goo blog サービス終了のお知らせ 

人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

ヨハネの黙示録16章

2018年08月16日 06時24分39秒 | ヨハネの黙示録
 災いの第三サイクルが描かれている。これは先の二つのサイクル、解かれた封印、吹き鳴らされたラッパのそれと同じことを言っているが、内容はより激しくなっている。たとえば、先の災いは、地の3分の1に対する限定的なものであったが(8:10)、最後の七つの鉢の災害はすべての者に及ぶ。それは、一時的な懲らしめではなく、これまでにない最終的なもので、悔い改めの呼びかけが何度も要求されるのである(9節、11節、21節)。
 しかもこの鉢はどこから来たものか?5:8香に満ちた、金の鉢、香は「聖徒たちの祈り」とされる。その鉢が、神の怒りの鉢としてぶちまけられたと取るべきだろう。私たちの祈りは決して無駄にはならない。こうしてすべて積まれた祈りは、最終的には、精算される、というべきであろうか。しかも興味深いことは、ローマ12:20で、パウロは「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」と言っているが、復讐するは我にありとあるように、こうして長らく果たされないと思われていた、全ての復讐も成し遂げられるのである。「燃える炭火が彼らの上に降りかかりますように。彼らが火の中に深い淵に落とされ立ち上がれないようにしてください。」という祈りは(詩篇140:10)応えられるのである。
さて人が死ぬことについては、誰も異論がない。誰も死を経験したものはいないにもかかわらず、他人の死を見て、生ある者は必ず死ぬと理解する。しかし、裁きについては意見が別れる。信じない人は多い。しかし裁きがないなら、この世における裁きは、あまりにも不幸である。詩篇や箴言では、悪者が栄える事に対して、やりきれない思いが非常に率直に表現されている。有名なイマヌエル・カントという哲学者は、もし神と来生の希望がなければ、道徳的な理念は、どんなに立派なことを言っても、人々はそれに同意と賛嘆は示すけれども、だから自分もそう生きようという意図と実行の動機にはなり得ない、という言い方をした。裁きがなければ、道徳そのものの基盤は実際にはないというわけである。神の正しい裁きがあるという聖書の教えに立って初めて、今の私たちの生き方のもとになる道徳的な規範が成立する。7節、神の裁きは勝手な独断的な思惑によるものではなく、正義の現れである、と強調される。
さて、16節。「彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる場所に王たちを集めた。」この場所がどこをさすか、何を意味するか、色々な説があるだけで確定しがたい。ハルマゲドン、一般的にはメギドの山と、理解する人が多い。ハルは、ヘブル語で山、マゲドンは、ヘブル語のメギドの音訳。そこからハルマゲドンはメギドの山を指すとされるからだ。ところが、メギドの山は実在しない。だからこれを少し読み替えて、イルマゲドンとする解釈がある。イルになると、メギドの町になる。メギドの町はあるからだ。パレスチナの内陸からフェニキヤに至る道と、エジプトからシリヤメソポタミヤに至る道が交差する通商や軍事の重要な拠点でもある。旧約聖書の時代には大きな戦いが繰り返された。ここで起こる世界の最終戦争を預言している考えられた時代があった。しかしここに、戦闘場面は描かれていない。そこでハルマゲドンは象徴的に理解するのがよいのだろう。つまり、それは大きな戦争を象徴しているが、具体的に核戦争を始めるといった、目に見える最終戦争ではなく、目に見えない世界で繰り広げられる最終戦争であるという理解である。この地上の戦争ではなくて、霊的な世界での戦い。つまり、悪魔ともサタンとも呼ばれる悪の勢力が、生き残りをかけて、最終的な抵抗をする戦いと読むわけである(20:7-10)。確かに、悲しみも苦しみもない、素晴らしい祝福の天が来る前に、悪魔ともサタンとも呼ばれる存在は、終末において、宇宙とともに、跡形もなく滅ぼされてしまう。20節は、ラストシーンを描いている。だから悪魔ともサタンとも呼ばれる存在は生き残りをかけて、神に抵抗し戦いを挑む、それがハルマゲドンだ、というわけである。
聖書の世界観は、二元的である。普通の人は、一元的に世界を見ている。目に見える世界がすべてだと考えている。しかし、聖書は、目に見える世界だけではなく、もう一つの目に見えない神がおられて、悪魔やサタンという存在がいて、死んだ人々も眠った霊として存在する二元的な世界観で語られている。今の目に見える世界は、やがて滅びるものであるが、神がおられる世界は、永遠に残る。しかも、その世界からサタンとも、悪魔とも呼ばれる存在は永遠に追放されて、ただ、イエスの十字架によって、罪赦され、十字架の愛に生きることを学んだ者のみが招かれ、永遠の安息の時を享受する時が来ると言っている。ただ世は終わるのではない、滅びるのではない、滅びを超えてその日、すべての人間に神の正義がもたらされる日が来る、安息の恵みの日がもたらされる時が来る。神にお会いする備えが求められている。


ヨハネの黙示録15章

2018年08月15日 08時11分43秒 | ヨハネの黙示録
これまで、七つの封印(6-7章)、七つのラッパ(8-15章)、と二つの災いのサイクルが描かれてきた。ここで、7人の御使いが、最後の災害を携えて登場する。しかし2節、ここでは、13章で激しく迫害を受けた信仰者が、解放され、勝利の歌を歌っている姿が描かれている。「彼らは、神のしもべモーセの歌と子羊の歌とを歌っている。モーセの歌は、かつてイスラエルの民が紅海を渡ってエジプトを脱出した時に(出エジプト15章)歌った歌である。
出エジプト記14章30節には「イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た」とある。エジプトから脱出したイスラエル人たちは、紅海の対岸に辿り着いていた。そして15章1節、モーセとイスラエル人は主に向かって、この歌を歌ったとある。一方、黙示録15章2節、勝利したクリスチャンたちが「ガラスの海のほとりに立っていた」とある。このガラスの海は、4:6にあるように、神様の御座の前、天の都にある。そこに、クリスチャンたちが立っている。そして彼らは、モーセの歌と子羊の歌を歌っている。明らかに、黙示録の光景は出エジプト記のものを背景として描かれており、歌われている歌も替え歌になっている。
出エジプトのモーセの歌では、神様が苦しみから解放してくださった、神様は悪い者を裁いてくださった、ことが具体的に歌われている。そして何度か繰り返して読むと分かるが、褒め称えられている神は、あくまでもユダヤ人の神は素晴らしいという調子である。しかし、黙示録の替え歌は、もっと積極的である。苦しみから解放してくださった神様は素晴らしい、偉大であると言う。けれどもその言い方は、比較ではなく絶対的である。ただあなただけが聖なる方です(4節)。聖なる方、これはヘブル語ではカドーシュ。区別されたという意味が原意。つまり、「あなただけが区別され、抜きんでた唯一の神です」という意味になる。そして「すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します」とある。
また、黙示録の歌は、子羊の歌であるとされる。それは、旧約の出エジプトと黙示録の新しい出エジプトの性格の違いから来る。旧約ではイスラエル人たちは、エジプトで奴隷状態にあり、彼らは虐げられ苦しんでいた。そして神様がその呻き、叫びを聞いてくださって、解放してくださった。それで、彼らは神様の正しい裁きをたたえ、感謝する歌を歌う。一方、黙示録では、クリスチャンたちは、同じようにローマ帝国の迫害の中で虐げられ苦しんでいるが、その苦しみと積極的に戦っている。キリスト者として生きることが難しい社会状況の中にありながら、キリスト者として生きることに血を流している。最後までキリスト者として生き抜ぬいて、勝利を勝ち取っているのである。彼らは、ただ苦しみから解放されただけではない、勝利したのである。だからこそ子羊の歌を歌っている。実際イエスも、十字架の苦しみに勝利し、神の右の座にお着きになったのだ。
神は私たちに勝利を約束してくださっている。そこで、自身を神に対する最高のささげ物として日々ささげて生きていきなさい、というメッセージも出てくる。11章には証人のイメージが示された。クリスチャンとして生き抜くことを証しする者のイメージである。12章では、一人の女と赤い竜のイメージで、証人が迫害され蹂躙される様が語られている。13章も同様、ローマ帝国で強制された皇帝礼拝に伴う迫害が「海の獣」「地の獣」のイメージに重ねて語られる。14章は、その迫害下で信仰を守り抜き、戦い抜いたクリスチャンたちが天に凱旋しているイメージが描かれている。15章は完全なる勝利の歌を、神の御前で歌い上げている。
 一連のドラマをとおして苦しめられる者への慰めのメッセージが、語られている。簡単に言えば、苦しめられる者には、新しい出エジプトがあり、十字架の勝利がある。だから、勇気を持とうというわけである。神への信頼と希望を持つ一日としたい。


ヨハネの黙示録14章

2018年08月15日 08時10分25秒 | ヨハネの黙示録
1節、「また私は見た」場面転換が起こっている。視線は天上の144,000人に向けられている。彼らには、「子羊の名と、子羊の父の名が記されていた」という。それはちょうど、13章で獣に刻印を押され獣の支配下にある人たちと対比される人々であり、子羊の贖いに与った人々である。すでに7章で述べたが、144,000人は、12の二乗に完全数10の三乗を加えたもので、エホバの証人が言うような、文字通りの144,000人ではなく、救いに与る者全体を指している。
 彼らは、「御座の前と、四つの生き物および長老たちの前で、新しい歌を歌った。しかし、地上から贖われた十四万四千人のほかは、この歌を学ぶことができなかった。」という。その「新しい歌は、実際には、次の15章の3節から出てくる、モーセの歌と子羊の歌のことである。最初は、贖いの賛美、二番目は神の正しい裁きがいよいよ明らかになることへの賛美である。4節、新しい歌を歌う者の資格として「童貞」があげられる。それは、結婚していないということではなくて、偶像礼拝の罪が不品行とか姦淫と語られるように、偶像に汚されていないことを意味する。「子羊が行く所にはどこにでもついていく」は、救い主への忠誠と服従を特徴とする人々である。
ここで押さえておくべきことは、黙示録には、イエスやクリスチャンを二つのイメージで描く特徴があることだろう。つまり軍事的なイメージと犠牲的なイメージである。たとえば5:4-6。イエスが二つのイメージで描かれている。「ユダ族から出たしし、ダビデの根」これは軍事的なイメージである。そして6節「ほふられたと見える子羊」これは犠牲的なイメージである。それと同じで、クリスチャンについても、144,000人という統計値は戦力を意味し、「童貞」も、ユダヤ人には戦時下にあっては、敵に隙を見せない緊急特別措置として性的な営みを控える習慣があったから軍事的なイメージそのものである。地上の信仰の戦いを戦い抜いてきたクリスチャンが、天に凱旋し、神の御前に整列している姿を描いているに過ぎない。
そして「子羊が行く所、どこにでもついて行く」は犠牲的なイメージである。5節の「彼らの口には偽りが見出されなかった。彼らは傷のない者たちである」は、単にクリスチャンが真実だと言っているわけではない。当時のユダヤ人は、傷のない動物を、いけにえとしてささげた。つまりささげもののイメージでクリスチャンが語られている。
さて6節「もうひとりの御使い」は、厳しい状況の最中になお、全世界に救いの福音が宣べ伝えられるという使命を実行に移していく人々を意味する。7節。私たちは福音を、喜びのおとずれ、救いの福音としてだけ受け止めがち。しかし、福音が神を信じる者に救いをもたらすということは、同時に、神を信じることなく、偶像を拝み続けて来た者には、裁きがもたらされることを意味する。そういう意味では、神の裁きの時が来るのだ。
 8節、さらに「第二の、別の御使い」がバビロンの倒壊を宣言する。バビロンは、象徴的にローマに代表される豪奢な都市文明を意味している。そして第三の御使いの宣告が続く(9節)。地上の権力に蹂躙される絶望的な状況の中で、神の戒めを守り、信仰を持ち続けるように聖徒たちの忍耐が勧められる。そして『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』(13節)と続く。
14節は、イエスの毒麦のたとえ(マタイ13)の現実化である。神の裁きが実行された。 
日本のような平和で豊かな物質主義の時代に生きていると、こうした迫害と死に直面する中で生きている人々に対して励ましとして語られたことが、何か、とてつもなく、まじめで、犠牲的に生きていくことをよしとしているような印象を受ける。しかし、大切なのは、13章からもう一つのテーマが語り始められていることに気づくことだろう。それは、19章まで続いていて、17章からいよいよ明確になるテーマである。つまり17-18章には、8節の第二のみ使いが予告したバビロンの崩壊が詳しく描かれている。そのバビロンの崩壊は、既に述べたように、ローマ帝国の繁栄と豊かさの滅亡を意味している。当時の迫害は、まだ地域差があり、広いローマ帝国の中には、皇帝礼拝が強要されない地域もあった。だから、キリスト教会の中には、他の地域で苦難に晒されているキリスト者を思うこともなく、ローマ帝国時代の繁栄と豊かさに浸りきっている状況もあった。ヨハネは、他人の痛みに無関心なサルデスの教会(3:1-6)や富みや豊かさの中に浸りきっていたラオデキヤの教会(3:13-22)に警告を与えているが、この17-19章において、もう一度、その問題を象徴的に語っている。つまり、大淫婦の象徴は、経済的享楽や搾取の時代の流れに巻き込まれ気づかずにいるキリスト者に対する警告である。
イギリスの黙示録研究の第一人者であるボルカムという神学者は、まさにこの17-19章は、平和を保障された先進国に対する現代的なメッセージである、と語った。現代の日本も享楽的な雰囲気に溢れている。その雰囲気に呑まれて、迫害下で苦しんでいる兄弟姉妹の存在を忘れ、この世の人々と変わらない生活にあるとしたら、その人生は、獣に刻印を押され、淫婦に貢ぐものと変わらない、大淫婦と共に滅びるものに等しい、と言っているのである。
終末の苦難は、迫害だけではない。それは享楽に惑わされることでもある。豊かさが、私たちの感覚を狂わせていくことがある。今の時代がどんな時代であるか、識別の目をもって、信仰の歩みを進めさせていただこう。

ヨハネの黙示録13章

2018年08月13日 08時04分55秒 | ヨハネの黙示録
先の竜の協力者として、二匹の獣が登場する。一匹は海からの獣。もう一匹は地からの獣である。最初に海の獣。外観は不気味である。獣が被る冠のギリシア語は、王位を表す意味のディアデーマ。12:3では7つの冠。ここでは10の冠。一説に、すべての統治者を総称する数とされる。ひょうは、精悍さ、敏捷さを代表し、熊は強力な破壊力、獅子は脅威、地上のどう猛な動物によって地上を支配する者の横暴な性質が象徴的に語られる。この獣は竜、つまりサタンに権威を与えられている。それは、神を汚し、キリスト者を迫害し、あらゆる地に支配権を振るうようになる。この海の獣については、種々の学説があるが、旧約的象徴と考えるなら、ダニエル書の第一の幻に通じる内容である(7章)。ダニエル書では、海から上がってきた四つの獣は、具体的にバビロン、メド・ペルシア、ギリシア、ローマと帝国主義的な支配の盛衰について語るものだった。ヨハネはそのイメージを統合して一つの獣とし、過去から未来に至る地上のあらゆる政治的権力者を象徴的に語っている、と理解できる。
5節、「この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。」11章の異邦人が踏みにじる42カ月、二人の証人が証言をする1260日に相当する。8節、地に住むというのは、地上に住んでいるというよりも世俗の価値観に生きている人のこと。そういう人たちが、皆獣を拝むようになるという。しかし、9節、聖徒は忍耐し、揺るぎのない信仰に立つように、と勧められる。
 次に、11節、海の獣に対する協力者として地の獣が登場する。政治的権力をバックアップする存在である。12節、この地の獣は海の獣の像を造り、人々に拝ませている。そして拝まない者をみな殺させている。さらに17節、一つの許可書を与え、売買の自由や生活権を奪いながら、海の獣、強いては海の獣に権力を与えた竜、サタンに人々を仕えさせるようにする。非常に悪魔的な、カルト的な存在である。ちなみに、18節の「666」という数字については、皇帝ネロのヘブル語名を数字化したもの、という説、そして、ユダヤの完全数が7であることから、6は、完全に及ばない。不完全な支配の力を意味するという説がある。
さて、配役については大まかに理解できた。12章に戻るが、大きな赤い竜はサタン、女と子どもは教会、海の獣は政治的権力で、地の獣はカルト的(宗教的)存在と四つの配役がある。彼らの繰り広げるドラマは、天上で、赤い竜、サタンと呼ばれる存在が戦いに負けて、地に投げ落とされて、地を舞台に激しく怒りをまき散らしている、つまりサタンは霊的な存在、目に見えない存在だから、地上の政治的権力者やカルト的宗教家を利用して、神に敵対し、神に従う者を滅ぼそうとしている、というわけだ。しかしその日数は、限られていて、42カ月間である。
 ヨハネはこのドラマを描いて何を伝えたかったのか。そのような残酷な、辛いことが起こるということを、単に言いたかっただけなのか。もしそうだとしたら、当時のキリスト者に恐怖を与え、憂鬱な思いにさせるだけであろう。しかし、当時の読者と私たちは異なる知的前提でこれを読んでいることに注意すべきである。当時の読者には、ユダヤ的伝統でこれを読むセンスがあったのではないか。先ほども書いたように、これはダニエル書の象徴を用いている、と。つまりダニエルの時代と同じことが起こっている、と。となれば、彼らはダニエル書で語られたメッセージを同時に思い起こしたはずなのである。ダニエル書も、異邦人の異教的権力の迫害にさらされたユダヤ人の苦難を描いている。となればそこから何を学ぶことができるか、という発想になるのである。
振り返って8、9章では、旧約の出エジプトのイメージを使いながら世の苦しみはいつまでも続くものではない、もうすぐ新しい出エジプトが始まろうとしている、という慰めが語られた。そして、10、11章では、その苦しみの時を、ただ苦しいと嘆いておらず、あるべき苦難として、さらにはよい実が結ばれる苦しみと考え、大胆に救い主を証すべきだと勧められる。そしてこの12、13章では、バビロニア帝国に苦しめられた時代、自分たちの信仰の先輩がいかに生きたか、ダニエル書の記事を振り返らせている。つまり、ダニエルが、迫害下にあっても、いつも通り、神に祈り、感謝して生きたことを思い起こさせている。苦しみにあっても、心を騒がせず、神に全く信頼し、静かに、自分自身のペースを守って生きることが、ここから教えられることである。苦しみにあっても、静かに、その時を信頼の内に過ごし歩むことが私たちに求められていることである。


ヨハネの黙示録12章

2018年08月12日 07時14分27秒 | ヨハネの黙示録
天上の話が続いている。天に「巨大なしるし」つまり、「ひとりの女」と「大きな赤い竜」が現れた、という。これをどう解釈するか。こうした黙示録の象徴的な表現については、ジュィッシュ・トラディション、いわゆるユダヤ古典文学との関連を調べる研究がある。つまり、旧約聖書のダニエル書とかエゼキエル書との関連、また、プロテスタント教会では正典外とされる「マカバイ記」や「イザヤの殉教」といった、当時、ユダヤ人が聖書と平行して読んでいた文学作品との関連を調べるものである。というのも、これらの作品に出てくる象徴的な表現と黙示録の表現には類似性があって、またヨハネもこういう作品に触れていたであろうと考えられるからだ。それはありそうなことである。というのも、ヨハネは一度に幻を見たわけではなく、何回かに分けて見た可能性がある。そしてヨハネは幻を見た後、その幻の意味を思い巡らして探り、自分が悟らされたことを過不足なく伝えるにはどうしたらよいかを考える時間もあったことだろう。そこで、当時のユダヤ文学の表現や構成を用いようとしたことは、考えられなくもない。
 さて「ひとりの女(1節)」については、幾つかのとらえ方がある。後の「竜」との関連で考えるなら、基本的に創世記3:15の「女とサタン」との対比に基づいて考えるべき存在なのだろう。「太陽を着て」これは詩篇104:2と関連している。つまりイスラエル史の中で真のイスラエルは太陽の光のように神の栄光を輝かせた。また「月」は暗黒の支配者。暗黒の力に打ち勝つことの象徴。「12の星の冠」は、ステファノン、栄誉のしるしとしての冠で、イスラエル12部族を象徴している。この女性は「みごもっていた」とある。メシヤを産み出した真のイスラエルである。というのも、真のイスラエル人たちは、人々に信仰が回復されることを祈り、メシヤを待ち望み、苦しんだからである。その真のイスラエル人たちの祈りの中に、メシヤが生まれる(5節)。だから、「女性の子孫」は、現在に至るまでのクリスチャンと理解される。
そこで「竜」について、9節に簡単な解説がある。「この巨大な竜、すなわち悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」。人類の歴史の始めに、アダムとエバを惑わし、堕落に至らせた「古い蛇」、「サタン」であると説明される。「赤い」は、ギリシア語で「ピュロス」、火のような赤で、「殺戮」を象徴することば。まさにサタンの形容詞としてふさわしい。さらに、「七つの頭」。ユダヤで七は完全数。だから七つの頭は完全な頭。つまり大変賢い、あるいは狡猾な存在であることを言っている。また「十本の角」は力の象徴で、この世に対する支配権を持っていることを意味する。実際「冠」と訳されたギリシア語は、ディアデーマ、つまり王権のしるしとしての冠。赤い竜が支配権を握っていることを意味する。
この両者の間に戦いが起こる。竜はメシヤを滅ぼそうとするが、失敗して、地に投げ落とされてからは、真のイスラエルと、その子孫であるクリスチャンを滅ぼそうとする、しかし、真のイスラエルは守られていく、というドラマが展開される(16節)。そこで、竜が激しく怒り、さらに追跡し、クリスチャンの運命はいかに、それが次の13章の記事となっている。
つまり天上の目に見えない戦いが描かれていて、そこでの勝負はついてしまった、という点が重要である。この地上は様々な矛盾と不本意な出来事に満ちていても、天はもはやそうではない。「天に、彼らのいる場所がなくなった」からである(7節)。また、「日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が」退けられたからである(10節)。なぜか?それは、復活の主が昇天し、天に戻られたことによって、天が、罪の赦しの恵みによって支配されたからである。もはやだれも天において私たちを告発する者はいない。告発者は今地にあるのみ。そして自分の時の短いのを知り、激しく怒って、神の戒めを守り、イエスのあかしを保とうとする者たちと戦おうとしている、とある。だからクリスチャンにとってこの世は生きにくいところがあるだろう。この地上において、信仰を持つことは、それぞれが戦いを覚悟しなくてはならない、だがその信仰はすでに勝利を約束されたものである。