Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(117)パルミラ①(シリア)

2010-10-28 05:12:00 | シリア・レバノン・ヨルダン
 Hama (ハマ)到着翌日、日帰りで古代都市 Palmyra (パルミラ)(世界遺産)に向かった。

 早朝7時半に出発し Homs (ホムス)まで30分、ここでバスを乗り換えてパルミラに着いたのは10時半だった。

 夜に降った雨のおかげで、空がとても澄んでいた。



 【パルミラ】の名前の由来は、【パルマ】(ギリシャ語ナツメヤシの意)らしい。
 ちなみに、この地域で使われていたアラム語(北西セム語の一種)やアラビア語でナツメヤシのことを【 tamar 】と言う。 アラビア語での都市名 Tadmor (タドモール)もナツメヤシが語源とみられている。



 パルミラは紀元前1世紀から3世紀までシルクロードの中継都市としての役割を果たしつつ繁栄した。
 東のアルサケス朝パルティア(ペルシャ)と西のローマ帝国が覇権を争う中、双方の習慣・風習・服装を取り入れていたらしい。
 時にローマ帝国の属州となりながら、2世紀に Petra (ペトラ)がローマに吸収されると、通商権を引き継いだパルミラは最盛期を迎えた。

 3世紀後半ローマ帝国の混乱の最中、セプティミウス・オダエナトゥス(ローマ帝国東方地区属州全域の司令官、パルミラ出身)の死後、その妻ゼノビアが息子ウァバッラトゥス(アウグストゥス)を後継の地位に据え、自身はその後見人となり実権を手中に収めた(パルミラ王国の誕生)。
 しかし、273年にローマ帝国によって征服され、パルミラ王国は滅亡した。

 この後、パルミラは衰退の一歩を辿り廃墟となった。



 余談になるが、1995年にこの地を訪れた当時の村山富市首相が、世界的に賞賛すべき遺産として日本政府が修復の前面協力をするとの声明を発表している。



 パルミラの見どころはたくさんあるが、この時旅日記に書き記しているのは、民族文化博物館ベル神殿(下記写真参照)、円形劇場バールシャミン神殿だ。



 とにかく都市遺跡だけあって広大で、南北3km、東西5kmもある。一日かけても見どころを全てまわるのは結構大変だと思う(ツアーに参加するのがいいかもしれない)。
 


 この日、雨上がりの空がとても澄んでいて美しかった。
 この地に沈む夕陽を見たかったが、この日はハマの宿まで戻らなくてはならない。
 名残(なごり)惜しい気持ちもあったが、また来ればいいと自分を納得させて帰ることにした。

 しかし、恩寵ともいえるチャンスはそう何度も巡ってくるものではないことに後で気付くことになる。



※地図はこちら

(116)ハマ(シリア)

2010-10-21 09:08:40 | シリア・レバノン・ヨルダン
 Aleppo (アレッポ)から Hama (ハマ)まではバスで2時間かかった。


 ハマの街は紀元前10世紀からイスラエルと交易があったという記録が残っている。

 1982年にはイスラム同胞団に対するシリア政府の爆撃により1万数千人の人々が亡くなったらしい。しかし、そんな凄惨な事件があったとは思えない程、静かで過ごしやすい街だった。



 水車の街ハマでは4つの水車や、最大の水車アル・モハンメディーエ(直径20m以上)が有名だ。

 (写真はアル・モハンメディーエ、中央下のところに人が写っているので大きさを比較して頂きたい。)



 この大きな水車は14世紀からここで使用されてきたもので、1977年に造り変えられたそうだ。



 他にも幾つか見どころがあるが、水車しか見ていない。この日は早めに就寝した。
 アレッポでは騒音のせいで毎日寝不足だったのでゆっくり休みたかったのだ(たまたまだったのかもしれないが、アレッポでは宿を変えても夜中の2時3時まで騒音がひどかった)。



 ハマ到着翌日、この街を拠点にして古代都市 Palmyra (パルミラ)(世界遺産)に向かった。

※地図はこちら

(115)アレッポ(シリア)

2010-10-14 23:53:20 | シリア・レバノン・ヨルダン
 Antakya (アンタクヤ、アンタキヤ)に3泊した後シリア第二の都市 Aleppo (アレッポ)( Halab (ハラブ))(シリア)へと向かった(バスで所要4時間半)。

 この時利用したバス会社( NUR )がかなりいい加減だった為、シリア入国は散々なものとなってしまった。
 出入国の手続きを先方で代わって行うと運転手に言われパスポートを預けたのだが、トルコ側のイミグレにパスポートを置き忘れられて慌てて取りに行くはめになった。
 また、シリア側のイミグレで入国カードをもらい忘れていたらしく、後日アレッポのイミグレへ行き入国カードを取得した(約200円)。たいした金額ではないが、シリアの貨幣価値では安い金額ではない。本来ならこの代金も支払ったバス代に含まれていたのだ。



 アレッポのアラブ語名【ハラブ】は、(新鮮な)乳を意味する。かつてアブラハムが旅人に乳を振る舞ったことに由来するらしい。
 この街は古代都市として世界遺産に登録されている。

 アレッポで有名なおみやげは、アレッポ石鹸アザーン時計だ。
 オリーブオイルで作られたアレッポ石鹸は美容にいいということで日本でも有名だし、アザーン時計は目覚ましがアザーンの音になっている。

 アレッポでの音にまつわる思い出といえば、このアザーン時計の音と、車のギアをバックに入れた時に流れる音楽だ。なぜかその音楽はランバダだった。

※アザーンとは、イスラム教における礼拝(サラート)への呼び掛け。「アッラー(フ)・アクバル」(神は偉大なりという意)の四度の繰り返しから始まる。

 物価の安いシリアから日本へ荷物を船便で送ろうと思っていたのでアレッポ石鹸を購入した。
 アザーン時計は送るにも故障してしまう可能性があるし、持ち運ぶにはかさばるので諦めた。



 アレッポで観光したのは下記の通り。

アレッポ城  周囲22kmの巨大な要塞。難攻不落の城塞として、様々な侵攻を耐え抜いた(十字軍(12世紀)、モンゴル帝国(13世紀)、ティムール帝国(1400年))。城内博物館もある。ここから周囲を見渡すと、白い屋根の建物が多く目に付いた。その眩しさからか、旅日記に光る風(風が光る)と書いてある。

スーク  アラブ世界でのバザールの名称。アンタキヤ門からアレッポ城まで東西約1kmにわたって様々な店が並び賑わっている。



考古学博物館  シリアの古代史に関する展示品は必見。メソポタミア全域で使われた楔形(くさびがた)文字の展示物もあった。

 他に印象に残っているのは、ここでローストチキン(チキンの丸焼き)を食べたこと(1羽の半分で約200円)。食堂の店頭に並んでいて目を惹(ひ)く一品だが、食べてみると表面がカリカリに固まっていてあまり美味しくなかった(参考写真はこちら)。

 ちなみにこの街にはボーリング場があった。1ゲーム11ドルという高級な遊びらしく、セレブな若者達が楽しんでいた。シリアの物価から考えると破格の値段のように思える。



 アレッポに3泊した後、水車で有名な Hama (ハマ)に向かった。

※地図はこちら

(114)アンタクヤ(トルコ)

2010-10-07 00:17:24 | トルコ
 Goreme (ギョレメ)の街に3泊した後、バスで Antakya (アンタクヤ、アンタキヤ)へと向かった。
 Aksaray (アクサライ)、Adana (アダナ)とバスを乗り継いでアンタクヤに着くまで8時間かかっている。

 トルコ東部にはいろいろ見どころがあり、興味もあったのだが、結果的に中東の国々を南下するべく先を急いだ。
 これから行くことになる中東の国々は暑さが厳しいのではないかという先入観があったので、なるべくなら涼しいうちに行っておきたかったのだ。
 


 アンタクヤはかつてアレクサンドロス大王後継者の一人、セレウコス1世ニカトール(紀元前358年~紀元前281年)が築いたセレウコス朝シリア(セレウコス帝国)(紀元前312年~紀元前63年)の首都だった(当時の名称はアンティオキア)。
 ここは中国からのシルクロードの終点とされている。
 かつて聖パウロ異邦人布教の拠点だったこの地は、キリスト教の5本山の一つとされている。
 シリアとの国境が近いせいか、軍人を多く見かけたのを覚えている。



 観光したのは、下記の通り。

モザイク博物館  近辺で発掘されたモザイク(画)の数々を展示している。予想以上の見ごたえだった。世界的にも評価が高いらしい。

聖ペテロの洞窟教会  聖ペテロ初期キリスト教徒が迫害から逃れる為この洞窟にやって来たらしい。



 散策していると、家具を作る作業場で働いている子供達に出会った。
 10歳位から彼らは働いている。
 こういう光景を今まで何度も見て来た。その度に自責の念に襲われながら。



 ここで日本人の旅人に出会っている。旅の経験豊富な中田さん(仮名)はこの後中東を旅するそうだ。 またどこかで会いましょうと別れたが、実際何度となく再会している(参考記事はこちら→ Damascus (ダマスカス)(シリア))、死海( Dead Sea )(ヨルダン)。

※地図はこちら