ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

オシフィエンチムの町 ①

2013-05-01 21:00:45 | クラクフ (ポーランド)

クラクフから西に約50kmほどの距離にある町、オシフィエンチム。2006年時点の人口は、41,000人弱。ポーランドのあちこちにあるような、静かな田舎町といった風情だ。

教会があって、広場があって、旧市街があって、その周りに少しずつ新興の建物が増えている。下左の航空写真は1975年撮影。下右のカラー写真の撮影日は不明。

旧市街の西を流れる川は、クラクフを流れるヴィスワ川の支流のソワ川。

     

 

     昔は市が立って賑わった広場。たぶん現在も、決まった曜日に青空市場が立つのでは? 歴史のありそうな古い建物に囲まれているようだ。

       

    

    

 

          広場のすぐ北には、白亜?の外壁と水色の屋根の、こんな素敵な教会も!

                  

       

       

           

 

教会の西、ソワ川の脇に立つのは、オシフィエンチム城。14世紀前半に造られた塔が、現存する最古の部分で、城自体は16世紀に建てられ、その後何度か修復が加えられたもよう。

       

 

オシフィエンチムには、しかし、別の名がある。知らない人はまずない、ドイツ語の名――アウシュヴィッツ(Auschwitz)。1939年9月3日にオシフィエンチムを占領したドイツ軍は、町の名前をアウシュヴィッツに改名し、10月にはナチス・ドイツの“第三帝国”に編入した。

 

                

                              ①オシフィエンチム鉄道駅           ②オシフィエンチム中心街     

                    ③アウシュヴィッツⅠ      ④アウシュヴィッツⅡビルケナウ     ⑤アウシュヴィッツⅢモノヴィッツ

 

ポーランドの“政治犯”を収容する施設が必要だったナチスは、鉄道駅があって交通の便が良いオシフィエンチムに目をつけ、1940年から、戦前に使用されていたポーランド軍兵舎を強制収容所として使い始めた(アウシュヴィッツⅠ)。

収容者増加に対応するため、翌1941年、駅の西側のブジェジンカ村に住むポーランド人を追い出し、家屋を取り壊して広大な第二強制収容所ビルケナウ(アウシュヴィッツⅡ)を建設。

1942年から44年にかけては、“大企業の製造プラントや近郊の炭鉱に付随する形で大小合わせて40ほどの収容施設がモノヴィツェ村(ドイツ名モノヴィッツ)につくられた”(アウシュヴィッツⅢ)。

 

こうして人類の歴史に現時点で最大の汚点を残す強制収容所・大虐殺工場が、ポーランドの田舎町に誕生したのである。

 

≪ つづく ≫

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