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私の好きなアーチスト(チャールズ・ミンガス)について(第18弾)

2011年02月16日 07時37分24秒 | JAZZ

LP、CDを合わせると、4~5枚程度所持していて、好きなベーシストの一人であるチャールズ・ミンガスについて簡略的に触れてみます。

250pxcharles_mingus_19761 チャールズ・ミンガス(Charles Mingus、1922年4月22日 -1979年1月5日:56歳没)は、アメリカ合衆国のジャズ演奏家(ベーシスト・コンポーザー・バンドリーダー・時にピアニスト)。人種隔離反対運動でも有名です。

1943年にルイ・アームストロングのバンドで活動。1945年に初レコーディングを経験。
1950年代前半には、チャーリー・パーカーやバド・パウエルと共演し、ベーシストとして名を広めていきました。また、自分のレーベル、デビュー・レコードを立ち上げました。
このレーベルの音源としては、チャーリー・パーカー(
契約上の問題でチャーリー・チャンと表記された)やディジー・ガレスピーと共演した『ジャズ・アット・マッセイ・ホール』が有名だが、ベースの音量が小さかったため、ミンガスがベースをオーバー・ダビングしたというエピソードがあります。

1956年、ジャズに物語的要素を持ち込んだ『直立猿人』を発表し、作曲家としてもバンド・リーダーとしても名声を高めました。
1959年には『ミンガス Ah Um』を発表は、差別主義者の白人を徹底的に皮肉った「フォーバス知事の寓話」や、後にジョニ・ミッチェルやジェフ・ベックがカヴァーした「グッドバイ・ポーク・パイ・ハット」を収録したミンガスの代表作の一つです。
1962年に『オー・ヤー』を発表し、ベースを弾かずにヴォーカルとピアノを担当し、新たな一面を見せました。その後、ミンガス自身によるピアノ・ソロ作品『ミンガス・プレイズ・ピアノ』も発表。
ミンガスのバンドには、ジョン・ハンディ、エリック・ドルフィー、ローランド・カーク等の強者プレイヤーが出入りしてきたようです。1962年には、穐吉敏子も一時的に在籍していました。
1960年代後半は活動が停滞するが、1970年代に入ると再び活動が活発化。晩年は、筋萎縮性側索硬化症で車椅子生活となり、ベースを弾けなくなったが、作曲・編曲活動は死の直前まで続けていたようです。

ミンガスの音楽のほとんどはハード・バップの感触を持ち、ゴスペルの大きな影響を受けていました。時に、サード・ストリーム・ジャズやフリー・ジャズなどもスペイン音楽の要素を取り入れることもありました。
デューク・エリントンを敬愛しており、しばしばデュークの後継者とされる。デュークが1962年に制作した『マネー・ジャングル』に、マックス・ローチと共に参加しました。
自分のリーダー・アルバムでも、「ムード・インディゴ」「Cジャム・ブルース」といったデュークの曲を取り上げています。

リーダー・アルバムとして、Pithecanthropus Erectus (1956)、The Clown (1957)、Tijuana Moods (1957)、Blues & Roots (1959)、Mingus Ah Um (1959)
、Mingus Dynasty (1959)、Charles Mingus Presents Charles Mingus (1960)、Oh Yeah (1962)、The Black Saint and the Sinner Lady (1963)、Mingus Mingus Mingus Mingus Mingus (1963)Mingus Plays Piano (1964)、Revenge! The Legendary Paris Concert (1964)、Let My Children Hear Music (1971)、Mingus Moves (1973)、Mingus At Carnegie Hall (1974)、Changes One (1974)、Changes Two (1974)、Cumbia And Jazz Fusion (1977)、Three or Four Shades of Blues (1977)、Me Myself An Eye (1978)、Something Like A Bird(1978)
がある。

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