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 現在584本の映画のあくまで個人的な感想をアップさせていただいています。ラブコメ、ホラー、歴史映画が好きです【^_^】

キング・コング(ピーター・ジャクソン監督)

2008-01-15 | Weblog
ストーリー ;映画監督カール・デナムはハリウッドのプロデューサーたちに試写会を開いていたが、スポンサーを降りるという話になり急遽ベンチャー号に乗り込んでスカル島(骸骨島)に向けて出発。おりしも1929年ごろの大不況でニューヨークのエンターテイメント産業は衰退気味。コメディ役者をめざしていた女優アン・ダロウを急遽主役に起用して太平洋南西部付近を航海。そして突然、ベンチャー号は霧に包まれる…。舞台脚本家のジャック・ドリスコルも無理やり船に乗せて公開中に脚本を書き上げようとするが…。
出演;ナオミ・ワッツ、エイドリアン・ブロディ、ジャック・ブラック
コメント ;ハリウッドの伝統は船にのって「異郷」に出かける…だっただろうか。船の中で少年がニューヨーク市立図書館から借りてきたのはコンラッドの「闇の奥」。ちょうど「地獄の黙示録」で、マーロン・ブランドがカッツ大佐を演じていたときに映画の中で読んでいた本だ。映画の中で出てくる俳優などは実際の俳優たち。「モーリーンの4号の服」というのはモーリーン・オハラのことではあるまいか。そのほかにもジーン・ハーロウ、メイ・ウエスト、フェイ・レイといった女優の名前が飛び交い、船に乗り込むときには映画撮影機材について「ベル&ハウレル社製か?」と確認する場面も出てくる。南西部という場所を指し示す会話が出てきたがベンチャー号がシンガポールやラングーン付近を航海中という設定だったのでおそらく太平洋南西部のことをさしているのだろう。30メートル近い壁が周囲を覆っているという設定だがキング・コング自体は6メートルか7メートルという身長設定。だいぶシーンによって縮尺比率が合わない感じでそれがまず一番違和感がある。
「マニフェスト」「なんのことだ」「積荷明細だ」という会話や「no funny business」(大真面目さ)という表現会話が面白い。粗筋自体は統一感がなくて実はかなりフィルムをカットしたのではないか、という気もする。スマトラ島沖で救助した少年ジミーがなにゆえに傷だらけだったのか、という話の伏線については結局触れられることなく映画は終了。さらに冒頭ではかなりの不況だったが、帰還してみるとニューヨークはかなりのにぎわいだったりするのだが、「時間の経過」とか「どうやってキング・コングを太平洋南西部からニューヨークに連れてきたのか」といった疑問については何の説明もないまま。エンターテイメントであるがゆえにその辺はぼかさないで画面に見せてくれたらもっと面白かったのかもしれない。ナオミ・ワッツの美しさだけがはえる映画だが、しかし画面に展開するナオミ・ワッツのなんともいえない美しさは確かに「ザ・リング」などとはまったく違う女優の顔を見せてくれる…。ナオミ・ワッツがあまりにも印象すぎてエイドリアン・ブロディがかすむほど…「戦場のピアニスト」の人か…。

 暗い画面の中に「緑色」の瞳が輝くナオミ・ワッツがやはりキング・コングの数十倍美しい…。
 1930年代だとするといろいろな企業や銀行が映画産業に投資を開始していたころだ。おそらく試写会に並んでいた人たちはそうした投資家が投資をする産業としてのハリウッドの「シンボル」だったのだろう。
(「フィルムの残りは?」「あと5巻ある」)
 この当時のフィルム一巻は約10分から15分。残り5巻ということは50分から1時間15分程度だが、そんなに見ることもない…というのがスポンサーの気持ちだったのではないかと台詞から推測できる。
(セシル・B・デミル)
 すでに大監督の代名詞として用いられているセシル・B・デミル。すでに1915年には「チート」を撮影してグリフィスのむこうをはっている。そのほかに「十戒」(1923年)「キング・オブ・キングス」(1927年など)。
(フェイ・レイ)
「悲鳴の女王」とよばれるほどの女優。ナオミ・ワッツは実際にフェイ・レイにあったことがあるらしい。1932年作品の「猟奇島」など。映画の中で「クーパー監督の映画に出演中です」というまさにその映画こそが、オリジナルのメリアン・C・クーパー監督の「キング・コング」(1933年)。つまりやはり時代設定は金融恐慌の3~4年後という設定だったのだろう。
(ジーン・ハーロウ)
1911年生まれ。ノーブラで映画に出演したのはこのジーン・ハーロウが最初といわれている。「地獄の天使」など。
(メイ・ウェスト)
1892年生まれ。「ラ・ブロードウェイ」など。やはりB級映画に数多く出演している「ブロンド」。

おそらく…製作者あるいは監督などの一部には「ユング」を意識した部分がかなりあったのではなかろうか。「実在」するとは到底思えない「壁」にしきられた島というのが、まあ、ユング的な一種の「心の奥」「闇の奥」という見方をしていくと、
島→深層心理
アメリカ→ビジネス的な現実的心理
 といった2分構造でこの映画がきっぱり断ち切れてしまう(わかりやすくもあり、単調すぎる映画の見方でもあるけれど)。となると「キング・コング」は男性の中にある女性的なものではなかろうか、とか女性の一部にひそむ深層心理とかそうした見方もできるわけだが、すでにそうした議論はもうどこかでかなりされているのかもしれない。最終的には、エイドリアン・ブロディとナオミ・ワッツが抱き合うシーンはやっぱり必要で、それは統一された人格が完成した瞬間ともみることができるだろう。…で、その二人のはるか下にはキング・コングが飛行機から撃たれて落ちている、という非常にわかりやすい構図にはなる。
 ただそれでも「詰め込みすぎ」と思うのはジャック・ブラックという主人公のようでいて、結局主人公ではなかった存在だ。おそらくそうした単純な構図よりも「映画への想い」みたいなものをおそらく製作者はまた織り込みたかったのだろう。最後はジャック・ブラックがモノローグを語るわけだが、そうした立場ではエイドリアン・ブロディにあの有名な台詞を語らせるよりも、映画監督役のジャック・ブラックに語らせるほうが適切だ、と考えたのではなかろうか。そして見ている観客にはストーリーを飛び越えて、ナオミ・ワッツのイメージだけが増幅していくという結果に…。

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