Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(214)ダブリン(後編)(アイルランド)

2012-12-06 23:55:55 | アイルランド・北アイルランド
 Dublin (ダブリン)滞在はわずかな期間だが、旅日記を読み返すと観光以外にも幾つかメモしていることがある。

Lisbon (リスボン)(ポルトガル)で会った旅人と再会し、食事をご馳走になった。彼は約2ヶ月間のヨーロッパの旅を終え、これから帰国するそうだ。

日本大使館で新聞を閲覧。

アメリカ大使館アメリカビザ申請について調べてみると、手続きがいろいろと面倒なことが分かり、結局申請していない。観光の場合90日以内ならビザは不要だったので(現在は90日以内の滞在でも ESTA (エスタ)という電子渡航認証システムによる事前申請が必要)、ビザを取らずに入国することにした。ビザ申請を検討したのは、入国審査で入国を拒否される可能性があったからだ。

New York (ニューヨーク)行きの航空券を手配した(実際には隣接州の都市 Newark (ニューアーク)まで往復約560ドル)。料金が高く感じられたが、8月は旅行シーズンの為航空券代が高いとのこと。

・映画『キャラバン』(原題“ Himalaya - l'enfance d'un chef ”)(エリック・ヴァリ監督)を観た。ネパールの映画で、ヒマラヤの地に生きる人々を描いている。詳細は忘れてしまったが、観客の欧米人達が爆笑しても、自分だけ笑えなかったシーンがあったのを憶えている。それは東洋と西洋の文化の違いによるものであり、自分が東洋人であることを強く意識した一瞬でもあった。

※【 l'enfance d'un chef 】は、【 the children of a chief 】(長老の子供たち)の意

※この映画で印象に残った言葉【二つの道があったら、険しい方を選べ】

※映画『キャラバン』のおまけ記事はこちら

・道端で出会ったアイルランド人の老夫婦に手紙の翻訳を頼まれている。ハガキに書かれていたのは日本語だった。アイルランドを旅行した日本人からのもので差出人の職業は板前さんらしい。そこにはアイルランド滞在中にお世話になったことの御礼と「是非日本に遊びに来て下さい。その時は私が奮(ふる)って料理を作ります」というようなことが書いてあった。内容を伝えると、ご夫妻は既に分かっていたかのような反応を見せた。気持ちは必ず伝わるものなのだろう。大切なのは言葉よりも伝えようとする気持ちなのだ。そのことを教えてもらい、且つ幸せの御裾分(おすそわ)けをしてもらった出来事だった。

【 You will never fail until you give up. 】(ダブリンのどこかで目にした言葉を書き記したものだろう)



 ダブリンに3泊した後、この旅最後の訪問国アメリカへと向かった。

※地図はこちら

(213)ダブリン(前編)(アイルランド)

2012-11-29 23:06:40 | アイルランド・北アイルランド
 2泊した Drogheda (ドロヘダ)の街を去る前に、宿で同部屋だったデンマーク人の旅人にトーマス・クック時刻表をあげることにした。彼はこれからヨーロッパ各地を旅すると言う。旅の記念に日本に持って帰りたい気持ちもあったが、これでよかったと思う。



 首都 Dublin (ダブリン)まではバスで移動した(所要約1時間)。
 宿はクライスト・チャーチ大聖堂のそばに立地する Kinlay House (ユース・ホステル)(当時の値段でドミトリー1泊約1300円也)。

 ダブリンは、アイルランド島東部の都市で、リフィー川河口の南北に街が広がっている。
 欧州有数の世界都市であり、アイルランドの人口の3分の1がダブリン首都圏に集中している。

 クラウディオス・プトレマイオス(83年頃~168年頃)( Alexandria (アレクサンドリア(アレキサンドリア))(エジプト)の天文学者、地理学者)の文献に Eblana (エブラナ)と記されている地が現在のダブリンとされている。ダブリンのゲール語の名称 Dubhlinn ( Duibhlinn )【 black ( dubh ) 】【 pool ( linn )(黒い水たまり)の意(もともとはヴァイキングの言葉らしい)。

 ダブリンの街はアイルランド島の歴史の中で古くから重要な役割を担ってきた。

 450年頃に聖パトリック(パトリキウス)(387年?~461年)(アイルランドの守護聖人)によりキリスト教に改宗。
 9世紀半ば頃、ノルマン人のヴァイキングが襲来し、この地に黒い水たまりと呼ばれる城塞を築いた。その後3世紀の間、住民たちは何度かデーン人(この地に住み着いたノルマン人)からダブリンを奪回した。
 1171年、ヘンリー2世(1133年~1189年)(イングランド(プランタジネット朝(1154年~1399年))初代国王 (在位1154年~1189年))の軍がデーン人を追放。
 翌年ダブリンには宮廷が置かれ、イングランドの都市 Bristol (ブリストル)の属領となった。その後ダブリンはイングランドのアイルランド支配の拠点となった。

 17世紀半ば、イギリスのピューリタン革命(清教徒革命)の間、ダブリンはオリバー・クロムウェル(1599年~1658年)の議会派(円頭派)勢力に包囲された。
 以後、アイルランドはクロムウェルの征服により、イングランドの植民地的性格が強い土地となり、18世紀後半には大英帝国第2の都市として発展した。
 アイルランドの住民による反乱も度々起きており、1916年、1919~1921年のアイルランド蜂起においては、ダブリンも戦場となっている。

 かつてヨーロッパの田舎と言われたアイルランドだが、20世紀末頃から急激な経済成長を遂げ、ダブリンはアイルランドの政治・経済・文化の中心として栄えている。



 ダブリンで観光した場所は下記の通り。

テンプル・バー  ダブリンのカルチャーエリア。1540年、ヘンリー8世(1491年~1547年)(テューダー朝(チューダー朝)(1485年~1603年)の第2代国王(在位1509年~1547年))の修道院解散令により、この地にあったアウグスティヌス会修道院が閉鎖され、英国人テンプル家の土地になった(【バー】とは【川沿いの道】の意)。その後ダブリンの中心地として栄え、18世紀末まで税関が置かれた。税関移転後スラム化が進んだが、近年再開発によって芸術・文化の発信地となった。



トリニティ・カレッジ(ダブリン大学)  1592年にイギリスの女王エリザベス1世(ユリウス暦1533年~1603年)(テューダー朝の第5代国王(在位1558年~1603年))によって創設されたアイルランド最古の国立大学。アイルランド最高の宝であり、世界で最も美しい本と呼ばれるケルズの書(聖書の装飾写本)が保管されている。

ダブリン城  1204年にジョン王(1167年~1216年)(プランタジネット朝(アンジュー朝)(1154年~1399年)の第3代国王(在位1199年~1216年))によって建設された。第一次世界大戦中は赤十字病院として使用された。



アイルランド国立美術館  鉄道王ウィリアム・ダーガン(1799年~1867年)によって1864年に創設された。現在は約1万点の美術品を所蔵している。

国立図書館  現在、W.B.イエーツ(1865年~1939年)(アイルランドの詩人、劇作家、ノーベル文学賞受賞者)の常設展が有名になっているらしいが、当時は無かった。

聖パトリック大聖堂  12世紀末、イングランド人として初めてダブリン大主教になったジョン・カミン(1150年~1212年)によって、かつて木造の礼拝堂があった場所に石造りの大聖堂が建て替えられた。ダブリンには大聖堂がもう一つあり(クライスト・チャーチ大聖堂)、一つの教区に二つの大聖堂があるというのは歴史的にも珍しい事例らしい。



The Irish Traditional Music Centre  アイルランドの伝統音楽の紹介をしている。リバーダンスの映像が印象に残っている。

Irish Music Hall of Fame  アイリッシュ・ミュージック(現代)を紹介・展示。今ならインターネットで様々な情報を入手できるが、当時は好きなアーティストの情報に触れる機会が少なかったので、ここで様々な発見があった(どうやら1999年から2001年まで期間限定で開催されていたイベントのようだ)。


The Bad Ass Cafe  Sinéad O'Connor (シ(ン)ニード・オコナー)がかつてウェイトレスをしていたというカフェ。



 後編では、観光以外のエピソードを書き記しておきたい。

※地図はこちら

(212)タラの丘(アイルランド)

2012-11-22 23:55:55 | アイルランド・北アイルランド
 Monasterboice (モナスターボイス)の次に向かったのは、The Hill of Tara (タラの丘)だった。この日ギア無しの自転車で走った距離は70km。アップダウンの激しい道のりでかなりきつかった。



 道中で目にした物事を旅日記にメモしている。

スレーン城( Slane Castle )  18世紀にコニングハム侯爵家の居城として建設された美しい城。U2はこの城でレコーディングをしている。また、U2を始め多くのアーティスト達がここでコンサートを開催している。

・放牧された  



 カメラを向けると近づいてきた。コミュニケーションを取れるような気がしてタラの丘の方角を聞いてみたところ、「知らない」と首をプイっと横に振った。ちなみに他にも野うさぎ(近づくと逃げてしまった)等様々な動物たちに遭遇している。



・道中の景色はとても美しかった。帰りには久しぶりにを見て感動している。

・道中すれ違う人々と挨拶。車に乗っている人も声をかけてくれた。自転車の移動で疲労困憊(こんぱい)の中エネルギーをもらった。



 タラの丘について。

 丘には【王の砦】と呼ばれる鉄器時代要塞跡(周囲約1km)が残されていた。この要塞に連なる円形の砦(コーマックの居城)王座が有名である。
 王座の中心部には男性器を模(かたど)った立石(【運命の石】と呼ばれている)が残っており、上王たちがここで即位の儀式を行ったとされている。



要塞の北には【捕虜の墓】と呼ばれる新石器時代(約5000年前)の羨道墳(せんどうふん)があり、毎年11月8日2月4日ケルトの祭日に通路の奥まで日光が射し込むよう設計されている。

※羨道墳は、玄室(遺体が葬られている部屋)に向かって、低く狭い通路(羨道)がある墓

 ケルト族がアイルランドに居住した時代から、タラの丘は既に聖地としての役割を果たしていた。伝説ではケルト族よりも前にアイルランドに住んでいた女神ダナーン(ダヌ)の種族がタラの丘に居住していたとされる。
 5世紀に聖パトリック(387年?~461年)(アイルランドの守護聖人)がこの地に乗り込み、上王の目前でドルイド僧を論破し、アイルランド全島のキリスト教への改宗を確実なものとした。 
 1022年、キリスト教の普及につれ儀式の場としての役割を失ったタラの丘から上王の座が無くなり、タラの丘は約800年間歴史からその名を消す。
 再びその名が歴史の舞台に登場するのは19世紀。アイルランド解放運動の指導者ダニエル・オコンネル(1775年~1847年)がこの地で開催したアイルランド自治を訴える集会には、100万人(当時のアイルランド全人口の10%)ものアイルランド人が集まったとされている。

 映画『風と共に去りぬ』で主人公のスカーレット・オハラの住む【タラ】の名はこの丘に由来するらしいが、【タラに帰る】という言葉はアイルランドの人々にとって特別な意味を持つ。
 タラの丘はアイルランド人にとって魂のふるさとのような場所らしい。日本人にとっての天孫降臨の地のような意味合いだろうか。

 余談になるが、Drogheda (ドロヘダ)の宿の従業員にタラの丘へ行ったことがあるか聞いたところ、行ったことがないと答えた。いつでも行ける距離にあるからかもしれない。



 タラの丘の印象は緑の映(は)える美しい丘だったこと以外あまり記憶にない(現在の姿は知らないが、特に観光用の近代的な建物など無かった気がする)。

 しかし、昔のままの姿で放置されていることで、自分の頭の中でいろいろと想像できるような気がした。聖地はなるべく古(いにしえ)の姿を伝えてくれていた方がいい。

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(211)モナスターボイス(アイルランド)

2012-11-15 23:55:55 | アイルランド・北アイルランド
 Drogheda (ドロヘダ)滞在二日目にレンタルサイクルで向かった先は Monasterboice (モナスターボイス)だった。



 モナスターボイスとは、ドロヘダの北西、ボイン川渓谷の北方に位置する教会跡(1097年に焼失)の呼称で、この教会は5世紀後半に聖ブイト( St.Buite )( St.Buithe )(?~521年)(聖パトリック(パトリキウス)(387年?~461年)(アイルランドの守護聖人)の弟子)が建てたもの。

 ここには二つの塔が残っているが、何と言っても有名なのは10世紀に建てられた南クロスだ。ケルト十字(架)の中でも最高の十字架と評される(高さ5.5m)。



 普通の十字架と違い、十字の交差部に円環を結合しており、高さが5mを越すものをハイクロスと呼ぶ(9世紀頃~12世紀頃まで建てられた)。
 アイルランド各地に存在するハイクロスは墓標として作られたのではないらしい。
 初期キリスト教時代から中世初期にかけて、教会の代わりに大きな十字の柱の元で聖職者が説教を行った。その説教用十字柱の一種がケルト十字(架)だそうだ。
 ケルト十字(架)には聖書の一場面や教訓的な絵がレリーフとして彫られている。文字を読めなかった人々にも聖書の教えを伝える為に教育用に彫られたものだそうだ。

 モナスターボイスのハイクロスには、キリスト生誕の時に贈り物を持って現れた東方の三博士モーゼアダムイブの物語などが描かれている。

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(210)ニューグレンジ(アイルランド)

2012-11-08 23:55:55 | アイルランド・北アイルランド
 Drogheda (ドロヘダ)到着後、バスで Newgrange (ニューグレンジ)へと向かった。



 ニューグレンジは、世界的にも有名な古墳(羨道墳(せんどうふん))の一つで、紀元前3100年~紀元前2900年の間に建設された(新石器時代以前のものとされている)。
 エジプトの Giza (ギザ)の大ピラミッドよりも約500年、イギリスのストーンヘンジよりも約1000年古い時代のものらしい。

※羨道墳は、玄室(遺体が葬られている部屋)に向かって、低く狭い通路(羨道)がある墓

 太陽信仰の証か、冬至の日の朝には、陽の光が長い羨道(長さ約18m)の奥にある部屋の床を短時間だけ照らすように設計されている(ガイドの話では、実際に羨道に光が射し込むのは冬至の前後五日間らしい)。
 現在は日の出から4分後に日光が射し込むが、5000年前には日の出と同時に日光が射し込んでいた模様。
 ちなみにニューグレンジを訪れた人々の中から抽選で数名が冬至当日のこの神秘のイベントに招待されるらしい。

 ニューグレンジの塚の大きさは、直径約76メートル、高さ約12メートルで、面積は約0.4ヘクタール(4000平方メートル)。発掘された時、部屋の防水性は保たれたままだったそうだ(現在のニューグレンジは復元されている)。



 ニューグレンジ周辺にはいくつも羨道墳があり、Knowth (ノウス(ナウス))や Dowth (ドウス(ダウス))が有名だ(ノウスは観光可能な為、ここも訪問している)。
 これらの遺跡群はニューグレンジと同時代のもので、約40の墳墓がボイン渓谷(【ボインの宮殿】(ブルー・ナ・ボーニャ)と呼ばれている)の遺跡群を形成している(世界遺産に認定されている)。

※ニューグレンジとドウスは冬至の太陽に対応しているのに対し、ノウスは春分の太陽に対応するよう設計されている。

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(209)ドロヘダ(アイルランド)

2012-11-01 23:55:55 | アイルランド・北アイルランド
 Armagh (アーマー)に1泊した翌朝に向かったのは Drogheda (ドロヘダ)(ドラハダ)だった(バスで所要約2時間)。

 ドロヘダは首都 Dublin (ダブリン)の北約55kmに位置する街で、周辺には様々な遺跡がある為、ここを拠点にして観光に出かけている。
 【ドロヘダ】とは、アイルランド語【浅瀬の橋】を意味する。街を流れるボイン川アイリッシュ海に至る前の、最後の橋がかかった場所らしい。

 城壁に守られた街ドロヘダが危機にさらされたのは、17世紀。
 1649年には、オリバー・クロムウェル(1599年~1658年)がアイルランド遠征の緒戦として行ったドロヘダ攻城戦の舞台となり約4000人が亡くなった。
 1690年にはドロヘダの近郊でウィリアマイト戦争の戦闘の1つであるボイン川の戦いが起こった。

※ウィリアマイト戦争・・・17世紀後半のスチュアート朝(1371年~1714年)の時代、イングランドで誕生した名誉革命体制をめぐって【イングランド・オランダ連合軍(約36000人)】ウィリアム3世(1650年~1702年)支持派(ウィリアマイト)【アイルランド軍(約25000人)】ジェームズ2世(1633年~1701年)支持派(ジャコバイト)が対立した戦争。ウィリアム3世が勝利してイングランド王位の保持を決定的なものにした。

 1990年代に入ると、【ケルトの虎( Celtic Tiger )】と称されたアイルランド経済の急速な成長に伴い、ベッドタウンとして発展した。



 残念ながら、この街自体を観光はしていない。
 街のユース・ホステル( The Green Door Hostel )に宿泊し、二日目はレンタルサイクルで近郊を散策したのだが、往復70km以上の道のりをギアの付いていない自転車で移動した為、帰りには疲労困憊(こんぱい)になってしまった(坂が多く、アップダウンが激しかった)。

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(208)アーマー(北アイルランド)

2012-10-25 23:55:55 | アイルランド・北アイルランド
 Belfast (ベルファスト) を去り、Portadown (ポータダウン)経由で次に向かったのは古都 Armagh (アーマー)だった(バスで所要約1時間位)。

 この地に向かった理由は、「アーマーは、イギリス統治前のアイルランドの首都だった」という不正確な情報をベルファストの宿で出会った旅人から得ていたからだ(最近この街について調べるまでずっと信じていた)。



 アーマーは、とても小さな街だった。アーマー市は北アイルランドで一番人口が少ない市だそうだ(アイルランド島では二番目)。
 この街の名前は、紀元前600年頃にこの地を治めたマーハ女王に由来している。
 彼女が埋葬された丘は、【アード・マーハ】(マーハ女王の丘)と呼ばれていたが、徐々にアーマーに変化したらしい。

 5世紀には、聖パトリック(パトリキウス)(387年?~461年)(アイルランドの守護聖人) が、この地に布教活動拠点となる教会(聖パトリック大聖堂)(アイルランド教会)を設立した。彼はキリスト教ケルトの宗教観を融和させる形で布教を行っている。
 この地に聖パトリックの布教活動の拠点があったことから、アーマーはアイルランドで宗教上重要な都市とみなされているようだ。

 この地もまた北アイルランド紛争で多くの犠牲者を出している。



 街に到着後、一人の若者と知り合い車で街を案内してもらった。
 二つの聖パトリック大聖堂(アイルランド教会とカトリック)を訪れている。

・聖パトリック聖堂(アイルランド教会)  455年に聖パトリックが石造りの教会を建てた場所に現在はゴシック様式の教会が建設されている(13世紀に設立)。



・聖パトリック聖堂(カトリック)  19世紀から20世紀にかけて建てられた教会(ゴシック様式)。



 また旅日記を見ると、近くに英軍基地があったことを書き記している(IRAのテロ対策で置かれたものなのか詳細は分からない)。
 小さな街だった為、観光は半日もかからずに終わってしまった。

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(207)ジャイアンツ・コーズウェイ(北アイルランド)

2012-10-18 23:55:55 | アイルランド・北アイルランド
 Belfast (ベルファスト) 滞在3日目。
 この日の目的地は、Giant’s Causeway (ジャイアンツ・コーズウェイ)(世界遺産)だった。
 ジャイアンツ・コーズウェイは世界的にも十指に入る奇景として知られ、六角形の石柱群の数はおよそ4万柱あるという。



 ベルファストから Portrush (ポートラッシュ)まで列車で移動し(所要2時間)、そこからバスでジャイアンツ・コーズウェイへ向かった。

 アイルランド島北部の海岸沿いにこの奇景は存在する。



 今からおよそ6100年前、新生代古第三紀に、火山活動によって溶解した玄武岩が、チョーク質の地層に溶け込み、広大な溶岩台地を形成した。
 その後溶岩は急速に冷却し、収縮作用が起こった。収縮により水平方向にひび割れが生じ、現在見られる奇観を形成したとされている。
 柱はほとんどが六角柱だが、四~八角まで様々な形状が混在する。最も高い柱は12m。崖で凝固した溶岩には厚さ28mになるものもある。



 ジャイアンツ・コーズウェィとは【巨人の石道】を意味し、アイルランドの伝説の巨人フィン・マックールに因(ちな)んでいる。伝説では、フィン・マックールがスコットランドの巨人ベナンドナーと戦いに行くためにコーズウェィを作ったとされている。



 道中、メアリーエミリーと名乗る老女二人に出会った。メアリーは煙草好きでエミリーは淑女だったと旅日記に書き記している。
 この二人、こちらが英語を少し話せると分かるや否や普通に話しかけてきた。しかし、正直申し上げて、話す速さと訛(なま)りのせいでほとんど理解出来なかった。
 不思議な形の岩を観光したことと、老人二人に出会ったことがジャイアンツ・コーズウェイの思い出として旅日記に記されている。
 他に旅日記に書き記しているのは、帰りに立ち寄った Coleraine (コーレイン)の街で床屋に行ったこと位だ(約700円、顔を剃(そ)ったが合計30分かからなかった)。

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(206)ロンドンデリー(北アイルランド)

2012-10-04 23:57:11 | アイルランド・北アイルランド
 Belfast (ベルファスト)を拠点にして何ヶ所か訪問している。
 まず滞在2日目に向かったのは、ベルファストの北西にある Londonderry (ロンドンデリー)( Derry )(デリー)だ(電車で所要2時間強)。



 ロンドンデリーは、北アイルランド第2の都市だ(デリーの語源は、ゲール語で【樫の木】)。
 アイルランド島で最も古い都市の一つであり、6世紀に聖コロンバ(521年~597年)によって修道院が建てられ発展した。
 17世紀になり、この地がロンドン市領となってからロンドンデリーと呼ばれるようになったが、アイルランドではこの名は嫌われ、単にデリーと称する。

 17世紀後半のスチュアート朝(1371年~1714年)の時代、イングランドで誕生した名誉革命体制をめぐってウィリアム3世(1650年~1702年)支持派(ウィリアマイト)ジェームズ2世(1633年~1701年)支持派(ジャコバイト)が対立。
 1689年に始まったウィリアマイト戦争の際、この地は3ヶ月以上の間ジャコバイトに包囲された。この戦争にウィリアム3世支持派が勝利した後、アイルランドにおけるイングランドの支配力が強まった。

 20世紀後半に悲しい事件がこの街で起こっている。血の日曜日事件( Bloody Sunday )(ボグサイドの虐殺)と呼ばれる痛ましい事件だ。



 IRA暫定派 は、1970年からイギリス統治に対する反対運動を行っていた。
 1972年1月30日、公民権を要求するカトリックのデモをイギリス陸軍落下傘連隊第1大隊が襲撃。
 非武装のデリー市民27名が銃撃され、14名死亡、13名負傷。
 その後、北アイルランド紛争は泥沼の様相を呈した。

 1988年イギリスとアイルランド間で結ばれた和平合意(ベルファスト合意)によって、アイルランド共和国は国民投票により北アイルランド6州の領有権を放棄することになった。
 2005年にIRA軍事協議会から全面的な武装解除と平和的手段への転換が発表されたが、その後も散発的な事件が起こっており、北アイルランド問題が完全に解決したとは言い難い。



 この街を知ったのは、U2の曲“ Sunday Bloody Sunday ”を通じてだった。
 何年も前から、アイルランドを訪問したら必ず訪問したいと思っていた。

※“ Sunday Bloody Sunday ”のおまけ記事はこちら

※他にもジョン・レノンポール・マッカートニー達がこの事件をモチーフに作曲している。

※下記画像は旅日記にメモしてあったもの(城壁の内外で住み分けがあったことを記述している。おそらく現地インフォメーションをメモしたものだと思うが、ソースが分からないので正しいかは不明)



 街を歩くと、フリー・デリー・コーナー( Free Derry Corner ) という区画があった。



 家の壁に文字や絵が描かれている(“ You are now entering free Derry. ”という言葉や、血の日曜日事件で亡くなられた方々の似顔絵など)。



 また、事件のモニュメントもあった。モニュメントの前で追悼の祈りを捧げながら、平和の有難さに改めて感謝した。



※2006年にこの地に、フリー・デリー博物館が建設されたらしい。ここで事件の詳細などを知ることが出来るようだ。



 他に印象に残っている場所は、美しい教会 St.Eugene's Cathedral (カトリック)(プロテスタント聖コロンバ大聖堂の方が有名)と公衆トイレだ。

 ツーリスト・インフォメーションの青年に0.1ポンド(約20~30円)硬貨をカンパしてもらい入った公衆トイレ(有料)は、今まで見たことがないようなシステムだった。

 用を済ませてトイレ(個室が一つだけ)から出ると、建物内部を全て水で洗浄するのだ(天井・壁・床・便器を全て自動洗浄していた)。
 毎回このような清掃をしている理由が分からなかった(青年に聞けば良かったと思う)。
 そこまでしてでも洗い流したいものがこの街にあるのかもしれないなどと、当時思っていたが、もしかしたら発火物などの対策なのかもしれない。

 (写真は、ハンズ・アクロス・ザ・ディバイド( Hands Across the Divide )の像)



※divide:分裂、分割、見解の相違、分水嶺

※地図はこちら

(205)ベルファスト(北アイルランド)

2012-09-27 23:55:55 | アイルランド・北アイルランド
 Killarney (キラーニー)に2泊した後に向かったのは Belfast (ベルファスト)(北アイルランド)だ。

※北アイルランドは正式には、イギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)領だが、このブログのカテゴリーではアイルランドに入れさせて頂く。



 鉄道のストライキはひとまず収まったらしく、キラーニーから Dublin (ダブリン)までは順調に移動出来た。

 ダブリンのコノリー駅ではベルファスト方面の列車を待つ人達の長い列が出来ていた。
 前に並んでいた旅行者にいつ発車するのか聞いたところ、もうすぐとのこと。
 今回はタイミング良く乗り継ぎが出来るようだ。



 待つこと20分位で列車に乗り込んだ。
 先程話しかけた旅行者はスイスから来たという20代の女性だった。
 銀行に勤めているらしく、お国柄なのか5~6ヶ国語を話せると言う。
 激務の為、かなり仕事のストレスが溜まっているようだった。

 車窓から見える風景が美しかったのだが、ゆっくり外の景色を眺める余裕も与えてくれず、ベルファストに着くまでの2時間彼女は話し続けた。
 彼女が話した内容の詳細は分からないが(メモを残していない為)、印象に残っているのは決して楽しい話ではなかったということだ(仕事の愚痴だったと思う)。
 おそらく、目の前にいるのは自分でなくても良かったのだろう。誰か話を聞いてくれる人が欲しかったのだと思う。



 スイス人女性がどんどん元気になっていくのと対照的に、私の方はベルファストに着いた頃にはグッタリとしてしまっていた。
 彼女の目的地はまだ先の為、ここでお別れだ。

 ベルファスト・セントラル駅に到着したのは夕方だったと思う。予約しておいた Ark Hostel に向かった。
 1泊約1500円(ドミトリー)(支払はアイリッシュポンドではなくイギリスポンド)。
 この宿に泊まっている人達は、個人旅行者が多く国籍はバラバラだったと思う。
 印象深かったのは、同い年のカナダ人女性。日本好き広島県在住とのこと。日本の古都でもホームステイ経験があるが、よそ者には冷たかったと言っていた(出会った人で国の印象は変わる)。



 ベルファストは、北アイルランドの首府であり、北アイルランド最大の都市である。街の名前は、アイルランド語で【ファーセットの口】という意味で、ファーセット川のほとりに建設された事に由来している。

 もともと漁村だったベルファストの街が商業都市として栄えたのは18世紀以降。
 特にヴィクトリア女王(1819年~1901年)(ハノーヴァー朝(1714年~1901年)第6代女王(在位1837年~1901年)の統治時代に工業都市として繁栄を極めた。
 ここはタイタニック号が建造された街でもある。
 アイルランド独立運動が盛んだった土地でもあり、多くの人々の血が流れている。



 シティホール(市庁舎)など見どころが幾つかあるが、街を散策した位で特に観光はしていない。

 この街には、当時ヨーロッパではあまり見かけなかったコンビニ(記憶が正しければセブンイレブン)があった。コンビニと言えば立ち読みの光景を思い浮かべるが、日本のように漫画は置いていなかったし、雑誌の数も少なめだった。



 ベルファスト滞在中に旅日記に書き記している言葉を最後に紹介させて頂く。

「本当に満足を与えてくれるのは、働くことなのです」(アンネ・フランク)(旅に欠けていることは働くことだ。)

“ I am here to have a party, man, as I best I can while I am on this earth, I think that is your duty too. ”( Janis Joplin (ジャニス・ジョプリン))(確かホテルの壁に貼ってあったJ.ジョプリンの言葉(曲の歌詞かもしれない)。)

※地図はこちら

(204)キラーニー(アイルランド)

2012-09-13 23:53:00 | アイルランド・北アイルランド
 Galway (ゴールウェイ)に3泊した後、Killarney (キラーニー)へと向かったのだが、鉄道のストライキの為、この移動は一日がかりとなった。
 予定外の乗り換えを何度か行っている。しかも発車をひたすら待ちながら。
 記録しているのは、Tullamore (タラモア)(乗り換えで3時間待ち)、Portarlington (ポーターリントン)(乗り換えで1時間待ち)。最後は Mallow (マーロウ)からバスを使用している(ここからキラーニーまで所要1時間)。



 到着したのが夕方だったせいもあるが、夏だというのにキラーニーの街は肌寒かった。森の中にある街だからだろうか。
 ゴールウェイに続きユース・ホステルに宿泊したが、満室だったゴールウェイのユースに比べると宿泊客はそれほど多くなかった。

 宿にいた旅行者から Bob Dylan (ボブ・ディラン)がノーベル文学賞候補に挙がっていることを教えてもらった。B.ディランの歌の歌詞は非常に文学的価値が高いということで評価されているらしい。
 惜しくもB.ディランはこの年のノーベル賞を受賞出来なかった(この年のノーベル文学賞受賞者は、高行健(ガオ・シンジェン)(仏国籍))。
 あれから10年以上経った今でも彼の評価は高く、村上春樹氏と共に今年のノーベル文学賞候補にも挙げられている。

※ボブ・ディランのおまけ記事はこちら



 キラーニーの街はそれほど大きくないが、アイルランドで初めて国立公園に認定されたキラーニー国立公園が隣接していることもあり、緑に囲まれた自然豊かな街だ。
 この地域は北大西洋海流(暖流)偏西風の影響を受ける為、気候は温暖湿潤で、年間降雨日数が200日を超える(緑の多い土地にはやはり降雨が多い)。

 キラーニーが歴史に登場するのは640年。
 聖フィニアンによって、下の湖( Lower Lake )に浮かぶイニシュフォールン島にハンセン病患者の為の僧院が設立された(この地の学問の中心としても有名で約850年間存続した)。

 後年この地は、イギリスとの戦いに巻き込まれていく。
 湖の東側にあるロス城は1652年にイギリスのオリバー・クロムウェル(1599年~1658年)が遠征の最後に破壊したらしく、現在は廃墟になっている。



 観光についての記録。

 キラーニーの街には2泊している。街を散歩したが、国立公園内は散策しなかった。
 しかし、ここでもバスツアーに参加している。
 キラーニー国立公園を抜けアイヴェラ半島を一周するケリー周遊路( Ring of Kerry )のツアーだ。
 アイルランドでも屈指の観光スポットだけあって、その景観にはただただ感動を覚えるだけだった。
 ここでもツアーガイドが「日本の北海道みたいだろう」と言っていたが、コネマラ地方よりも更に北海道に雰囲気が似ているように感じた。



 感動してたくさん写真を撮影したのだが、現像した写真を見ると何故か印象が違っていた。
 あの壮大なパノラマ感を小さなフレームに収めるのは難しいのかもしれない。



※地図はこちら

(203)カイルモア修道院(アイルランド)

2012-09-06 23:55:55 | アイルランド・北アイルランド
 モハーの断崖( The Cliffs of Moher )へのツアーに参加した翌日、コネマラ地方周遊ツアーに参加した。
 Galway (ゴールウェイ)の北西にあるコネマラ国立公園( Connemara National Park )(ゴールウェイ州)は、アイルランドでも有数の国立公園であり、美しい湖や渓谷、荒涼とした岩山などの景観を誇る。また、アカジカや特産のコネマラポニーなどの姿を見かけることが出来る。

 このツアーには一昨日に申し込んでいたが、昨日の経験(訪問予定地の半分以上を車内から眺めて終わったこと)から、本日も同じような展開になることが予想された。
 正直キャンセルしようか迷ったが、結局この日もツアーに参加することにした。昨日と同じような展開になっても、素晴らしい感動を味わえると思ったからだ。



 予想通り、このツアーもイタリア人観光客が大半を占めていた。そしてスケジュールは狂い、観光予定地でも車外に出る時間が取れなかった。
 さすがに二日目になると諦観のようなものが出来上がっていたので、腹を立てることもなかった。
 このツアーの唯一の救いは、ツアーガイドの仕事ぶりだった。50代の男性ガイドは移動中終始陽気に話し続けたのだ(予定が大幅に変更になることにストレスを感じる観光客の為にサービスしたのか、或いはいつもこの調子なのか、どちらにせよ彼のホスピタリティの表れなのだろう)。

 バスが小さな村を通り抜ければ、彼はそこに住んでいる人達の暮らしぶりを語る。

 「あの家に住んでいる親父は男らしく酒好きでいい奴なんだが、女房には全く頭が上がらないんだ」

 そんなエピソードを語られるだけで、今まで風景の一部分に過ぎなかったものが生き生きと心に沁み込んでくる(奥さんに怒られている旦那さんの情景が浮かんだ)。
 また、彼はしょっちゅうジョークを飛ばしていた。

 「アイルランドからドイツに輸入された鮭(サーモン)は左側を泳ぐからすぐ分かる」(イギリスの植民地だった国・地域の道路において車両は左側通行)

 彼の愛用語は lovely (かわいらしい)。nice と同じような意味もあり、アイルランドでは nice よりも良く聞いた単語だ。
 そして彼のおかげでこの単語がとても好きになった(しかし、lovely を使うのには照れがあった)。

※余談になるが、彼の話ではゲール語は世界の六つの国・地域に受け継がれているらしい。

 また、彼はこちらが日本人と分かると「どうだ、北海道みたいだろう」と語りかけてきた(おそらく日本人の観光客に以前言われたことがあったのだろう)。
 そうだと答えたものの、自分は今まで北海道に行ったことがなかった。自国のこともよく知らないのに先に海外に出てきてしまったことを恥ずかしく思った(このことが、帰国後北海道で働くきっかけとなった)。



 そんな楽しいガイドと共に巡ったコネマラ地方だが、残念ながらきちんと観光できたのは、マアン・クロス( Maan Cross )(コネマラ地方各地からの道がここで交差する)とカイルモア修道院( Kylemore Abbey )(ベネディクト派の女子修道院)のみ。

 (写真は、カイルモア修道院)



 マアン・クロスではかつて映画『静かなる男』『E.T.』の撮影が行われたらしい(どのシーンかは不明)。
 カイルモア修道院は19世紀に建てられた美しいで現在は修道院として利用されている。



 このツアー、美しい自然よりもガイドの方が印象に残った。
 ほとんどの時間を車中(バス)で過ごしたにもかかわらず、彼のおかげでとても楽しいツアーとなった。



 ゴールウェイの宿(ユース・ホステル)で出会った台湾人旅行者から一つの言葉をもらったので最後に書き記しておきたい。

 「有志者事竟成」(強い意志があれば目的を必ず達成できる。)
 
 翌日、ゴールウェイの街に別れを告げ、Killarney (キラーニー)へと向かった。

※地図はこちら

(202)モハーの断崖(アイルランド)

2012-08-30 23:55:55 | アイルランド・北アイルランド
 Galway (ゴールウェイ)滞在中、2日連続で現地バスツアーに参加した。
 アイルランドの現地ツアーはとても格安だった。1日のツアーで千円にも満たない。

 最初のツアーで向かったのはモハーの断崖( The Cliffs of Moher )だ。アイルランド語(アイルランド・ゲール語、アイリッシュ・ゲール)【破滅の崖( Aillte an Mhothair )】と呼ばれているらしいが、その意味は訪問してみてよく分かった。

 ツアーの訪問予定地は、モハーの断崖の他にアーウィーの洞窟 ( Aillwee Cave )(バレン高原周辺で唯一入れる鍾乳洞)、ダンゴーラ城( Dunguaire Castle )(16世紀に建てられた美しい城)、巨人のテーブル( Portal dolman )(巨石の墓)など。

 外国で現地ツアーに参加したことは他にもあったが(陽朔(ヤンシュオ)(中国)、ギョレメ(トルコ)など)、今回は予定外のことが起こってしまう。
 ゴールウェイのユース・ホステルに大勢のイタリア人旅行者が滞在していたと前に書いたが、彼らの時間のルーズさにほとほと参ってしまった。

 問題が発生するのは、トイレ休憩や観光スポットなどでバスを下車する時だった。
 ツアーガイドが「○時に出発するのでそれまでにバスに戻って来るように」と通達すれば、日本人なら時間前に車内で待機しているだろう。
 しかし、イタリア人達は時間通りに来たことがなかった。10分15分は平気で遅れてくる(彼らにとっては遅刻のうちに入らないのだろう)。
 イタリアでは交通機関が時刻表通りに動いていなかったことを思い出した(参考記事はこちら)。

 時間通りに予定が進まないとどうなるか。答えはスケジュールのカット(内部訪問のキャンセル)だ(現地に着いてもバスから降りずに幹線道路上からガイドが口頭で説明するだけになってしまった)。
 上記のツアー予定地で実際に訪問したのは、モハーの断崖とアーウィーの洞窟だけだ。

 きちんと時間通りにバスで待機していることを馬鹿らしく感じたと同時に、自分よりも年配のいい大人の集団が平気で遅刻していることと、お詫びの一言もないことに対して腹が立った。
 ガイドが何か注意するかと思ったが、連日この調子なのだろう。ガイドも諦めているようだった。



 そんなこともあったが、モハーの断崖は圧巻だった。
 長さ8kmに渡って大西洋を臨む断崖は高いところで200mを越える。



 晴れた日にはゴールウェイ湾に浮かぶアラン諸島コネマラ地方の景色を眺望できるらしいが、曇天の為残念ながらそこまで見れなかった。

 ちなみに、ここでも大の字に横になってみたがマグマの音は聞こえなかった。
 感受性の問題なのか場所が違うのか結局分からずじまいのままだ。



※地図はこちら

(201)ゴールウェイ(アイルランド)

2012-08-16 23:55:55 | アイルランド・北アイルランド
 Galway (ゴールウェイ)に着き、日本人親子と別れユース・ホステル( Great Western House )へ向かった。

 ユースのドミトリーには多くのイタリア人の若者がいた。
 人口比率で言うとドミトリーの5割以上をイタリア人が占めていたと思う。
 不思議に思って一人のイタリア人学生に聞いて見ると今イタリアではケルトブームが起きていると言う。当時日本でもちょっとしたブームだったと思うが世界規模でブームになっていたのかもしれない。
 余談になるが、この学生はとても礼儀正しく、イタリア人の先入観を覆してくれた。



 アイルランド第三の都市ゴールウェイは、アイルランド島の西、ゴールウェイ湾の北東に位置し、市内をコリヴ川が流れる。
 大学都市として有名で、街の人口約6万人うち5分の1を学生が占める。
 街の名前の由来は諸説あるが、【ゴールウェイ川の終わりの街】という意味らしい(他には、アイルランド語【 Gallibh (ガリヴ)(【外国人の町】の意)が由来になっているという説などもある)。
 
 1124年、アイルランド北西部を支配したコノート王ターロック・オコナー(1088年~1156年)(コノート王在位1106年~1156年)(アイルランド国王在位1120年~1156年)によってガリヴ河口の砦が建設され、砦の周囲には小さな街が形成された。
 1230年代、イギリスよりアングロ・ノルマン勢力が侵攻。ゴールウェイの街は侵略軍を率いた Richard Mor de Burgh (1194年~1242年)の支配下に置かれ、城が築かれた。
 その後中世にかけて都市国家として発展を遂げ、14家族の商人がゴールウェイを統治した。中でも力を持っていたリンチ家ジェイムス・リンチ英国王室から州知事に任命された。

 イギリスの支配力が弱まった際に自治権を回復した地域もある中、ゴールウェイは長い間イギリスの支配下に置かれた(街がイギリス支配下から解放されるのは20世紀になってから)。
 議会派(円頭派)オリバー・クロムウェル(1599年~1658年)が17世紀半ばに国王派アイルランド・カトリック同盟に対し行ったアイルランド侵略の際、街は9ヶ月の間包囲され破壊されてしまう。
 衰退した街が復興するのは、20世紀後半の経済成長期まで待たねばならなかった。



 この街にはリンチ家の城など様々な見どころがあるが、自転車で散策した位で観光の記憶はあまり残っていない。一つ覚えているのは、街のCDショップでのエピソードだ。

 アイルランドの優しい音楽は厳しい自然環境から生まれたことをこの旅で知ったのだが、アイルランドに行きたかった理由の一つに音楽などケルトの文化に触れたかったということが挙げられる(旅に出る前、ケルトミュージックのCDを何枚か購入していた)。
 
 CDショップに入り、店員にお勧めのケルトミュージックについて尋ねると、返答は「コアーズ( The Corrs (ザ・コアーズ))を聴け」だった。
 コアーズは90年代後半から世界的にヒットしたポップミュージックのバンドだが、確かにケルトの伝統音楽の要素を取り入れた曲作りをしている。
 現代風にアレンジされたケルトミュージックということで、店員としても勧め易かったのだろう。店頭にはコアーズのCDがたくさん並んでいた。

※ザ・コアーズのおまけ記事はこちら

※地図はこちら

(200)キルローナン(アイルランド)

2012-08-09 21:05:30 | アイルランド・北アイルランド
 Kilronan (キルローナン)はイニシュモア島(アラン諸島)の東部にある。
 イニシュモア島はアラン諸島の西端に位置し、アラン諸島で一番大きな島である。

 アラン諸島は、アイルランド島の西、ゴールウェイ湾に浮かぶ3つの島々だ。
 アイルランド語(ゲール語の一つ)で【 Arann 】【長い山々】(三つの島々が山のように連なって見える)、【 inis 】【島】を意味しており、西側から、イニシュモア島(大きな島)、イニシュマーン島(真ん中の島)、イニシィア島(東の島)と呼ばれている。
 島の産業は漁業・農業を中心とした第一次産業、並びに観光業で成り立っている。
 石灰質の岩盤で出来ている為、本来は農業に適さない土地であるが、岩盤を砕いた土と海藻で農土を作ったらしい。風が強い土地柄の為、土が飛ばされないよう畑を石垣で囲んでいる。
 夏は過ごしやすいが、曇天の続く冬は正直暮らしたくないと思った。



 日没まで時間があったので、自転車を借りてサイクリングをした。まず向かったのは、ドゥーン・アーランという石の要塞だ。



 道中、地元民が気軽にそしてにこやかに声をかけ挨拶してくる。久しぶりにいい笑顔を見た気がする。
 挨拶の言葉は英語ではなかった。何と言っていたか分からないがおそらくゲール語だと思う(ディア・グット( Dia duit. )(「こんにちは」(神とともにましませ))よりも長い言葉だった)。
 アイルランド人でもアイルランド語を話せない人が増えていると聞いていたが、この地域ではアイルランド語が公用語としての役割を果たしているのだろう。

 お墓も見かけたが、墓標はいわゆるケルトの十字架だった。
 ドゥーン・アーランもそうだが、ここには石の文化が根付いていたのだろう。



 この後向かったのはダン・エンガス(ドゥーン・エンガス)だ。
 高さ120mの切り立った断崖の上にある、古代ケルト人が築いたとされる環状の石の砦だ。

 日没まで数時間あるが、時計は夕刻を刻んでいたせいか人は誰もいない。 
 この時、アイルランド好きの友人の言葉を思い出した。彼の友達がアイルランドを旅行した時の体験を聞かされたらしい。その友達はこう言ったそうだ。

 「アイルランドの西の果てに崖があって、そこで大の字に(横に)なったら、(地下の)マグマの音が聞こえてきてハイになった」

 この言葉を思い出し、横になってみたが何も聞こえなかった。それってアイスランドのことじゃないのか?などと考えたりもした(モハーの断崖でも試してみたがやはり体験できなかった)。

 しかし、なぜかテンションが高くなった。何せこの聖地を独り占めしていたから。
 調子に乗って大声で歌を唄った。まず最初に君が代。その後はとにかく知っている歌を片っ端から(ラブソングを除く(場にそぐわないと感じたから))。

 すると、眼下にイルカが見えた。群れで泳いでいるらしく、海面をジャンプしていた。歌を喜んでくれたのだろうと勝手に解釈して更にテンションが高くなった。

 更にカモメもやって来た。ここにいるのは自分一人ではない。



 満足いくまで唄った後、しばらく静かに海を眺めた。

 波と波が交差している。人の流れのように。
 
 旅の終わりについて考えた。

 この旅はどこで終わるのだろう。最後までまっすぐ行けるだろうか。お金は足りるだろうか。



 この日の旅日記にはこう書いてある。

 「最悪の事態を頭の片隅に入れつつも、最高の結果を夢見て進め」



 翌日、Galway (ゴールウェイ)行きのフェリーを待つ間、小さなBARで食事を取ることにした。
 BARの隣には土産屋もあり、手編みのアランセーター(フィッシャーマンセーター)を売っていた(約15000円也)。
 品質が素晴らしく買おうか迷ったが、夏なので着ることができない為、荷物になってしまう。経済的余裕もなかった為、泣く泣く諦めた。

 BARには日本人旅行者の母子がいた。お母さんはアイルランドが大好きらしく楽しそうだったが、娘さんは言葉も分からぬ異国の地でつまらなそうにしていた。
 何を話したか覚えていないが、アイルランドといえばギネスビールでしょと勧められ、1杯ギネスビールを注文している(お酒が飲めない体質の為、少し口にしただけだが)。

 この後、この日本人親子と共にフェリーに乗り込んだ。
 お母さんは船酔い、こちらはビールで酔っ払ってぐったりしながらゴールウェイに着いた。



 最後に一言。
 余談になるが、アラン諸島に行きたかった理由の一つに映画『フィオナの海』(ジョン・セイルズ監督)が挙げられる。
 この映画の舞台はアイルランド北西部の島だが、アイルランドの小さな島の雰囲気を実際に味わいたかったのだ。

※映画『フィオナの海』のおまけ記事はこちら

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