Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(140)アレクサンドリア(エジプト)

2011-03-31 22:24:24 | エジプト
 Siwa Oasis (シーワ(スィーワ)・オアシス)に3泊した後、バスで Alexandria (アレクサンドリア(アレキサンドリア))へ戻った(所要8時間半)。長時間の移動がきつくなっている。



 【地中海の真珠】と評されるアレクサンドリアは、カイロに次ぐエジプト第2の都市だ。
 紀元前332年に、マケドニア王アレクサンダー大王(アレクサンドロス3世)(紀元前356年?~紀元前323年)(在位、紀元前336年~紀元前323年)によって建設された。街の名前は【アレクサンドロス(イスカンダル)の街】という意味だ。

 アレクサンダーの死後、プトレマイオス1世(紀元前367年~紀元前282年)(在位、紀元前305年~紀元前282年)が興したプトレマイオス朝(紀元前306年~紀元前30年)の首都となった。
 プトレマイオスは、アレクサンダーの部下であり、共に哲学者アリストテレス(紀元前384年~紀元前322年)の元で学んだ学友だったらしい。
 プトレマイオスは、アレクサンダーの遺体をアレクサンドリア近郊に埋めたそうだ(アレクサンダーの墓は現在も見つかっていない)。

 プトレマイオス朝の最後の女王クレオパトラ(紀元前70(69)年~紀元前30年)の物語もこの街と共にある。



 この地にはプトレマイオス1世によって建てられた70万もの蔵書(巻物)を誇る古代最大・最高の図書館(アレクサンドリア図書館)があった。ここはヘレニズムの知の巨匠たちが世界各地から集まった一大アカデミーとして知られている。
 名前を挙げると、古代における最高の科学者と評されたアルキメデスや幾何学のエウクレイデス、地球の直径を計測したエラトステネス、天動説のプトレマイオスなど。

 人口百万人を越え、文化と商業の中心地として繁栄したアレクサンドリアは【世界の結び目】と評されたという。



 この地も過去に大地震の影響で巨大な津波に襲われたことがあったらしい(365年7月21日、1303年8月8日)。古代世界7不思議の一つに数えられたファロス灯台は、1303年と1323年の地震で崩壊している。



 この街で観光したのは下記の通り。

ポンペイの柱(アームードゥッサワーリー)  ローマ皇帝ディオクレティアヌス(244年~311年)(在位284年~305年) によって建築された寺院の一部だと言われている。当時は400本あったとされる柱も今ではこの1本を残すのみとなってしまった。

ローマ円形劇場  2世紀(ローマ帝国時代)に建てられた。敷地内に当時の大浴場跡も残っている。



 カーイトゥベーイの要塞(ファロス灯台の跡地に建てられた要塞)や、博物館(グレコローマン博物館アレクサンドリア国立博物館)には行かなかった。
 歴史の勉強不足もあり興味が湧かなかったからか、それとも疲れ切っていたからだろうか。

 また、当時の旅日記には海上自衛隊の練習艦かしまがアレクサンドリアに寄港していたと書いてある(見学出来たらしいのだが行かなかった)。



 なお現在、この街にはアレクサンドリア図書館(新アレクサンドリア図書館)が復活している(2001年8月1日開館)。


 
 余談になるが、現在この街を舞台にした映画『アレクサンドリア』が公開中だ。 
 この映画を見て、この街の歴史を少し知ることが出来たと思う。

※映画『アレクサンドリア』のおまけ記事はこちら

※地図はこちら

ブログ再開について

2011-03-24 22:40:00 | コメント
 よく人から「今度はどこに行きたいですか?」と聞かれた。

 今ならこう答えるだろう。

 「東北地方太平洋沖地震の起こる前に戻りたい。」と。



 起こってしまったことは変えられない。

 だがあまりにも多くの方が亡くなり、被災者の方々の苦難は続いている。

 

 そんな中で旅のブログを書く気になれなかった。

 しかし、このブログの(1)プロローグを読み返すとこう書いてあった。



 Go straight till the end!! (最後までまっすぐ行け!!)

 何があっても自分らしく ( カズ(三浦知良)選手の言葉)



 来週からブログを再開させて頂こうと思う。



※東北地方太平洋沖地震後、追記させて頂いた記事は下記参照。

(107)プロヴディフ(前編)(ブルガリア)

おまけ(その13)フラワー・オブ・ライフ

祈り

2011-03-17 23:55:00 | コメント
 今回の東北地方太平洋沖地震で亡くなられた多くの方々のご冥福をお祈り申し上げます。

 また、被災地の一日も早い復興をお祈り申し上げます。

 被災者の方々に笑顔が戻る日が来ますように。

 

(139)シーワ・オアシス(エジプト)

2011-03-10 23:32:00 | エジプト
 Lukor (ルクソール)から南下して Abu Simbel (アブ・シンベル)へ行くことも検討したが、結局 Siwa Oasis (シーワ(スィーワ)・オアシス)へ向かうことにした。

 アブ・シンベルに行き、そのままアフリカ大陸を南下する旅人もいたが、自分にはそこまでのお金も気力も無かったし、ガイドブックも持たない状況でただ漠然と遺跡を見るならそのお金を他のことに遣(つか)った方がいいような気がしたからだ(まだ先は長い)。
 しかし、結果的にはアブ・シンベルに行った方が良かったかもしれない(シーワ・オアシスではダラダラ過ごしていたので)。



 まず、ルクソールから23時半発の夜行列車で首都 Cairo (カイロ)へ(所要9時間半)。
 そこから列車で Alexandria (アレクサンドリア(アレキサンドリア))へ(所要3時間)。
 ここでバスに乗り換え、Mersa Matrouh (マルサ・マトルーフ)へ(所要4時間)。
 更にバスを乗り換え、シーワに到着したのは22時半だった(所要4時間)。
 乗り換え時に1時間ずつ待ち時間が生じたので、移動に丸1日かかっている。



 【偉大なる砂の海】と形容されるシーワには紀元前10世紀頃から人が住んでいたという記録が残っている。かつては Sekht-am (セケト・アム)(椰子(ヤシ)の土地)と呼ばれていた。
 リビア国境にも近いこの地には、シウィ語を話すベルベル人(先住民)が多く住んでいる。



 到着翌日は一日ホテルでゴロゴロしていた。前日の移動で疲れたからかもしれないが、とにかくここは静かで休養にはもってこいの場所だった。
 手持ちの本を読み切ってしまったらしく、何回か読み返したという記録が旅日記に残っている。



 シーワ滞在3日目に自転車を借りて観光している。観光したのは下記の通り。

アメン(アムン)神殿  紀元前331年砂漠で見た鳥を追ってやって来たアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)(紀元前356年?~紀元前323年)が、この地でアメン神の子である という神託を受けた。

オンムル・イバイダ  エジプト末期王朝時代(紀元前1090年~紀元前525年)に建てられたアメン神殿の一部が残っている。

クレオパトラ鉱泉  プールのような造りになっていた。見た感じ衛生的にどうかと思ったが、水着を着用して泳いでいる。

 他にシーワ湖アグルミ湖を観光している。
 少し離れたところに砂漠(ステップではなく、砂丘のある砂漠)があると聞いていたが、一人で行って道に迷ったら面倒なので行かなかった。

 サイクリングの途中どこかで夕陽を見ようと思っていたのだが、子供達とのサッカーに夢中になるあまり、夕陽を見るのを忘れてしまった(しかし子供達から元気をもらった)。

 旅先で出会った子供達はいつもエネルギーに満ち溢れていたように思う(日本の子供達はどうだろうか)。

 

 実を言うと、休養しても回復したとは言い難かった。なぜなら気力が湧き上がってこなかったから。
 子供達にもらった元気も長続きしなかった。それはまるで砂に水がしみ込むような感覚だった。
 無気力になったのは、この街がとても静かだったことと関係しているかもしれない(現在はもっと賑やかになっているかもしれない)。
 あまりここに長居すると、本当に【沈没】状態になってしまいそうだったので、ここを立ち去ることにした。

※沈没とは特に観光もせず一ヶ所に長期滞在することを言う。

※地図はこちら

おまけ(その13)フラワー・オブ・ライフ

2011-03-03 00:50:00 | おまけ
(138)デンデラ(エジプト)のおまけ記事



 フラワー・オブ・ライフ( Flower of Life )について簡単に紹介したい。



 とは言っても、きちんと理解しているとは言い難いので、興味のある方は『フラワー・オブ・ライフ-古代神聖幾何学の秘密-(第一巻)(第二巻)』((著者) Drunvalo Melchizedek (ドランヴァロ・メルキゼデク)、(翻訳)脇坂りん(第一巻)、紫上はとる(第二巻))(ナチュラルスピリット刊)を直接読んで頂きたい(中途半端な理解度で説明してもうまく伝わらないと思うので)。

※この本には後年出会い、自分の人生にとって少なからぬ影響を受けた。内容に関しては人それぞれ響いてくる部分が違うと思うし、それでいいらしい。



 フラワー・オブ・ライフとは、この本の言葉を引用すると宇宙の原初の言語とも言える純粋な形と均衡である。全ての生命の創造パターンはこの形を取っている(本書では、様々な事例を挙げ説明している)。



 この本の中で特に興味があるのは、地球の歳差運動についての記述だ。

 地球の地軸(自転する際の軸、北極点南極点を結ぶ直線)は公転の影響を受けないため、常に一定の方向を指す。この性質により北極星航海の道しるべとして役立ってきた。
 しかし、地軸の指し示す方向は長い年月をかけて変化する(これによって北極星も変わる)。この周期(楕円形)はおよそ26000年(気の遠くなる年月だ)。



※歳差運動についてのウィキペディア記事はこちら

 地軸の向きが銀河の中心方向へ向き始めると、我々も目覚め始め次元レベルを上昇し始める(ヒンドゥー教でいうカリ・ユガの時期)。約13000年後、地軸の向きが逆方向に向き始めると我々も眠り始め次元を転落していく。

 本を読み返すとすでに転換点を過ぎていることになるが、その後のドランヴァロ氏の話では、その転換点はマヤの暦の終わりの時(2012年12月)らしい(うろ覚えの情報だが)。
 転換点きっかりに大きな変化が起こるのではなく、前後200年位の間に変化が見られるらしい。また、マヤの暦の本当の終わりの日は若干ずれる模様。



※ドランヴァロ氏のHP(英語)はこちら



 (追記)

 2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震のエネルギーは凄まじく、米国の1ヶ月の消費エネルギー位あったそうだ。
 今回のこの地震により本州は東に243センチ(8フィート)動いたらしい(アメリカ地質研究所)
 他にも地球の自転が1000万分の16秒早まった( NASA )地球の地軸が10cm傾いた( Der Spiegel )という報告もある。