ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

“ベイブ” の生みの親

2018-08-25 13:38:10 | イギリスのあれこれ

《 8月25日: 加筆しました、とうとう完成!  》

 私が大好きな映画のひとつ 『ベイブ』。1995年制作ということは、ムスメが生まれた年だから、・・・23年前!

 

『ベイブ』の下敷きになったお話は、英国で1983年に発表された “The Sheep-Pig”。米国では “Babe, the Gallant Pig” の題名で1985年に発刊されたそうです。子供向けのお話を映像化した映画だとは知っていたけれど、最近あるニュースがきっかけで原作とその作者について調べたので、今回はその結果知ったことを記事にしようと思います。

 

 

作者のディック・キング=スミス(1922-2011)は1922年3月27日、グロスターシャー州南部の小さな町ビットン(Bitton)で誕生しました。本名はロナルド・ゴードン・キング=スミス。ディックという愛称は、幼かった彼が乳母と散歩中に転んでしまったものの泣き顔を見られたくなかったので 「ほら、あそこの小鳥をみて!(Look at the little dicky-birds!)」 と言ったことに由来するそうです。

  

ディックの家は製紙業を営み、彼は弟をはじめとする遊び仲間に恵まれた満ち足りた幸せな子供時代を過ごしました。動物好きだった彼は、多くのペットを飼ってその世話をしながら成長しました。18歳になった彼は、ケンブリッジ進学よりも農業を学ぶことを選び、ウィルトシャー州のティザリントン農場で見習いとして働き始めます。きつい労働にもかかわらず、家畜を愛するディックは農業のとりこになりました。

  

  未来の妻となるミール・イングランドに初めて会ったのは、1936年のクリスマス。ディックの両親が毎年クリスマス・デーの午前中に催すドリンク・パーティーにミールの両親も招かれたのがきっかけでした。ディックと同様ミールも、セキセイインコを飼い繁殖させていました。色を保護するためインコを色分けして飼っていると聞いたディックは、その賢明なアイディアに感心します。しかし1年かそこら後、ミールと家族はイングランド中部に引越していきました。

  

1940年の夏、ミールがディックをティザリントン農場に訪ねたことから二人の交流が再開し、まもなくディックは母親に、将来結婚する女性は彼女だと告げます。戦争が始まると、ディックはグレナディアガーズの新兵としてウィンザー城に配属されました。ウィンザーのテムズ河畔のパブに一緒にいたある日、ディックはミールに、「結婚するというのはいいアイディアだと思うが、どうだろう?」 と婉曲なプロポーズ。ミールは 「イエス」 と応え、そうして二人は1943年2月6日、ビットンの聖メアリー教会で結婚式を挙げました。

 

 1944年7月12日、ディックはイタリア戦線で手榴弾により重傷を負います。炸裂した金属片が全身に飛び込み、肺に穴を開けました。辛くも命が助かったのは、木の陰に避難していたからでした。ディックが治療のため英国に送還されると、ミールはリバプールの軍事病院までディックに会いに行きます。50kgそこそこまで体重が落ちていた彼を見つけられたのは、彼女に気づいたディックが、横たわったベッドから動かせる方の片手を使って弱々しく手を振ったからでした。「当然のことながら彼女との再会が一番の特効薬となり、私は回復を始めたのです。」 ある程度健康が回復した彼は故郷近くの保養所に転院され、やがては自宅での静養を許可されて、子供時代を過ごした家で両親・ミールとともに2年間暮らします。1945年10月、長女のジュリエットが誕生。

  

農業に戻りたくてうずうずしていたディックは、健康を回復するとディザリントン農場に戻り、ふたたび新婚時代を過ごしたコテージで暮らし始めます。最初のダックスフントのアナを飼い始めたのはこの頃です。しかし身体が以前のレベルまで回復していなかったディックには農場の仕事はきつすぎたため、代わりに元兵士を対象にした農業課程で学びます。1947年に家業であるゴールデン・ヴァリー製紙業は、耕作地つきの小さな農場――コールピット・ヒース(Coalpit Heath)のウッドランズ農場(Woodlands Farm)――を購入。ディックはその経営を任され、製紙工場の社員食堂に卵と牛乳を供給します。1948年2月、次女のリズ(エリザベス)が誕生。1953年8月に長男ジャイルズが誕生し、ディックは5人家族の長となります。

 

  ディックは午前5時45分から搾乳を始める熱心な働き者の農夫でした。ウッドランズ農場では犬猫はもちろん、それに加えて乳牛、豚、山羊、鶏、アヒル、ガチョウ、キジ、セキセイインコ、カメ、ネズミ、ウサギ、モルモットを飼い育てました。それぞれが名前をつけられ家畜というよりはペットのように世話されました。「私たちは家畜を増やすのが大好きでした。子牛や子豚を市場に、あるいは鶏やアヒルやウサギを冷凍工場に送ったりしなくて済めば理想的だったのですが・・・」

  

ディックのお気に入りだったのは常に豚で、豚には知性と人間性がたっぷり備わっていると彼は信じていました。「機会があったら、豚の目を間近で見つめてみてごらんなさい。犬の目は忠誠を、猫の目は生意気を、牛の目は黙想を、羊の目は空虚を宿していますが、豚の目には理解があるのです。他の動物が『この人間は自分を見ている』と考えるとき、豚は『自分はこの人間を見ている』と考えます。これはとてつもない相違です。」

 

農場生活を愛したディックでしたが、文字には強くとも数字にはからきし弱かったため、ウッドランズ農場が利益を計上することはなく、製紙業が1961年に廃業すると農場も売却されました。友人の世話でシストン(Siston)にあるオーバースコート農場の経営を始めたディックでしたが、やはり利益を出すことはできず、6年後に農業をあきらめることを決意します。しかし農業生活は大変なことばかりではなく、ディックとミールは定期的に映画や観劇に出かけ、友人を食事に招き、外食に出、年一回のダンス・パーティーも正装して楽しみました。子供の頃から書くことが好きだったディックは、農業のかたわら折にふれて詩や散文を書き、詩節が活字になったことも何度かありました。1950年代と60年代には、レックス・フェーバーというペンネームで書いた詩が、全国紙や雑誌に採用され掲載されました。

 

オーバースコート農場の経営に失敗したディックとミールは、仕事と家を同時に失いました。良き友人が無償で貸してくれた家に住み、生計を立てるためパブの雇われ経営まで考慮しました。友人の紹介でセールスマンをしたり靴工場で働いたりして数年が経ったとき、長女のジュリエットから「教師の資格を取るためのコースを始めるところ」だと聞いたディックは、自分も小学校教師になることを決心し、晴れて1975年にブリストル大学で教員資格を獲得します。気前のよい友人が貸してくれたお金でクィーン・チャールトン(Queen Charlton)――ブリストルバースの間に位置する村――のダイアモンド・コテージを購入したのは1968年のことでした。ディックとミールが結婚後に初めて買ったこの家に、二人は終生住むことになります。ディックによると、競売で買ったこの家は「私の生家から直線距離にして5kmと離れていない小さな村にある、とても古くて小さな家」でした。

 

教員資格を取ったディックは、幸い家から8kmの距離にあるファームボロ小学校(Farmborough Primary School)に勤めることができ、そこで53歳から60歳になるまでの7年間教えました。最初の4年間は8歳児を受け持ちましたが、算数があまりにも苦手だったため、残りの3年間は低年齢クラスに変えられました。子供好きのディックは、自意識皆無で好奇心旺盛な子供たちとの交流を、心から楽しみました。

晴れて小学校教師になったディックは、1976年の夏休み中に子供向けの話を書き始め、3週間で『フォックス・バスターズ(The Fox Busters)』の草稿を完成します。これは農夫をしていた20年前に、ウッドランズ農場の雄鶏が何度もキツネに襲われた経験にヒントを得た作品でした。原稿は2社から送り返されてきましたが、3度目の正直で3社目の編集者の目に留まり、彼女の叱咤激励のおかげで1978年――ディックが56歳のとき――に処女作として出版に漕ぎつけました。それ以降は順調そのもので、作品のアイディアは止まることなくひらめき、ディックは書くことを、そして子供たちは彼の作品を読むことを、大いに楽しみました。60歳の誕生日を迎えた1982年に、ディックは教職を引退して作家活動に専念するようになります。翌1983年、(映画“ベイブ”の基となる)“The Sheep-Pig”を発表。この話のアイディアは、村のお祭りで『この豚の体重を当てよう』ブースを見たときに思いつきました。The Sheep-Pig は1984年のガーディアン賞を受賞し、のちに映画化され1995年に“ベイブ”として公開され、世界中で大成功を収めました。自分の数多くの作品の中でもディックが一番誇りに思っているのはこの作品だそうです。

 

 ディックはすべての作品を、1982年に増築した小さな書斎で生み出しました。その書斎は本当に小さく、机に座った彼は両腕をまっすぐ伸ばさずとも両脇の壁に触れるほどでした。一日一章を目標に、朝書斎に入って下書きを始めます。紙は粗末なものでいいのです。時には使用済みの封筒すら使われました。ミールと一緒の昼食を済ませると、午後は午前中に書いたものを古いタイプライターで指一本のみを使ってタイプします。夜は飲物を片手にその日書いたものをミールに読んで聞かせ、彼女の反応からその良し悪しを判断します。「彼女が『とてもいいと思うわ』とか『素晴らしいわ』と言えば最高です。気のない表情で『ええと・・・そろそろ芽キャベツを火にかけなきゃ』と言ったら、真剣に書き直しを考えねばなりません。」

 

教師の経験があり児童文学作家でもあるディックは、1980年代には3つの子供向けTV番組(Rub-a-Dub-Tub:1983、Pob's Programme:1985-87、Tumbledown Farm:1988-89)にも部分的にレギュラー出演。愛犬のドゥードゥーやポピーや弟トニーから借りた黒ラブのハッティーを相棒に、動物やその特質についてわかりやすく楽しい解説をしたり、本を朗読したり、宝探しをしたり、農場を訪ねて家畜と触れ合ったりして視聴者を楽しませました。ディックはカメラの前でも自然体で、親しみやすさとユーモアにあふれていました。個性的なドゥードゥーが愛嬌をふりまいて人気者になり、やがて自分を差し置いて世間に認識されるようになったことを、ディックは面白がったそうです。

  

 

作家として成功したおかげで経済的な心配から解放され安堵したことは事実ですが、ディックが一番喜んだのは、彼の作品を読んだ子供たちから送られてきた何千もの手紙でした。とりわけ彼は、自分の作品が貧しい子供に読書の習慣をつける手伝いをしたと感じたとき、心から嬉しく思ったそうです。

「キング=スミスさんへ。ロアルド・ダールにてがみをおくるつもりでしたが、しんでしまったのでかわりにあなたにかきます」

「ディック・キング=スミスさん、まだしんでないですか?」

「あなたのおはなしがだいすきです。しぬまえにあといくつかかいてくださいね」

「しんあいなるディック・キング=スミスさんへ――わたしのおきにいりのさっかはジャクリーン・ウィルソンです」

「キング=スミスさん、しんだらロアルド・ダールにわたしからの『ハイ』をつたえてください」

(・ ・ ・  ・ ・ ・)

 The Sheep-Pig が映画化され『ベイブ』のタイトルで1995年に公開されると、ディックの知名度は飛躍的に高まりました。公開に先駆け、試写に招かれてロンドンまで出かけたディックとミール。記者や批評家に混じって小さなスクリーンで視聴するものとばかり思っていたら、実際は多くの子供たちと一緒にフル・スクリーンで映画を楽しむことができました。映画の制作にはディックは関わりませんでしたが、二人は心の底から映画を楽しみ、心の底からその出来に満足しました。

  

ディックは「自分がずっと思い描いていた人物像そのものだ」と、ジェームズ・クロムウェルが農夫ホゲットを演じたことを特別に喜びました。

 

「私が一番感銘を受けたのは、映画の96%が訓練された動物の実写であって、アニマトロニクスは4%に過ぎないことです。多くの人がその反対だと信じていますが。本当にたくさんの賢い動物が、あの映画に出演したのです。ベイブは生後6週間ほどでなければならないのに子豚はすぐに大きくなってしまうため、撮影には合計48頭の子豚が使われました。『子豚たちはすべて食べられてはならない、ベーコンにされてはならない』という父の主張で、彼らはすべてペットとして、あるいは保護センターへと、引き取られていきました。」 ――ディックの次女リジー・ローズ(ザ・ガーディアン


「私は『たのしい川べ』もビアトリクス・ポター作品も大好きですが、私のお話に出てくる動物たちは服を着ません。彼らは動物らしく振舞います。クィーンズ・イングリッシュをしゃべることを除けばね。」

 ディックは引退するまでの20余年の間に、100を超える作品を発表。そのほとんどが動物を題材にした子供向けのフィクションで、うちいくつかは、テレビや映画で映像化されました。彼の作品は英国だけで500万部、全世界では1500万部を売り上げ、21言語に翻訳されました。彼は数々の賞に加えて、2010年には児童文学への功績により大英帝国勲章を受勲しました。

 

 

ディックは孫や曾孫が増えることを大いに喜び、彼らを慈しみました。彼の年代の男性には珍しく堂々と、しかも自然に、赤ちゃんや幼児や子供に愛情たっぷりに接しました。

 

  良き伴侶だったミールに2000年に先立たれたディックは、翌年昔からの友人だったゾーナ・べディングと再婚。2011年1月4日、自宅のダイアモンド・コテージで睡眠中に亡くなりました。享年88歳。3人の子供・14人の孫・4人の曾孫・1人の玄孫を残しての往生でした。

 

 

*       *       *       *       *

 

“ベイブ”の原作者について書き終えたので、ここでようやく、キング=スミス氏について調べるきっかけを作ったニュースについて書くことにします。それは先月12日付の “Fight to save author Dick King-Smith's Coalpit Heath farm(ディック・キング=スミスのコールピット・ヒースの農場を救う戦い)” というものでした。このニュース、ネットのローカル・ニュース・サイトで見たので、その農場ってもしかしてこの近く?と思い調べてみたら、我が町ダーズリーから南南西の方向に、直線距離にして20kmほどしか離れていませんでした。そうなんだ、“ベイブ”の作者ってこの地域の人だったんだぁ・・・と思ったら急に親近感が沸いたので、さらにあれこれ調べた次第です。

 

 グーグル・ストリート・ヴューで見るとウッドランズ農場への入口には鉄製の立派な門があって、そこから農家まで100余mの車道が延びているようです。

 

 農家には複数の車が駐まっていますから、今も誰かが住んでいるようです。下右画像の背景に見える大きな町は、南西方向に10kmほどしか離れていないブリストルかと。

 

 ニュースによると、そんなウッドランズ農場に属していた農地が“ブラックベリー・パーク”と名づけられ、宅地開発会社バラット・ホームズ(Barratt Homes)の開発の標的にされているのだそうです。バラット・ホームズはまず2013年に、330軒の住宅の建築許可を州議会に申請しましたが、同年7月に却下されました。そこでバラット、住宅軒数を2/3ほどまで減らして2017年1月に再度、215軒の建築許可を申請しました。が、これも2017年8月に却下されます。しかしバラット・ホームズはあきらめず、今年6月に、公聴会による審議を要請する訴えを起こしたそうです。

 

 もしこの宅地化が許可されたら、縮小されたウッドランズ農場の背景はこんな  感じになるんだろうな・・・

キング=スミス氏がウッドランズ農場の経営を任されていたのは1947年から1961年まで。つまり同農場は、もう57年も前に彼とは縁が切れたことになります。農家そのものは取り壊されて宅地にされることはないようだからひと安心だけど、キング=スミス氏が青年~壮年期(25歳~39歳)の情熱を注ぎ込んだ農場に属していた農地の大部分が宅地となってしまうのは、ちょっと残念な気がします。(失敗に終わった農場だからとキング=スミス氏自身はそれほど気にしないかもしれませんが。)同じ思い、また(これ以上緑地を失いたくない)という危機感や「開発業者による計画性を欠いた任意の開発は、地域社会にとって不適切で益をもたらさないどころか害になる」という信念から、宅地化に断固反対する地域住民が宅地化阻止のため2013年時も今回もキャンペーン活動を展開しています。キング=スミス氏の長女のジュリエットさん(現在72歳)は、2歳から16歳までという子供時代の大部分を同農場で暮らしました。彼女も『ウッドランズ農場の開発に反対する地域住民の会』のメンバーで、公聴会でも意見を述べる予定だそうです。(残念ながら、その公聴会の予定日は記事に載っていませんでした。)

私も、できればこの特別な歴史を持つ農場の農地が、宅地化されず保存されることを望みます。「そんなセンチメンタルな理由で!?じゃあこの先いつまで残しておけばいいのさっ?!」と問われれば応えに詰まりますが。

 

 ところで彼の終の棲家となったクィーン・チャールトンにあるダイアモンド・コテージは今どうなっているのでしょうね?彼の作品のすべてがこのコテージで誕生したわけだから、ダイアモンド・コテージがキング=スミス博物館とか資料館として保存されたらいいのにな、と思います。

 

それにしてもキング=スミス氏という人は、本当にこの地域からまったく出ずに一生を終えられたんですね。彼自身が「5kmと離れていない」と言っていた生家のあるビットンからクィーン・チャールトンまでは、グーグル・マップによる私の調べでは、実際は5kmとちょっと離れているようですが。あ、でも生家とダイアモンド・コテージの位置次第では、本当に5kmと離れていないことも十分あり得ますね。

 

 作家として成功し経済的に豊かになっても、以前とまったく変わらぬ平穏無事な田舎暮らしを最後まで続けたというキング=スミス氏。同じ小さな家に住み、贅沢な旅行(飛行機は嫌いだったそうです)や散財をすることもなく、複数の飼犬との日課の散歩を楽しみつつ作家活動に精を出したそうです。穏やかで機知に富み、愛嬌もあって子供好きで、最後まで背筋をピンと伸ばした姿勢を保ったという、田園社会の真のジェントルマンのお人柄が見えてきました。このような尊敬に値する方が我が町ダーズリーから余裕で日帰りできる距離に7年前まで暮らしておられたなんて、驚きであるとともに光栄に思います・・・

でもこうなると、映画“ベイブ”が英国ではなくオーストラリアで撮影されたというのがとても残念。英国での撮影も考慮されたけど、宅地化が進みすぎて適切な土地が見つからなかった・・・なんてことはなかったですよね!?

 ちゃんとしたタイプの打ち方を習わなかったため指1本でのみタイプしたというキング=スミス氏の The Sheep-Pig の原稿の一部です。

 

 開発のニュースがきっかけでディック・キング=スミス氏についていろいろと学べてよかった

そうそう、この記事の主な情報源にした同氏のウェブサイトはイラストがとっても可愛いです!  

 

 このサイト、同氏の没後の2015年2月に、家族・友人・出版関係者が協力して立ち上げたものだそうです。とてもよくできていてとても参考になりました。

ありがとう~!!

   

 

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コメント (4)    この記事についてブログを書く
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4 コメント

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ベイブ! (チビまま)
2018-08-11 06:59:05
ベイブ! 懐かしいですねー。
私も大好きな映画のひとつです。 :)
でももとになったお話はイギリス発祥だったとは全く知りませんでした。

一生懸命犬のように羊を追っている豚のベイブ、本当に可愛くて微笑ましいですよね。

イギリスは夏はもう終わってしまったのでしょうか!?
暑いのは大変だけど、少し淋しい気もしますね。
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いい映画ですよね💖 (ハナママゴン)
2018-08-12 04:39:10
撮影はオーストラリアでされましたが、もともとはイギリスのお話だったんですね。
私も当時は知りませんでした。
動物たちがそれぞれいい味を出していて、ほんと楽しい映画でした。
子豚のベイブが元気で優しくて健気で・・・

涼しくなりましたね。いつものイギリスの夏にようやく戻ったというか。
でもほんと、これで夏らしい日々が終わってしまったのだとしたら、ちょっと寂しいです。
返信する
Unknown (ちい)
2018-08-26 10:15:51
いつも楽しく、戦争の記事では考えさせられながら読んで居ます。

ベイブ、懐かしいですね!23年前なんだー。
可愛い子豚とおじいちゃんのお話で好きでした。コンテストの時に最初笑われてかわいそうと思ったのを覚えてます。あんなあからさまにバカにするとは!

作者の方も素敵な方なんですね。散財をしないで生活を変えないって素敵です。
奥様が亡くなって翌年に再婚あたりが、愛至上主義の欧米っぽいかもしれません(^^)

写真かどれも幸せそうですね。
返信する
コメントありがとうございます。 (ハナママゴン)
2018-08-27 06:50:09
キング=スミスさんてほんと、どの写真を見ても穏やかな笑みを浮かべていらして、素敵なお人柄が滲みでているようです。

長年連れ添った奥様が亡くなった翌年に再婚!?と初めはちょっと驚きましたが、一人は寂しすぎて耐えられないタイプの方だったのかもしれませんね。

ベイブ 、本当にいい映画ですよね。久しぶりにまた見たくなっちゃいました
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