その大部分が未調査のままだと言う。



 ペトラ到着後、シークと呼ばれる岩の裂け目を続く道を歩いていくと突然視界が開ける。



 そこには崖を削って造られた宝物殿エル・ハズネ(高さ約43m、幅約30m)があり、観光客を考古学のロマンへと誘(いざな)う。ここは映画『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の舞台にもなった場所として有名だ。
 建物の外壁の一番上に乗っている壺の中に宝物が隠されていると信じられていた為に宝物殿と呼ばれたらしい。



 光量の変化に伴い1日に50色ものバラ色を見せると言われている。



 その先にはローマ円型劇場(5千人収容)があり、右手には王家の墓と呼ばれる岩窟墓群がある(アーンの墓シルクの墓コリンシアンの墓宮殿の墓(四つの墓の中で最大))。

 かなり広大な遺跡なのでじっくり見るには2日は必要だと思う。
 自分は途中歩き疲れて昼寝をしている。2時間も寝てしまい、すっかり日焼けしてしまった。

 その後、カスール・アル・ビント(オアシスの豊穣を司ると言われるナバテア人の主神ドゥサレス(ナバテア語でドゥシャラ)を祭った寺院、カスールとは【城】の意)の隣にあるエル・ハビス博物館へ(正直あまり印象に残っていないのは遺跡の方がインパクトがあったからだろう)。
 ちなみに最新のガイドブックを見ると、現在エル・ハビス博物館の名前はなく、二つの博物館(ペトラ考古学博物館、ペトラ・ナバテア博物館)の記述がある。

 その後、ライオン・トリクリニウム(岩窟墓)を見学し、最後のクライマックスエド・ディルを見学した。ここは高さ約45m、幅約50mとエル・ハズネより大きい神殿だ。
 ディルとは【修道院】を表しており、ここはかつて修道院だった場所でもある。
 近くの丘からは、アラバ渓谷ジャバル・ハルーン山(モーゼの兄アロンの墓がある)が見渡せた。



 正直言って遺跡には飽きていたが、エル・ハズネと遺跡の広大さは今でも印象に残っている。



※地図はこちら

(130)死海(ヨルダン)

2011-01-13 23:55:00 | シリア・レバノン・ヨルダン
 首都 Amman (アンマン)を拠点にして死海( Dead Sea )(ヨルダン側)にも行っている。

 アンマンで海水パンツを購入したのはまさにこの為で、子供のような好奇心で死海に向かった。
 この時、旅仲間の中田さん(仮名)(参考記事はこちら→ Antakya (アンタクヤ)(トルコ)、Damascus (ダマスカス)(シリア))と行動を共にしている。



 死海までバスで所要1時間程。早速水着に着替えて海に入った。

 死海は、地球上で最も低い海抜にある海(およそマイナス400m)で、その塩分濃度は通常の約10倍(30%程)あると言われている。その塩分濃度の為生物は生息していない

 海水をじっくり見てみた感想。
 うまい例えが見つからないが、理科の実験でビーカーに塩の水溶液を作りかき回せた時の感じに似ている。水に溶けた塩(の流れみたいなもの(モヤモヤした感じ))を見ることが出来た。

 泳いでみると楽に水に浮く。中田さんはカナヅチらしいのだが、ここでは泳げるそうだ。
 仰向(あおむ)けに水に浮かんで空を眺めた。足も沈まないし、手や足を動かす必要もない。とても不思議な感覚だった。目に見えない浮輪に乗っているみたいだ。

 しばらく泳いでいると、皮膚の弱い部分がヒリヒリし始めた。傷があったら痛くて水に入れなかったと思う。まさしく傷口に塩を塗ることになるからだ。



 余談になるが、この日は水星・金星・火星・木星・土星・月・太陽の7天体が、地球の中心から見て25度53分の角度内におさまるという天文学的に興味深い日だったので、惑星同士が一番近い角度になる時刻に太陽の写真を撮影している。



 高濃度の海水に漬かった皮膚が音(ね)を上げ始めたので、泥パックをしながらビーチに横になった。
 このビーチの名前は覚えていないが(アンマン・ビーチかもしれない)、外国人観光客や地元の人々が数多く訪れていた。
 美容の為泥パックをしている人がツーリストに多かったが、地元の人々は普通に海水浴をしているようだ(肌を露出しているのは男性のみ)。大音量のアラビア音楽を流しながら(昼寝をしようと思ったがうるさくて出来なかった)。

 しばらくして再び海に入ったが、やはり皮膚がヒリヒリしたので海水浴を切り上げようと思った。
 しかし、中田さんは生まれて初めて泳げたことが嬉しいらしく、いつまでも泳ぎたそうにしていたので彼の納得のいくまで泳いでもらうことにした(バックパッカーには時間だけが十分ある)。



 ビーチ近くにシャワーなどの設備が無かった為(現在の状況は不明)、近くの温泉に行くことにした。確かタクシーかセルビス(ミニバス)で10~15分位かかったと思う。行き先は、Hamamat Ma'in (ハママート・マイン)と呼ばれる温泉だ。

 死海の塩分・鉱分濃度が高い理由は、死海の水が外に流れ出ない為らしい(太陽の熱で水分が蒸発し塩分・鉱分が凝縮する)。
 その他の理由として、ヨルダン側にある多数の温泉のミネラルが流れ込んでいることも上げられる。



 ハママート・マインに到着すると多くの子供達で賑わっていた。死海と同様、水着で肌を露出しているのは男性だけで、女性は服のまま入浴していた。イスラムの戒律は徹底している。
 ここには滝があり、温水シャワー代わりに滝に打たれたのだが、水量は適量を越えているので痛い。しかしとても気持ち良かった。塩漬けされ縮んでいた皮膚が伸びる感じだ。

 すっかり肌がつるつるになった感じがして、これは女性に人気が出るわけだと中田さんと体験談を語り合いながら、アンマンに戻ることにした。なかなか貴重な経験だったと思う。

※地図はこちら

(129)アンマン(ヨルダン)

2011-01-06 23:40:00 | シリア・レバノン・ヨルダン
 次の目的地はヨルダンの首都 Amman (アンマン)だった。シリアの首都 Damascus (ダマスカス)からアンマンまでは列車で行くことにした。

 個人的にはバスより列車の旅の方が好きだ(これは感覚的なものだと思う)。そのせいか旅先の国において少なくとも1回は列車や地下鉄に乗るようにしていた。 
 しかし、国際列車というのは国境審査が大変でスムーズにはいかないことが多い。今回はかなり手間取った。
 国境で数時間待たされた為、ダマスカスを朝8時に出発したのにアンマン到着は18時と10時間かかっている。



 この街には約1週間滞在している。観光したのは下記の通り。

ローマ劇場  Bosra (ボスラ)(世界遺産)のものよりは小さいが、ヨルダン最大のローマ劇場。思った以上に大きかった。夏場にはコンサートも開かれる。

アンマン城  ダウウンタウンを見下ろす山ジャバル・アル・カラーの山頂にある城跡。古代から要塞としての役割を果たしていた。ここからアンマンの夜景を見たが、ローマ劇場の美しさが印象に残っている。

 また、この街では古着が安く販売されており、シャツ海水パンツを数百円で購入している。
 旅立つ前に用意した海水パンツは陽(阳)朔( Yang Shuo )(ヤンシュオ)(中国)で参加した鍾乳洞ツアーで泥だらけになり、宿の従業員にゴミと間違われて捨てられていたので、これから死海( Dead Sea )に行くにあたって、海パンを購入する必要があった。

 他には日本大使館(ここには新聞が無かった)や、イラク大使館に行っている。
 イラクに行きたいという旅人がいたので、ビザを発給してもらえるか一緒に確認に行ったのだった(予想通り断られた)。
 記念にイラクの紙幣を両替商で手に入れてイラク行きを諦めたのだが、あの時ビザを発給してもらえていたら、自分もイラクに行っていたかもしれない(現実的には残金の不安もあったし、先を急いでいたので何とも言えないが)。



 後年(2004年)、イラクを訪れた青年香田証生さんがテロリストに殺害されるという痛ましい事件が起こった。自己責任という冷たい響きの言葉が今でも記憶に残っている。あの時、自分が彼と同じ立場になっていたかもしれないと考えると、人ごととは思えなかった。

 余談になるが、今週末サッカーアジアカップ(AFCアジアカップ2011)ヨルダン戦が行われる。
 サッカーつながりになるが、当時先を急いでいたのはモロッコで行われる第3回ハッサン2世国王杯を観戦したかったから。
 旅の予定にモロッコは含まれていなかったが、トルシェジャパンの参加が決まった時点で試合観戦に行きたくなっていた。当時は大会に間に合う方法を模索している最中でもあった。



 話が変わるが、ヨルダン国王アブドゥッラー2世(・ビン・アル=フセイン)(1962年~)(在位1999年~)について書いておきたい。

 ヨルダンの街中の至るところにアブドゥッラー2世の写真が飾られていた。
 好奇心旺盛で人懐っこそうな人柄が写真からも窺(うかが)い知れた。

 この街で国王夫妻のポストカードを購入している。国王の家族をポストカードとして販売している国は他にもあったが、一番印象に残っているのはヨルダン国王夫妻のものだ。

 アブドゥッラー2世のウィキペディア記事によると、国王は一般人に変装してお忍びで国民の生の声を聞かれる努力(極秘視察)をされているそうだ(変装がばれたこともある)。まるでヨルダン版水戸黄門だ。
 先代国王フセイン1世・ビン・タラール(1935年~1999年)も同様のことをされていたそうなので、国民から広く愛されているのも分かる気がした。

※国王アブドゥッラー2世のHP(英語)(アラビア語)はこちら

 (写真はアブドゥッラー2世とラニア王妃夫妻(ポストカードをスキャンした画像))



 最後に、旅日記より当時見た夢についての記述を紹介したい。日記にはこう書いてある。

 きょうだいの魂は近い→父と母は選べる

 今は、自分の魂が父と母を選んで生まれて来たと思っている(もう両親はこの世を去ってしまったが)。
 いつからこういう考え方をするようになったかは覚えていないが、自分の中で腑に落ちる瞬間があったのだと思う。

 夢というのは非常に意味深なメッセージを残すことがあるものだ。

※追記になるが、くしくもこの記事の投稿日と同じ日(1月6日)に、アブドゥッラー2世のご子息アリ・フセイン王子(1980年~)がFIFA(国際サッカー連盟)副会長選に初当選された。

※地図はこちら