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えすみの日記

ふつーの主婦ですが、日本の未来を真剣に考えたい!

東京裁判をめぐる因縁?

2011-02-23 10:02:59 | 日記
同じく、黒岩氏の論文より引用させていただきます↓

http://npojpa.org/guuzentogaizen

NPO日本パラオ協会理事長 黒岩 徹

「興亜観音」は戦後東京裁判でA級戦犯として処刑された元陸軍大将松井石根が、対米英戦争が始まる約二年前の昭和15年2月に、伊豆山腹(現熱海市)に建立したものである。昭和12年8月からの支那事変で戦死した部下の将兵約2万3千人と相手支那軍の戦死者を、「怨親平等」精神の下、敵・味方等しく供養するためであった。現在は観音像に加え、「大東亜戦争戦没戦士菩提」(昭和十九年建立)、「大東亜戦争殉国刑死一〇六八霊位供養碑(BC級戦供養)」、「七士の碑(A級戦犯供養)」が建っている。  さてA級戦犯とされた七士は昭和23年12月23日――今上陛下(当時皇太子)のお誕生日――に処刑、遺体はその日に横浜久保山で火葬された。火葬が済むと米軍兵士は区別されていた七士の遺骨を無造作にかき混ぜ黒塗りの箱に一緒に入れて運び去った。 ところが黒塗りの箱に入れ残った遺骨遺灰骨壷約一杯分が、米兵の手でゴミのようにコンクリートの穴に捨てられたのを当時の飛田火葬場長が目撃していた。これを飛田場長から聞いた三文字正平氏(東京裁判の小磯国昭元首相弁護人)らは26日夜半、厳重な警戒網を潜っ
てその遺灰を回収し、取り敢えず近くのお寺に隠すことに成功した。  その後三文字氏は松井大将他七士の遺族らと相談し、翌年5月3日広田弘毅、東條・武藤両未亡人とともに興亜観音を訪れ、先代堂守伊丹忍礼師に「知り合いの方の遺骨だが時期が来るまで秘蔵しておいて欲しい」と申し出られた。伊丹師は一見して七士のものと直感、こころよく承諾された。そして独立回復後の昭和34年4月19日、吉田茂元総理の字で彫られた「七士の碑」が建立された。遺灰は今碑の下に埋葬されているが、実に飛田氏、三文字氏、伊丹忍礼夫妻のご偉業である。なお、松井大将のふるさと愛知県の幡豆郡三ケ根山にある「殉国七士之墓」は、三文字氏らの配慮により昭和35年8月に興亜観音から分骨して建てられたものである。以上には余話があり、これからが本文の趣旨である。 東京裁判の七士処刑の責任者ヘンリー・ウォーカー中将は朝鮮戦争では米軍司令官であった。七士の二年目の祥月命日である昭和25年12月23日、中将は第一戦視察の途中自ら運転していたジープの操縦を誤り事故死してしまった。周囲が七士の祟りと思ったのも無理はない。中将の副官は友軍の韓
国将校意見を入れ、興亜観音に七士の墓があると聞きお詣りに訪れた。話を聞かれた伊丹師は「怨親平等」と彼等を温かく迎え、ウォーカー大将(死後昇進)の霊を丁重に供養して差し上げた。 さて果たしてこれは偶然であろうか。
山下奉文陸軍大将(最終階級)は、大東亜開戦後短期間でシンガポールを攻略、「マレー の虎」の異名で知られたが、その後閑職。昭和十九年九月二十三日、第十四方面軍司令官としてフィリピン戦線へ赴くが、二十年九月三日フィリピンのバギオで降伏調印、マニラにおいて戦犯裁判にかけられ、マニラ大虐殺の汚名を着せられて、昭和二十一年二月二十三日極東軍事裁判BC級戦犯最初の絞首刑に処せられた。この日はアメリカ建国の父ジョージ・ワシントンの誕生日(時差で22日)であり、アメリカは山下将軍をこの日の祝賀行事の生贄に供したのであった。  次いで同年アメリカは、四月二十九日の昭和天皇ご誕生日を選んで、既に巣鴨プリズンに拘置中の戦犯容疑者の起訴状を極東国際軍事裁判所に提出した。以下は略すが前述のとおり約二年半後、次の皇帝陛下(当時皇太子殿下=今上陛下)のご誕生日である十二月二十三日に、A級と称した七士の処刑を行った。その巡り合わさる因果の一つが既に述べたウォーカー中将の事故死である。それから更に九年二ヵ月後、昭和三十五年二月二十三日、昭和天皇の次の次の皇帝陛下となられる親王(=徳仁皇太子殿下)がお
生まれになった。アメリカにとってこれは全く予期せざることであった。当時の日本国皇帝陛下のご誕生日の起訴状提出と皇太子殿下のご誕生日の処刑により、皇室の祝日を日本の呪われた日に変えようとするアメリカの醜い目論見は、七士に関しては処刑の二年後に既に見返りを受けて潰え去り、国際軍事裁判たる茶番の始まりの儀式たる山下将軍処刑劇もまた、十四年後のお世継ぎ親王殿下のご誕生により打ち砕かれ、浄められ、今やアメリカの呪いは何処にも無くなったのである。                    

美智子皇后陛下と硫黄島訪問

2011-02-23 10:01:35 | 日記
皇室問題の本を読んでます。
その本の中に
美智子皇后陛下が硫黄島訪問によって、失語症からお言葉を取り戻したことを知りました。

詳しく知りたくて、ググッてみました。以下引用します。↓


http://npojpa.org/guuzentogaizen


NPO日本パラオ協会理事長 黒岩 徹

「文芸春秋」(八月号)には「慰霊の旅と失語症状回復の真実―――美智子皇后と硫黄島奇跡の祈り」(梯(かけはし)久美子(くみこ)氏)が掲載されている。「昭和の時代が生み出した大量の戦没者は、天皇家が背負う、いわば“負債”である。今上天皇は、その負債を昭和天皇から引き継いでいるという自覚がおありになる。」などと言う松崎敏弥(皇室ジャーナリスト)の言を無批判に引用していることが気になるが、それはここでは置いて、以下私見も交え当該文を要約する。 平成五年十月二十日、この朝五十九歳の誕生日を迎えられた美智子皇后陛下は、御所で公務身支度の最中に突然倒れ、以来言葉を失った。当時週刊誌等では、“宮内庁職員を自称する匿名の筆者”が『天皇皇后両陛下の私生活が、昭和天皇の頃と比較して快楽主義的である』とした批判を繰り広げ、『原因は皇后陛下のお力が増大してしまったこと』だと述べていた。皇后陛下は誕生日を迎えるに当たり、これらバッシングに関し、宮内記者会の質問に次のような文書で回答を寄せていた。これを読むと、皇后陛下が如何にご心労を重ねたかが分かり、医師の診断「心因性の失語状態」
も解る。
「どのような批判も、自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います。今までに私の配慮が充分でなかったり、どのようなことでも、私の言葉が人を傷つけておりましたら、許していただきたいと思います。しかし、事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます。批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であって欲しくはありません。(以下略)」  皇后陛下はしかし、文字は書け、声も出せる、ただ音声として言葉を発することが出来ない状態の中で、ご自身の強い希望で公務を続けられた。そして翌平成六年二月天皇皇后両陛下は慰霊のために硫黄島を訪れることになった。小笠原諸島の南端のこの島は、その名の通り硫黄の蒸気が噴出す火山島であり、川は一本も無い。昭和二十年二月、島に迫った米軍は五日で落とすと見積もったが、二万余の将兵率いる栗林忠道中将(死後大将)は、島じゅうに地下壕を掘らせ、全員が地下にもぐり徹底抗戦する戦法を採った。日本兵は地熱と渇きに苦しみながら、米軍の地下壕封鎖作戦等に対抗、三十六日間の持久戦の末三月玉砕した。今も地下壕に閉じ込められたまま一万
三千柱が眠っている。  さて六年二月十二日午後一時前、両陛下は航空自衛隊のC1輸送機で硫黄島入りした。約二時間、国が建立した「天山慰霊碑」、東京都が建立した「鎮魂の丘」等での慰霊を終え、帰国する直前、基地庁舎の中で、皇后陛下は、東京都遺族連合会の石井金守会長に「ご遺族の方たちは、みなさん元気でお過ごしですか」とお言葉を述べられた。同席した硫黄島協会の遠藤善義会長も聞いている。実に約4ヶ月ぶりの皇后陛下の音声会話であった。これに関し、当時の宮内庁発表では、「お言葉が出たのは硫黄島訪問の翌日十三日、小笠原諸島父島で、地元子供たちのアオウミガメ放流の際に『あれが私の放したカメ』と放しかけた子供に『次の波が来るとカメは海に帰るのね』と答えられた。」ことになっている。また新聞でもそう報じられた。 我々がこれに対し言えることは「硫黄島英霊が皇后陛下のお言葉をお戻しになられた」ということだけである。そして以上の事実を著した梯氏には敬意を表する。それに引替え、宮内庁は昔も今も何を考えているのか。 我々はこの様な話をいくつも聞いている。このようなことは果たして「偶然」と片付けてよ
いのだろうか。英霊のご加護やお気持ちを思うとき、そこには「蓋然」があるのではなかろうか。それが私の疑問であり、本文の趣旨である。

青山繁治さん

2011-02-23 09:02:48 | 日記
青山繁治さん。

大腸ガンだったそうですね。

知らなかった。

つい先日手術したと
彼のブログにかいてありました。

死ぬ覚悟はできていると。

ただ、2つばかりやりかけの仕事がある、それをちゃんとしないままでは、心残りであると。

手術前にブログでそう告白してました。

昨年、マイ日本の講演会で青山さんのお話を聞いて、ひきこまれすっかりファンになりました。

彼のお話は心をゆさぶられるんです。

気がつくと涙があふれてました。

周りのお客さんたちもみーんな、ハンカチで目をふいてました。男性も。

心をうたれた硫黄島(いおうじまではなくいおうとう)のお話を聞いてから、

毎朝、
南の方角(硫黄島の方)の窓辺に向かって
お水をお供えし、
英霊に感謝するのが、日課になりました。

話を青山さんに戻すと

青山さんの手術は成功したそうです。幸い転移もなかったと。

よかった…

青山さんはいつでも死ぬ覚悟はできていても、

やはり、彼にはまだ死んでほしくない。

命をけずるように、
日本のために奮闘している姿は,幕末の志士たちと重なって見えます。

感謝とともに、青山さんのように日本のために私ができることを
やっていこうと思います。