碩学・佐々木先生によるエッセイ。きわめて大雑把にいえば「寺(たぶん浄土真宗)に生まれた科学好き少年が、いかにして仏教学者になりしか」という感じか。
前半は科学読み物で、物理学、進化論、数学を題材にしている。他の分野についての造詣も深いのだろうが、博学である。物理学の光についてのところが、よくわからなかった。
後半は仏教学概論のような感じ。インドに対する憧れからドイツ等のヨーロッパで実証的仏教学が花開いたというのは、興味深かった。
前半と後半は一見関係のないように思えるが、一貫している。それは「神の視点の排除」ということだ。
この世の現象を説明するのに、ヨーロッパ世界ではまず絶対的な神の存在があった。デカルトの二元論は神の証明のための論理であり、パスカルやニュートンをはじめとする近代科学の祖たちは、世界の法則はすべて神の思し召しであることを裏づけるために理論を構築したのである。「このような美しい世界は、神がつくりたもうたとしか思えない」という考え方である。その(サムシング・グレートのような)考え方を大まじめに語る科学者はトンデモ扱いされてはいても未だにいるし、最先端の科学では、NHKスペシャルであったように美しい「神の数式」(ヒッグス粒子が関係しているらしいが)の証明にしのぎを削ってきた。
西洋哲学にしても然りで、20世紀に至っても「神」抜きには語れない学問だった。自分の生き方を問題とする実存哲学でさえ、神との対峙をもっとも重要視してきたのである。私は、学生時代にちょっと囓った程度だが、そのような神ありきの向こうの学問に面食らったまま、キリスト教が歴史的に強すぎるからしょうがないのかなあ、と悶々としていた。
そんなモヤモヤにたいして、「あーやっぱりそうだったんだ」と思わせてくれる良書である。
「神の視点」を人間に移すのが、科学の歴史だった。その態度そのものが仏教である、と著者はいう。私も同感である。
↓「閑」は「しずか」と読むそうです。のび太くんの彼女みたいですが、おじさんのようです。