妄念の凡夫

日々是称名

真面目な人々

2014-12-01 22:15:07 | 仏教

 昨日の法座、学生時代にご縁のあった団体を最近やめた方々が、6名ほど、来られていた。

 いろいろと面食らっておられた。いままでいわれてきたことと全く違う、どうしたらいいのか……。

 先生とのやり取りを聞いていて、もどかしくなったので、ついつい「いいですか?」と手を挙げ、私の経験(学生時代から二十数年後のご縁まで)をぶちまけてしまった。

 いま思えば、私の憂さ晴らしに過ぎなかったのかもしれない。和合僧を乱した? 先生、ごめんなさい。

 ただ、ハッキリとした口調で疑問を次々に口々にされるのは、有難かった。わかったつもりになっていたことを、再び知らされるからだ。

「私の名前を呼んでくれ。十八願を簡単にいうと、ただそれだけなんです」

 私の勝手な独白のあと、みなさんキョトンとされていたが、これからもぜひ法座でお会いして、ご意見が聞きたいなあと思った次第。真面目な方々でした。


サッサと来んか!

2014-10-10 22:33:59 | 仏教
 
 …………

 仕事が続きません。対人関係を作るのが苦手なんです。
 いつも気分が沈んでいます。
 この先が不安です。お金がありません。家族も頼りになりません。

 拠り所だった自分の信心も崩れてしまいました。
 どうしたら信心を得られるんですか? いままで通っていたところでは駄目かもしれない。

 友達の宗派だといいんじゃないか。友達はいつも自信満々そうにしている。

 ああ、このまま死んでいくだけなのか。明日死ぬかもしれない。燃えさかる火に焼かれるだけなのか。

 私は救われたいのだ。私は仏になりたいのだ。阿弥陀様の噓つき!
 私は念仏しているのに、救ってくれないじゃないか。

 毎日、ヤなことばっかりだ。このまま死にたくないんです。
 満足を得たいんです。誰にいわれようとも揺るがない信心がほしいんです。
 
 …………
 
 なに我が儘いうてんねん。甘えるな。

 自意識過剰ちゃうの。ちょっとでも自慢できることがあれば、コロッと忘れるんやないけ。

 自分だけがいちばん不幸のどん底におると思てんやろ。

 後生が不安? 違うやろ。
 ほしいもんが得られんからやろ。
 憎たらしいヤツの顔を見とうないからやろ。
 人からほめてもらえんからやろ。
 日々、悶々としているからやろ。
 こんな筈やなかった。本当の自分はこうじゃないねん……とかね。 

 …………

 それが、どないしてん。
 そんなんお見通しや。それしか、ないねんもん。
 はよ来んかい。ぶつくさ言わんと。

 えっ、まだ、うじうじいうとる。
 しゃあないなあ。待っとるから。あんたが、これから先何千回、何万回、死んでも、死んでも、死んでも、死んでも。待ってるで。
 はよ呼んでえや。

 なんまんだぶつ

 いうてえや。頼むで、しかし。


 



 
 

ダライラマが生まれ代わり制度を廃止? のニュースで思うこと

2014-09-11 21:29:43 | 仏教
 まずは、ソースから。

ダライ・ラマ「生まれ変わり制度を廃止」発言に中国反発「絶対に認めない」
http://www.huffingtonpost.jp/2014/09/11/dalai-lama-successor-and-china_n_5801862.html?utm_hp_ref=japan

 どうやらダライ・ラマ猊下は、チベット仏教の最高位の生まれ変わりとされる子供を探してくる制度を自分の代で終わらせたい、ということのようだ。
 それに対し、中国政府(建前は唯物論の共産主義国家)が「発言はチベット仏教の正常な秩序を大きく損なうもので、中央政府と信者は絶対に認めない」とのこと。

 チベット支配を盤石にしたい中国政府は、人々の精神史支柱であるダライ・ラマの権威までを、中国共産党の支配下にしたいということなのだろう。なんというひねくれた祭政一致!

 個人的に、今回の猊下の発言は、清々しいと思う。きわめて政治的な発言だが、仏教的にも好ましいものだ。

 ところで、輪廻についてどう思いますか? あると思いますか? ないと思いますか?

[私の回答]
 わかりません。でも、私は困りません。どちらでもいいのです。
 なんまんだぶ

なまけるな

2014-03-29 15:03:21 | 仏教
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なまけるな

イロハニホヘト

散(る)桜     一茶『七番日記』


 ヘンな句だが、涅槃経の釈尊の遺言を連想した。
「イロハニホヘト」は「色は匂えど」である。
 つまり、直訳すると「なまけるな。いま美しい桜も散ってゆくのである」ということだ。

では君たちに告げます。すべての現象は消え去るもの。不放逸を励みなさい

※涅槃経の一節の現代語訳は、
http://www.j-theravada.net/howa/howa202.html
から引用。


『科学するブッダ 犀の角たち』(佐々木閑・角川ソフィア文庫)

2014-02-23 23:32:10 | 仏教
 碩学・佐々木先生によるエッセイ。きわめて大雑把にいえば「寺(たぶん浄土真宗)に生まれた科学好き少年が、いかにして仏教学者になりしか」という感じか。
 前半は科学読み物で、物理学、進化論、数学を題材にしている。他の分野についての造詣も深いのだろうが、博学である。物理学の光についてのところが、よくわからなかった。
 後半は仏教学概論のような感じ。インドに対する憧れからドイツ等のヨーロッパで実証的仏教学が花開いたというのは、興味深かった。
 前半と後半は一見関係のないように思えるが、一貫している。それは「神の視点の排除」ということだ。
 この世の現象を説明するのに、ヨーロッパ世界ではまず絶対的な神の存在があった。デカルトの二元論は神の証明のための論理であり、パスカルやニュートンをはじめとする近代科学の祖たちは、世界の法則はすべて神の思し召しであることを裏づけるために理論を構築したのである。「このような美しい世界は、神がつくりたもうたとしか思えない」という考え方である。その(サムシング・グレートのような)考え方を大まじめに語る科学者はトンデモ扱いされてはいても未だにいるし、最先端の科学では、NHKスペシャルであったように美しい「神の数式」(ヒッグス粒子が関係しているらしいが)の証明にしのぎを削ってきた。
 西洋哲学にしても然りで、20世紀に至っても「神」抜きには語れない学問だった。自分の生き方を問題とする実存哲学でさえ、神との対峙をもっとも重要視してきたのである。私は、学生時代にちょっと囓った程度だが、そのような神ありきの向こうの学問に面食らったまま、キリスト教が歴史的に強すぎるからしょうがないのかなあ、と悶々としていた。
 そんなモヤモヤにたいして、「あーやっぱりそうだったんだ」と思わせてくれる良書である。
 「神の視点」を人間に移すのが、科学の歴史だった。その態度そのものが仏教である、と著者はいう。私も同感である。


↓「閑」は「しずか」と読むそうです。のび太くんの彼女みたいですが、おじさんのようです。

科学するブッダ  犀の角たち (角川ソフィア文庫)科学するブッダ 犀の角たち (角川ソフィア文庫)
価格:¥ 840(税込)
発売日:2013-10-25