同じく、黒岩氏の論文より引用させていただきます↓
http://npojpa.org/guuzentogaizen
NPO日本パラオ協会理事長 黒岩 徹
「興亜観音」は戦後東京裁判でA級戦犯として処刑された元陸軍大将松井石根が、対米英戦争が始まる約二年前の昭和15年2月に、伊豆山腹(現熱海市)に建立したものである。昭和12年8月からの支那事変で戦死した部下の将兵約2万3千人と相手支那軍の戦死者を、「怨親平等」精神の下、敵・味方等しく供養するためであった。現在は観音像に加え、「大東亜戦争戦没戦士菩提」(昭和十九年建立)、「大東亜戦争殉国刑死一〇六八霊位供養碑(BC級戦供養)」、「七士の碑(A級戦犯供養)」が建っている。 さてA級戦犯とされた七士は昭和23年12月23日――今上陛下(当時皇太子)のお誕生日――に処刑、遺体はその日に横浜久保山で火葬された。火葬が済むと米軍兵士は区別されていた七士の遺骨を無造作にかき混ぜ黒塗りの箱に一緒に入れて運び去った。 ところが黒塗りの箱に入れ残った遺骨遺灰骨壷約一杯分が、米兵の手でゴミのようにコンクリートの穴に捨てられたのを当時の飛田火葬場長が目撃していた。これを飛田場長から聞いた三文字正平氏(東京裁判の小磯国昭元首相弁護人)らは26日夜半、厳重な警戒網を潜っ
てその遺灰を回収し、取り敢えず近くのお寺に隠すことに成功した。 その後三文字氏は松井大将他七士の遺族らと相談し、翌年5月3日広田弘毅、東條・武藤両未亡人とともに興亜観音を訪れ、先代堂守伊丹忍礼師に「知り合いの方の遺骨だが時期が来るまで秘蔵しておいて欲しい」と申し出られた。伊丹師は一見して七士のものと直感、こころよく承諾された。そして独立回復後の昭和34年4月19日、吉田茂元総理の字で彫られた「七士の碑」が建立された。遺灰は今碑の下に埋葬されているが、実に飛田氏、三文字氏、伊丹忍礼夫妻のご偉業である。なお、松井大将のふるさと愛知県の幡豆郡三ケ根山にある「殉国七士之墓」は、三文字氏らの配慮により昭和35年8月に興亜観音から分骨して建てられたものである。以上には余話があり、これからが本文の趣旨である。 東京裁判の七士処刑の責任者ヘンリー・ウォーカー中将は朝鮮戦争では米軍司令官であった。七士の二年目の祥月命日である昭和25年12月23日、中将は第一戦視察の途中自ら運転していたジープの操縦を誤り事故死してしまった。周囲が七士の祟りと思ったのも無理はない。中将の副官は友軍の韓
国将校意見を入れ、興亜観音に七士の墓があると聞きお詣りに訪れた。話を聞かれた伊丹師は「怨親平等」と彼等を温かく迎え、ウォーカー大将(死後昇進)の霊を丁重に供養して差し上げた。 さて果たしてこれは偶然であろうか。
山下奉文陸軍大将(最終階級)は、大東亜開戦後短期間でシンガポールを攻略、「マレー の虎」の異名で知られたが、その後閑職。昭和十九年九月二十三日、第十四方面軍司令官としてフィリピン戦線へ赴くが、二十年九月三日フィリピンのバギオで降伏調印、マニラにおいて戦犯裁判にかけられ、マニラ大虐殺の汚名を着せられて、昭和二十一年二月二十三日極東軍事裁判BC級戦犯最初の絞首刑に処せられた。この日はアメリカ建国の父ジョージ・ワシントンの誕生日(時差で22日)であり、アメリカは山下将軍をこの日の祝賀行事の生贄に供したのであった。 次いで同年アメリカは、四月二十九日の昭和天皇ご誕生日を選んで、既に巣鴨プリズンに拘置中の戦犯容疑者の起訴状を極東国際軍事裁判所に提出した。以下は略すが前述のとおり約二年半後、次の皇帝陛下(当時皇太子殿下=今上陛下)のご誕生日である十二月二十三日に、A級と称した七士の処刑を行った。その巡り合わさる因果の一つが既に述べたウォーカー中将の事故死である。それから更に九年二ヵ月後、昭和三十五年二月二十三日、昭和天皇の次の次の皇帝陛下となられる親王(=徳仁皇太子殿下)がお
生まれになった。アメリカにとってこれは全く予期せざることであった。当時の日本国皇帝陛下のご誕生日の起訴状提出と皇太子殿下のご誕生日の処刑により、皇室の祝日を日本の呪われた日に変えようとするアメリカの醜い目論見は、七士に関しては処刑の二年後に既に見返りを受けて潰え去り、国際軍事裁判たる茶番の始まりの儀式たる山下将軍処刑劇もまた、十四年後のお世継ぎ親王殿下のご誕生により打ち砕かれ、浄められ、今やアメリカの呪いは何処にも無くなったのである。
http://npojpa.org/guuzentogaizen
NPO日本パラオ協会理事長 黒岩 徹
「興亜観音」は戦後東京裁判でA級戦犯として処刑された元陸軍大将松井石根が、対米英戦争が始まる約二年前の昭和15年2月に、伊豆山腹(現熱海市)に建立したものである。昭和12年8月からの支那事変で戦死した部下の将兵約2万3千人と相手支那軍の戦死者を、「怨親平等」精神の下、敵・味方等しく供養するためであった。現在は観音像に加え、「大東亜戦争戦没戦士菩提」(昭和十九年建立)、「大東亜戦争殉国刑死一〇六八霊位供養碑(BC級戦供養)」、「七士の碑(A級戦犯供養)」が建っている。 さてA級戦犯とされた七士は昭和23年12月23日――今上陛下(当時皇太子)のお誕生日――に処刑、遺体はその日に横浜久保山で火葬された。火葬が済むと米軍兵士は区別されていた七士の遺骨を無造作にかき混ぜ黒塗りの箱に一緒に入れて運び去った。 ところが黒塗りの箱に入れ残った遺骨遺灰骨壷約一杯分が、米兵の手でゴミのようにコンクリートの穴に捨てられたのを当時の飛田火葬場長が目撃していた。これを飛田場長から聞いた三文字正平氏(東京裁判の小磯国昭元首相弁護人)らは26日夜半、厳重な警戒網を潜っ
てその遺灰を回収し、取り敢えず近くのお寺に隠すことに成功した。 その後三文字氏は松井大将他七士の遺族らと相談し、翌年5月3日広田弘毅、東條・武藤両未亡人とともに興亜観音を訪れ、先代堂守伊丹忍礼師に「知り合いの方の遺骨だが時期が来るまで秘蔵しておいて欲しい」と申し出られた。伊丹師は一見して七士のものと直感、こころよく承諾された。そして独立回復後の昭和34年4月19日、吉田茂元総理の字で彫られた「七士の碑」が建立された。遺灰は今碑の下に埋葬されているが、実に飛田氏、三文字氏、伊丹忍礼夫妻のご偉業である。なお、松井大将のふるさと愛知県の幡豆郡三ケ根山にある「殉国七士之墓」は、三文字氏らの配慮により昭和35年8月に興亜観音から分骨して建てられたものである。以上には余話があり、これからが本文の趣旨である。 東京裁判の七士処刑の責任者ヘンリー・ウォーカー中将は朝鮮戦争では米軍司令官であった。七士の二年目の祥月命日である昭和25年12月23日、中将は第一戦視察の途中自ら運転していたジープの操縦を誤り事故死してしまった。周囲が七士の祟りと思ったのも無理はない。中将の副官は友軍の韓
国将校意見を入れ、興亜観音に七士の墓があると聞きお詣りに訪れた。話を聞かれた伊丹師は「怨親平等」と彼等を温かく迎え、ウォーカー大将(死後昇進)の霊を丁重に供養して差し上げた。 さて果たしてこれは偶然であろうか。
山下奉文陸軍大将(最終階級)は、大東亜開戦後短期間でシンガポールを攻略、「マレー の虎」の異名で知られたが、その後閑職。昭和十九年九月二十三日、第十四方面軍司令官としてフィリピン戦線へ赴くが、二十年九月三日フィリピンのバギオで降伏調印、マニラにおいて戦犯裁判にかけられ、マニラ大虐殺の汚名を着せられて、昭和二十一年二月二十三日極東軍事裁判BC級戦犯最初の絞首刑に処せられた。この日はアメリカ建国の父ジョージ・ワシントンの誕生日(時差で22日)であり、アメリカは山下将軍をこの日の祝賀行事の生贄に供したのであった。 次いで同年アメリカは、四月二十九日の昭和天皇ご誕生日を選んで、既に巣鴨プリズンに拘置中の戦犯容疑者の起訴状を極東国際軍事裁判所に提出した。以下は略すが前述のとおり約二年半後、次の皇帝陛下(当時皇太子殿下=今上陛下)のご誕生日である十二月二十三日に、A級と称した七士の処刑を行った。その巡り合わさる因果の一つが既に述べたウォーカー中将の事故死である。それから更に九年二ヵ月後、昭和三十五年二月二十三日、昭和天皇の次の次の皇帝陛下となられる親王(=徳仁皇太子殿下)がお
生まれになった。アメリカにとってこれは全く予期せざることであった。当時の日本国皇帝陛下のご誕生日の起訴状提出と皇太子殿下のご誕生日の処刑により、皇室の祝日を日本の呪われた日に変えようとするアメリカの醜い目論見は、七士に関しては処刑の二年後に既に見返りを受けて潰え去り、国際軍事裁判たる茶番の始まりの儀式たる山下将軍処刑劇もまた、十四年後のお世継ぎ親王殿下のご誕生により打ち砕かれ、浄められ、今やアメリカの呪いは何処にも無くなったのである。