クラクフから西に約50kmほどの距離にある町、オシフィエンチム。2006年時点の人口は、41,000人弱。ポーランドのあちこちにあるような、静かな田舎町といった風情だ。
教会があって、広場があって、旧市街があって、その周りに少しずつ新興の建物が増えている。下左の航空写真は1975年撮影。下右のカラー写真の撮影日は不明。
旧市街の西を流れる川は、クラクフを流れるヴィスワ川の支流のソワ川。
昔は市が立って賑わった広場。たぶん現在も、決まった曜日に青空市場が立つのでは? 歴史のありそうな古い建物に囲まれているようだ。
広場のすぐ北には、白亜?の外壁と水色の屋根の、こんな素敵な教会も!
教会の西、ソワ川の脇に立つのは、オシフィエンチム城。14世紀前半に造られた塔が、現存する最古の部分で、城自体は16世紀に建てられ、その後何度か修復が加えられたもよう。
オシフィエンチムには、しかし、別の名がある。知らない人はまずない、ドイツ語の名――アウシュヴィッツ(Auschwitz)。1939年9月3日にオシフィエンチムを占領したドイツ軍は、町の名前をアウシュヴィッツに改名し、10月にはナチス・ドイツの“第三帝国”に編入した。
①オシフィエンチム鉄道駅 ②オシフィエンチム中心街
③アウシュヴィッツⅠ ④アウシュヴィッツⅡビルケナウ ⑤アウシュヴィッツⅢモノヴィッツ
ポーランドの“政治犯”を収容する施設が必要だったナチスは、鉄道駅があって交通の便が良いオシフィエンチムに目をつけ、1940年から、戦前に使用されていたポーランド軍兵舎を強制収容所として使い始めた(アウシュヴィッツⅠ)。
収容者増加に対応するため、翌1941年、駅の西側のブジェジンカ村に住むポーランド人を追い出し、家屋を取り壊して広大な第二強制収容所ビルケナウ(アウシュヴィッツⅡ)を建設。
1942年から44年にかけては、“大企業の製造プラントや近郊の炭鉱に付随する形で大小合わせて40ほどの収容施設がモノヴィツェ村(ドイツ名モノヴィッツ)につくられた”(アウシュヴィッツⅢ)。
こうして人類の歴史に現時点で最大の汚点を残す強制収容所・大虐殺工場が、ポーランドの田舎町に誕生したのである。
≪ つづく ≫