Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(121)ホムス(シリア)

2010-11-25 19:30:00 | シリア・レバノン・ヨルダン
 Baalbeck (バールベック)(世界遺産)を観光した後、レバノン・シリアの国境を越え、Homs (ホムス)(シリア)へ着いた(所要3時間)。

 ホムスは、Damascus (ダマスカス)、Aleppo (アレッポ)に次ぐ、シリア第三の都市で、両都市の中間に位置する。

 この街は歴史的にも古く、記録として残っているのはセレウコス朝シリア(紀元前312年~紀元前63年)の頃かららしい。
 セレコウス朝は、アレクサンドロス大王後継者の一人、セレウコス1世ニカトール(紀元前358年~紀元前281年)が築いた。シリア、アナトリア、イランと広大な版図を築いた帝国だ。

 古代ローマ時代には Hemesa (ヘメサ)(エメサ)と呼ばれ、宗教都市としての役割を果たしていたらしい。
 この地にあった神殿(太陽神エル・ガバルを祀(まつ)っていた)の司祭であり、ヘメサの首長でもあったアラム人サムプシケラムスがセレコウス朝を滅亡に追いやった後、世襲の祭司王による王朝がローマ帝国支配下で続いてゆくこととなった。
 この地からローマ皇帝ヘリオガバルス(マルクス・アウレリウス・アントニウス)(203年~ 222年)が誕生している。



 いろいろ歴史的に見ても興味深い街なのだが、勉強不足だった自分にとって、ここは休息の為の街でしかなかった。

 ここを拠点にして、再び Hama (ハマ)の街を訪問している。
 ハマでフェスティバルがあると聞いていたのだが、特に大きなイベントがあるわけでもなく、露店商が店を出しているだけだった。
 それでも地元の人にとっては大きなイベントということで、結構楽しそうだった。



 ホムスを拠点にして訪問したのは、ハマともう一つ、Crac des Chevaliers (クラック・デ・シュヴァリエ)(世界遺産)だ。
 十字軍の拠点となったこの城は、宮崎駿監督の映画『天空の城ラピュタ』のモデルにもなったと旅人の間で噂されていた(真偽の程は不明)。

※地図はこちら

(120)バールベック(レバノン)

2010-11-18 23:59:15 | シリア・レバノン・ヨルダン
 レバノン滞在3日目、トランジットビザの為この日のうちに出国しなくてはならない。
 シリアに戻る前に、レバノン最大の観光名所、Baalbeck (バールベック)(世界遺産)に立ち寄ることにした。

 ここは、Beirut (ベイルート)の北東86km、ベカー高原の中央にある(バスで所要2時間)。

 Palmyra (パルミラ)の入場料がただ同然の値段だったので、バールベックの入場料約700円(当時)が非常に高く感じられた。シリアとレバノンの物価の違いだろうか。



 バールベックは世界でも有数のローマ神殿跡で、中東・ヨーロッパの人々にとって人気の観光地となっている。毎夏に中東・ヨーロッパの芸術家達を招いてバールベック・フェスティバルが開催されている。

 バールベックとは、【ベカー高原の主神】を意味する。
 元々フェニキアの豊穣の神バール(ハタド)が祀(まつ)られていたことにに由来すると考えられている。

※バールとはセム語【主】を意味し、元々カナン地域を中心に崇められた嵐と慈雨の神。旧約聖書では悪魔扱いされている(異教徒の神だった為)。
 
 後に、ギリシア・ローマ系の神々と習合し、祭神はジュピター(天地を創造する最高神)、ビーナス(愛と美の女神)、バッカス(酒神)になった。
 この三神を祀った三つの神殿から成っている。

 バールベックは、ローマ帝国の手によって紀元1世紀頃から神殿が築かれていったと考えられている。
 その後、312年にコンスタンティヌス帝(272年~337年)がキリスト教改宗したことにより、異教徒の神殿であるバールベックは破壊され続け、教会へと役割を変えた。
 7世紀にアラブ人の手に落ちてからは、要塞都市として機能したらしい。

(写真は、バッカス神殿の入り口)



(同じくバッカス神殿の内部)



 バールベックで有名なのは、トリリトン(驚異の三石)と呼ばれる3つの組み石だ。

 ジュピター神殿の名残(なごり)として残ってる6本の大列柱(柱の高さ20m・直径2.5m、かつては54本あり神殿を支えていたらしい)の基壇にある土台の石なのだが、長さ18m・幅4m・高さ4m、重さ650トン~970トンという巨石で、建築物に使われた切石としては世界最大を誇る。

 この近辺にも南方の石と呼ばれる巨石(重さ2000トン)が存在するのだが、現在の技術ではこれらの巨石の運搬は不可能らしい。

 太古の昔にどうやってこれらの巨石を運搬したのか、今だその技術はと言うのが面白い(人力の場合、数万人規模の労働力が必要らしい)。

※地図はこちら

おまけ(その10)“ Desert Rose ”( Sting )

2010-11-11 00:24:20 | おまけ
(119)ブシャーレ(レバノン)のおまけ記事



 Sting (スティング)のヒット曲“ Desert Rose ”を紹介したい。
 
 

 この曲は、1999年に発売された『 Brand New Day 』に収録されている。
 アルジェリアの歌手 Cheb Mami (シェブ・マミ)とのコラボ曲だ。
 
 ちなみにスティングは翌年このアルバムでグラミー賞を受賞している(最優秀ポップ・アルバム部門・最優秀ポップ男性ヴォーカル部門)



・“ Desert Rose ”の映像はこちら

(119)ブシャーレ(レバノン)

2010-11-10 23:58:00 | シリア・レバノン・ヨルダン
 シリア・レバノン国境で取得したビザはトランジットで3日間有効のものだった。
 それほど自由な時間があるわけではない。

 Beirut (ベイルート)到着翌日、レバノンの国旗にも描かれているレバノン杉を見に行くことにした。



 まず、バスでレバノン第二の都市 Tripoli (トリポリ)( Trablos (トラブロス))へと向かった。
 ベイルートの北85kmに位置するこの街も古い歴史を持つが、この時観光する時間は無かった。

 道中戦車を見た時、この国の置かれている状況を改めて知った気がする。



 ここでバスを乗り換えて Bcharre (ブシャーレ)という村に向かった。
 標高1450mの位置にあるこの村に着くと、日曜日ということでミサに参加した人達で賑わっていた。

 中東の国々=イスラム教国家というイメージがあるが、ここレバノンの約4割の人々はキリスト教徒だ。

 この村は、詩人・画家のジュブラン・カリール・ジュブラン(1883年~1931年)の生地として有名らしい。
 この地には彼の遺体を祀(まつ)っている修道院(ジュブラン博物館)があるが、時間が無かった為訪問していない(HP(英語)はこちら)。

 (写真は15歳の時のジュブラン、この時はすでにアメリカに移住していた)



 ここからレバノン杉まで5km程上らなくてはならない。
 幸い、大勢の人々がいたので片っ端から声をかけてヒッチハイクで行くことにした。

 ここで運良くレバノン杉まで車を出してくれるという青年が見つかったので、彼の好意に甘えて案内してもらった。



 カディーシャ渓谷を望む標高2000mのこの地域には、レバノン杉の群生地が残っている。
 樹齢1200年~2000年という長い年月を生き抜いた木々は、この地で起こった多くの出来事を見て来たのだろう。いっこうに争いをやめない人間に愛想を尽かしているかもしれない。

 (写真は二番目に大きいレバノン杉、正確にはマツ科の樹木になる)



 ブシャーレに戻り、トリポリ行きのバスの出発時刻までかなり待たなければならなかったのだが、気前のいい青年がそのまま送ってくれると言う。

 この青年、金持ちのボンボン青年実業家といったところだろうか(お礼のお金を受け取ろうとしなかった)。

 彼は高級外車を運転しながら同じ曲を大音量で聞いていた。
 そのせいか、自分の中でレバノンという国のテーマソングはこの曲だ。

 Sting (スティング)“ Desert Rose ”

※スティング“ Desert Rose ”のおまけ記事はこちら

※地図はこちら

(118)ベイルート(レバノン)

2010-11-04 08:52:20 | シリア・レバノン・ヨルダン
 古代都市 Palmyra (パルミラ)(世界遺産)での夕陽を見ることなく Hama (ハマ)に戻って来たことを後悔したので、明日荷物を持って再度パルミラに行くつもりでいた。

 しかし、ここハマの街で出会った旅人に強く誘われ、結局 Beirut (ベイルート)(レバノン)へと向かうことにした。
 予定通りにいかないのが旅だとつくづく思う。その気ままな感じが旅の醍醐味だ。



 ハマから Homs (ホムス)経由で国境を越え、ベイルートまでかかった時間は4時間余り。バスや乗り合いタクシー等を乗り継いだ記憶がある。
 
 道中、崖下に転落直後と思われるショベルカーの脇を通り過ぎた。
 作業員たちによって救助されたショベルカーの運転手は体に力が入っていないようだった。人間というより軟体動物のような印象を受けた。
 乗車していたバスは止まることなく走り過ぎてしまったので状況は詳しく分からないが、もしかしたらショベルカーの運転手は既に亡くなっていたかもしれない(無事だったことを祈りたいが)。

 旅日記にはこう書いてある。

 「人生明日があるのが当たり前と思ってはいけない。一日一日を精一杯生きよ。」


 ベイルートに到着後、街へ観光に出かけた。

 東地中海交易の中心地として栄えたベイルートは、国際色豊かな都市として中東のパリと呼ばれていたが、1975年に始まったレバノン内戦(~1990年)により大きく様変わりしてしまった。
 街の東側(一部)をキリスト教徒、西側(大部分)をイスラム教徒が占め、その争いにより多くの人々が亡くなった。上流階級の人達はアメリカ等の外国に亡命したらしい。
 
 (写真は、当時も残っていた内戦の傷跡)



 シリアでは情報統制の為かインターネットの日本語閲覧が禁止されていたので、この街でメールをチェックすることにした。
 ネットカフェを探して人々に道を尋ねていくと、いつの間にか南地区(イスラム教徒地区)に向かっていた。
 すれ違う人々の目が穏やかではない。長い内戦を経験した心の傷が癒えていないのかもしれない。治安も良くないと感じた。

 イスラム教徒地区の方が内戦の傷跡が残っていたように思える。これは資本の差かもしれない。
 第一次大戦後、フランス統治下で少数派のキリスト教徒が優遇され、宗教間の緊張が高まった背景がある。東地区(キリスト教徒地区)は今でも外国資本の援助を受けているのだろう。

 東地区に向かうと、きらびやかな店が立ち並び、腕や脚などの肌を露出した服装の女性達を見かけるようになった。
 同じ街でこうも違うものかと驚いたのを覚えている。



 海岸通り(コルニーシュ)を通って鳩の岩に辿り着いた頃には日も暮れかかっていたので、ここで水平線に沈む夕陽を眺めた(曇って霞(かす)んでいたのが残念だったが、パルミラの夕陽にかける期待がますます高まった)。

 レバノンは内戦後平和を取り戻したかに見えたが、2006年にはイスラエル軍によるレバノン侵攻(イスラエル軍がヒズボラ(神の党の意、シーア派系非国家軍事組織)をレバノン領内に追跡侵攻した戦争)もあり、完全な平和が訪れたとは言い難い。

 一日も早く、この地の人々が安心して暮らせる日が来ることを願いたい。

※地図はこちら