これまで写真を撮るといっては、人や花の写真を撮っていた。それはそれで楽しいのだが、近頃街や何気ない場所の写真を撮りはじめた。
街や建物を撮り始めた動機は、記録である。
まだ、そうした何気ないものを撮ったときに、「いいなあ」とは思っていない。でも、記録のための写真だっていいじゃないかと思い始めた。
何気なくいつもくるまで走っている道やイトウヨーカ堂のカンバンや、信号そんな何気ないものだって、何十年かたってからもう一度見返すときっと何らかの感動を生むに違いない。
あまりに慣れてしまった身の回りの風景を新鮮に見ることができたら、こんなすばらしいことはない。カメラの力を借りて、そんな感じを持つ訓練をしたいと思う。
意識が理解している世界は体が作ったバーチャルリアリティにすぎないとすると、いつも見慣れている町並みは、普通に暮らしていくために必要な程度に情報の圧縮がおこなわれている。言葉によって記述された単純化された世界だ。すべてを説明している言葉を捨て去り、体が受け取っている広帯域の情報に耳を傾けること。それが、風景を新鮮に見ることの意味だと思う。
経験も記憶も捨て去り、あるがままの世界を見つめること。そこには感動しかのこっていない。
今日は2本のフィルムを現像した。明日は引き伸ばしやろっと。
街や建物を撮り始めた動機は、記録である。
まだ、そうした何気ないものを撮ったときに、「いいなあ」とは思っていない。でも、記録のための写真だっていいじゃないかと思い始めた。
何気なくいつもくるまで走っている道やイトウヨーカ堂のカンバンや、信号そんな何気ないものだって、何十年かたってからもう一度見返すときっと何らかの感動を生むに違いない。
あまりに慣れてしまった身の回りの風景を新鮮に見ることができたら、こんなすばらしいことはない。カメラの力を借りて、そんな感じを持つ訓練をしたいと思う。
意識が理解している世界は体が作ったバーチャルリアリティにすぎないとすると、いつも見慣れている町並みは、普通に暮らしていくために必要な程度に情報の圧縮がおこなわれている。言葉によって記述された単純化された世界だ。すべてを説明している言葉を捨て去り、体が受け取っている広帯域の情報に耳を傾けること。それが、風景を新鮮に見ることの意味だと思う。
経験も記憶も捨て去り、あるがままの世界を見つめること。そこには感動しかのこっていない。
今日は2本のフィルムを現像した。明日は引き伸ばしやろっと。
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