Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(63)シゲット・マルマツィエイ①(ルーマニア)

2009-12-31 23:20:53 | ブルガリア・ルーマニア
 Bucharest (ブカレスト)を観光した後、夜行列車で Sighetu Marmatiei (シゲット・マルマツィエイ)へと向かった。

 ここマラムレシュ地方は、ウクライナとの国境付近にあり、五つあったこの旅の目的地の一つだ

 5年前に来た時は、Baia Mare (バイア・マーレ)が終点だったのでそこからバスを利用したのだが(シゲットまで鉄道は敷設されていなかった気がする)、観光客も増え、鉄道の需要が高まったのだろう。

 前回の旅では、寝台車の切符を持っていながら2等客車に乗った。ブカレスト駅で寝台車の場所を尋(たず)ねた陽気なおばちゃん達に「行き先が同じだから私たちの客車に一緒に来なさい」と言われ、楽しい鉄道の旅をすることが出来たと思う。

 今回も2等客車に乗れば楽しい旅が出来ると思ったが、それよりも眠気が勝(まさ)った。
 昨晩は荷物を気にしながら寝ていたので熟睡していなかったし、今日もほとんど仮眠を取っていなかった。ブカレストは治安が悪く、心落ち着く場所が見つからなかったのだ。

 切符売り場で「寝台車の切符は無い」と言われ(クリスマス前で帰省客が多い模様)、仕方なく1等客車の切符を手配した。2等客車よりは眠れるだろう。

 1等客車に乗り込むと、若者が多かった。彼らの多くは大学生らしく、普通に英語を話すことが出来た。裕福な家庭の子息というのが個人的な印象だ。

 列車は15時間半かかり、ようやくシゲットの街に着いた。



 シゲットの街は5年前と比べ随分と明るく感じられた。

 当時はまだ観光客が珍しい時代だったらしく、街を歩いているとよく声をかけられた。ちょっとした人気者になれたのだが、今回は勝手が違うようだ。
 この5年間で随分観光客が訪れるようになったのだろう。実際TVでも何度かマラムレシュを取り上げた番組を見た気がする。
 携帯電話も普及していたし、インターネットカフェもあった(パソコンが故障中だったが)。
 この街も変わっていくのだろう。素朴で古き良き姿のままでいて欲しいと思う気持ちもあるが、それはこちらのエゴかもしれない。



 とりあえず、宿を探してプライベートルーム(民宿)に泊まった。優しいウクライナ人のおじさんが働いていたが、宿の女主人がいろいろと口うるさかったのを覚えている。



 実はクリスマスをこの街で迎えたいと思っていた(何とか間に合ってよかった)。
 だが、いつもより早く食堂やお店は閉まってしまった。
 クリスマスは本来家族で祝うものだということを改めて知った。



 シゲットで観光したのは下記の通り。

マラムレシュ民族博物館  5年前に訪問した時にここで働いている人々を撮った写真を渡したら喜んでくれた。

エリ・ヴィーゼル(1928年~)の生家  ノーベル平和賞受賞作家エリ・ヴィーゼルの生家があるが、中には入れなかった



 12月24日から1月6日までは COLINDE (コリンダ、キリスト生誕祭)でいろいろなイベントが開かれていた。

 教会のミサに参席したり、合唱コンサートを聴きにも行った。クリスマス・キャロルだ。
 残念ながら、少年達(小中学生位)のマナーが非常に悪かった。
 合唱中に、ステージに爆竹を投げ込むのだ。マネージャーらしきおじさんが注意していたが、少年達の行為は止まらなかった。

 その行為は、少年達の不平不満の表れのように思えてならなかった。
 昔ならば、年配者を敬い、大人の発言にきちんと耳を傾けたのではないかと思う。

 彼らは400年近くも変わらぬ生活を続け、それを誇りとして生きてきた民だ。閉鎖された社会だったかもしれないが彼らは幸せだった。

 だが、今やTVを見ればヨーロッパの先進国の生活が手に取るように分かる。
 そして、自分のような観光客も若者にとっては影響が大きいのだろう。ここにやってくる旅行者は、(牧歌的生活を失った)先進国から来る人が多いからだ。
 先進国の生活と比較してしまうと、若者たちは自分のことを単なる時代遅れの田舎者としか思えないのかもしれない。知らないことは幸せなのだ。
 
 みやこうせいさん(ジャーナリスト)が【魂の美しい人々】と形容したマラムレシュの人々にも、時代の波によって大きな変化がもたらされようとしていた。

※地図はこちら

(62)ブカレスト(ルーマニア)

2009-12-24 00:36:04 | ブルガリア・ルーマニア
 ルーマニアの首都 Bucharest (ブカレスト)行きの国際列車は Istanbul (イスタンブール)を22時に出発する。

 アジア横断の旅において何度も顔を合わせるうちに、いつしかみたいなものが生まれていたのだろう。旅仲間達がわざわざ駅まで見送りに来てくれた。寒かったが心はぽかぽかだった。

 皆旅立つ時は一人だった。しかし一人の力でここまで来れたのではない。だからこそ人の繋(つな)がりの大切さを誰もが知っていたのだと思う。



 夜中にブルガリアとの国境に着いた。国境の街 Edirne (エディルネ)から少し先に進んだ Kapikule (カップクレ)だ。
 外に出て国境通過の審査の列に並んだ。雪が降り積もっていてとても寒かったのを覚えている。
 この国境でブルガリア入国を拒否された旅行者の話を聞いていたので、内心ビクビクしていたが、無事に国境を通過できた。



 客車で同室になったルーマニア人の男女がいた。職業は教師で月収100ドル位らしい。小遣い稼ぎにイスタンブールに行った帰りだそうだ。どうやってお金を得たのか聞きたかったが、ビジネスとしか教えてくれなかった。いい収入になったのは確からしい。
 一生懸命働いても月に100ドルにしかならない彼らに比べ、自分ははるかに恵まれていると感じた。



 到着予定時刻を6時間近く遅れてようやく列車がブカレストに着いた。すでに時計は23時を過ぎていた。

 まずは宿を探さなくてはならない。
 クリスマス前のこの時期、帰省ラッシュでホテルはどこも満室だった。
 やっと1軒見つけたのだが、ルーマニアの通貨である Lei (レイ)(現在ルーマニアでは新通貨単位 RON (レウ)を使用)でないと支払いが出来ないらしい。両替しようにもこの時間ではどこも閉まっているし両替出来ない。
 後払いは出来ないということなので、とにかく両替をしなくてはならなかった。

 ようやく駅前にある TOROS TOUR という旅行代理店(長距離バスチケット取扱店)で両替してもらい、ホテルに戻ったのだが、すでに満室だと言う。
 どうやら他の客を入れてしまったらしい。文句を言ったがどうにもならなかった。
 両替位すぐ出来るとたかをくくっていたのだが、今考えると先程のルーマニア人教師達に両替をしてもらっておけば良かったと思う。

 駅から離れた場所にもホテルがあるかもしれないが、ブカレストは治安があまり良くないのでやめておくことにした。

 結局だめもとで TOROS TOUR の親切な店員に一晩夜を明かさせてくれと頼んでみることにした。この店は広くないがバスの待合室も兼ねていて24時間営業らしいのだ。

 こちらの困った姿と、外の治安の悪さを考慮した青年は、ここで夜を明かすことを OK してくれた。ただし荷物を盗まれないようにとのことだった。そこまでは面倒見切れないということらしい。
 もちろんそこまで手を煩わせるつもりはない。人の出入りがあるので、浅い眠りになるのは仕方ないことだ。
 
 一体この旅で何度こうやって荷物を気にしながら眠ったことだろう。不思議と人の気配を感じると目が覚めるようになっていた。



 夜中にガラの悪そうな男が一人入って来た。こちらをチラチラ見ながら青年と何か会話をしている。青年の答えた「中国人」という単語だけ意味が分かった。
 おそらく、その男はこう尋ねたのだろう。「こいつはどこの国の奴だ?」と。

 彼は、自分が日本人であるということを知っている(すでに伝えていたから)。
 その男にここにいるのは日本人だと伝えるより、中国人と伝えた方が危険が少ないと判断したのだろう。
 もちろん、「中国人と言っておいてやったぜ」なんて恩着せがましいことを一言も言わなかった。
 自分の旅は、こういったいくつもの親切によって支えられていた。

 Mr.Olteanu Valeriu どうもありがとう。

 翌朝、彼にお礼を言って店を出た。



 ブカレスト・ノルド駅に戻り、夜行列車の切符を購入し荷物を預けた。

 さて、街を観光しようと思っていた矢先、いきなりポリスチェックを受けた。噂に聞くニセ警官だ。職務質問のフリをして財布を見せろと言い、中のお金を抜き取る手口だ。
 噂を聞いていたので、財布にはごく僅(わず)かのお金(20ドル)しか入れていなかった。その少なさに驚いてそのまま返してくれた。

 ちなみに街中でもニセ警官に出くわしている。
 この時は二人組で、【①まず一人が闇両替(違法)を持ちかけてくる→②そこにニセ警官が登場し、罰金を徴収する】というシナリオだったらしいのだが、怪しいので最初の男の申し出を断っていた為、先方の段取り通りにならずに済んだ。



 ブカレストで観光したのは下記の通り。

国民の館  悪名高き故チャウシェスク大統領(1918年~1989年)が巨財(1500億円)を投じて建設した宮殿。アメリカの国防総省ペンタゴンに次ぐ大きさの建物。見学料はガイド付きで200円弱だった。ちなみに訪問したのは12月23日。ルーマニア革命記念日の翌日だったが、ひっそりとしていた。現在1989年のルーマニア革命から20年経つが、新しい時代の幕開けを血なまぐさい形で迎えたこの国には、どこか暗い影があるような気がしてならない(好きな国なのだが)。

大主教教会  1650年に建てられた。中には入っていない。

凱旋門  第一次世界大戦の勝利を記念して1919年に建てられた。この近辺で前述の二人組(闇両替+ニセ警官)に出くわしている。

ルーマニア国営テレビ局  ルーマニア革命時の戦闘の舞台となった場所。中には入っていない。

国立美術館  共和国宮殿の一部が美術館になっている。無料で見学させてもらった。

農村美術館  中には入れなかった。外にある農村を復元した展示物を見学した。

ルーマニア・コレクション美術館  無料で見学させてもらった。

ブカレスト市歴史博物館  革命で亡くなった人々の写真が展示されていたので一人一人の顔をしっかりと見た。彼らの犠牲の上に今の自由がある。



 市内観光中、遠くの方で銃声が聞こえたのを覚えている。5年前に訪問した時と同様、物騒な街だというのがこの時の正直な感想だ(現在は変わっているかもしれない)。

※地図はこちら

(61)イスタンブール①(トルコ)

2009-12-17 00:12:27 | トルコ
 Trabzon (トラブゾン)から Istanbul (イスタンブール)へと向かうバスの同乗者の中に、浮浪者のようなお爺(じい)さんが一人乗っていた。風呂に入っていないのか体臭がきつく、周りの乗客が嫌がっていた。
 そのせいか車掌の彼に対する態度はきつく、なぜか彼は950万TL(トルコリラ、当時の通貨単位)(約2千円)を支払わされていた(自分は700万TLを支払った。正規の値段は不明)。
 お爺さんも何か言い返しているのだが、うまく通じていないようだ。言葉が違うのだろうか。もしかしたらクルド人かもしれない。

 クルド人は、かつてオスマン帝国の領内にその居住地があったが、第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れたことにより、その居住区がトルコやイラク、イラン、シリア、アルメニアなどに分断されてしまった。いまだに彼らは国を持たない生活が続いている。



 17時間半かかり、翌朝イスタンブールに着いた。
 着いたのはおそらく、エセンレル・オトガル(長距離バスターミナル)と思われる。そこからメトロを使って Sultanahmet (スルタンアフメット)地区方面の安宿街へと向かった。 



 イスタンブールは長期滞在しやすい土地で、多くの旅人がその疲れを癒す場所になっていた。
 見どころも多いし、食事も美味しい。インド・パキスタン・イランと通過してきた旅人にとっては物価が高いと感じるかもしれないが、それでもヨーロッパよりは安い。



 イスタンブールには4泊しているが、観光はあまりしていない(ルーマニアへ行った後再び戻って来るつもりでいた)。
 ここでルーマニアビザ($1)(1ヶ月有効)を取得している。

 観光したのは下記の通り。

ガラタ橋  旧市街新市街のかけ橋。旧市街側の Eminonu (エミノニュ)では、有名な(さば)サンド(その名の通り焼き鯖のサンドイッチ)を売るスタンドが並んでいる。1個100円位だったが、美味しかった。

ベリーダンス見学  夜のイベントとしてベリーダンスショーを見学できるレストランが幾つかあった。ダンスに誘われ参加すると服を脱がされることがあるのでその覚悟が必要。

ラマダン(ラマダーン)期間中ということもあり、近くの広場では夜にお祭り騒ぎになっていた(あるいは、ちょうどラマダン明けだったのかもしれない)。ラマダンの期間イスラム教徒は日中断食をしなくてはならず、夜の食事はちょっとしたイベントのようだ。




 イスタンブールにはブロンド・イケメンのジゴロのような輩(やから)が多く、日本人女性がよく引っかかっていた。
 朝一人で到着したと思われる若い女性(旅人)が、夕方には地元のイケメンと手をつないで嬉しそうに歩いていた。
 その後どうなったか知らないが、後日ジゴロの一人から小馬鹿にされた口調でこんなことを言われたのを覚えている。

 「日本の女性はすぐ体を許すし、お金をくれるぜ。」

 中には、日本に帰ってからも送金する人がいるそうだ。
 全ての日本人女性がそうだと思うなと反論したが、彼らがそれで生計を立てているのは事実のようだ。

 また、こういう格言(?)を旅人から聞いた。

 「日本でもてない女性はイタリアに行け。それでももてなかったらイスタンブールに行け。」



 話変わって、急な坂を歩いていた時のこと。幼稚園児位の小さな女の子が水を汲んだタンクを両手で運んでいた。これが毎日の彼女の日課なのだろう。
 一時の情けなどかえって良くないのかもしれないが、黙って通り過ぎることが出来ずに思わず手伝った。
 坂を上り終えたところで、「 Tamam (タマーム)( OK )と言われ、タンクを返した。

 たとえどんなに小さな年齢でも、生きていく為には働かなくてはならないのだろう(かと思えば、簡単にお金を得る前述のジゴロのような輩(やから)もいるが)。

 自分が旅をして見て来たもの、それは働く人々の姿だった。



 イランの Tehran (テヘラン)から共に旅をしてきた二宮さん(仮名)とここで別れ、一人夜行列車で Bucharest (ブカレスト)(ルーマニア)へと向かった。

※地図はこちら

(60)トラブゾン(トルコ)

2009-12-10 22:58:01 | トルコ
 Trabzon (トラブゾン)に着いた翌日にまずしたかったこと。それは友人へメールを送ることだった。
 当時は今よりインターネット普及率が低く、日本のインフラ整備は先進国水準より遅れていると言われていた(2000年問題で騒いでいた頃の話だ)。

 フリーメール((例) Hotmail )という便利なものを教えてもらい、旅仲間とアドレス交換をしては、その後の旅の報告をしていた。
 旅先で一人の寂しさが身にしみることもある。そんな時の一通のメールに何度となく救ってもらった気がする。
 人は一人では生きられない。

 アルメニア・ジョージア(旧グルジア)とネットが出来なかったので、10日以上チェックしていなかったメールを見たかった。
 しかし、ここのネットの接続は遅かった。ネットカフェはゲームセンターみたいな役割らしく、インターネットをする人は少ないようだ。
 延々待たされた挙句、ほとんど何も出来ずに料金だけが加算されていった。
 結局、1時間位粘ったが、メールを見ることが出来なかった。料金をまけてもらって外へ出た。


 
 トラブゾンは黒海沿岸にあり、トルコ東北部における経済活動の中心となっている。
 紀元前7世紀にギリシア人によって交易都市として建設され、古くは Trapezous (トラペズス)、Trebizond (トレビゾンド)とも呼ばれた。
 1204年~1461年の間、トレビゾンド帝国の首都として、またその交易港として栄えた。
 

 トラブゾンの街はそれほど大きくはないので観光もほとんどしていない。

 メイダン公園の周辺や海辺を散策したりした。
 ここから臨(のぞ)んだ黒海は、冬の曇天(どんてん)と相まって暗い印象が強い。

 他にはバザール(市場)にも行っている。
 ここではロシア人の姿をよく見かけた。フェリーでロシアからやって来るのだろう。
 ちなみにこのバザールで電動式ひげそりを購入した。



 トルコ東部を観光するか迷ったが、夜行バスで Istanbul (イスタンブール)へと直行することにした。
 どうしても2000年の幕開けをルーマニアで迎えたかったのだ。先へ急がねばならない。

※地図はこちら

(59)クタイシ(ジョージア)~トラブゾン(トルコ)

2009-12-03 06:34:08 | トルコ
 Kutaisi (クタイシ)で1泊した後、夜行バスで Trabzon (トラブゾン)へ向かった。
 Istanbul (イスタンブール)行きのバスを途中下車する形になる。

 ジョージア(旧グルジア)の国境越えは、あまりいい噂を聞いていなかった。賄賂を要求されることもざらにあるという。
 イミグレでは、緊張しながら審査の順番を待っていたと思う。
 
 その時の審査官は若い女性だったが、非常に高圧的な態度を取っていた。まさしく権力を振りかざしていたと言える。
 国境を越える人々は皆縮こまって申し訳なさそうにしていた。そうしないと、この高圧的な審査官にどんないちゃもんをつけられるか分からない。

 さて、どうしたものかと自分の番が近づくにつれいろいろ思案していたのだが、それは杞憂(きゆう)に終わった。
 救ってくれたのは一人の小さな子供だった(それもまだ1~2歳位)。

 実は、自分の前に若いパパの Mr.Artur Gerts とその息子 Alex 親子がいたのだが、父親に抱きかかえられた Alex がとてもキュートで、見る者を和やかな気持ちにさせてくれたのだった。

 先程までこわい顔をしていた審査官の表情がほころんだ。子供の笑顔の力はすごい!Alex さまさまだ。
 おかげで、国境を問題なく通過することが出来た。

 ちなみに Artur の奥さんはドイツにいるらしかった。彼自身は無職のようだったが、複雑な事情があるようにも思えたので、深くは聞かなかった。
 国境を無事越えられただけで十分だ。どうもありがとう。



 クタイシを17時に発ったバスは、10時間近くかかってトラブゾンに着いた。時差が2時間あるので、着いたのは午前1時だった。

 まず宿を決めて食事に行った。
 初めて食べるトルコ料理は美味(おい)しかった。しかし、物価は高く感じられた。イランでは1食100円で足りたが、トルコはその3倍くらいかかる。
 バケット(フランスパン)は食べ放題だったので、スープに浸したバケットばかりを食べた気がする。特にこの街では物価の高さが気になって仕方がなかった。

 いよいよアジアからヨーロッパへとステージが変わるのだ。
 


 ホテルに戻って感じたこと、それはささやかなことで幸せを感じれるということ。

 温水シャワーで温まってベッドでゆっくり眠れるだけで幸せだ。
 ちょっと風邪気味だが、ここで2泊すれば治るだろう。
 ジョージアで出会った人々に比べれば、自分ははるかに恵まれている
 
 緊張から解放されたのか、ほっとして深い眠りについた。

※地図はこちら