平成23年の元旦は風もなく太陽がまばゆいほどの日を迎えることができた。朝目覚められたことに感謝する次第である。一月一日は今年をどのように過ごすかの計画を立てることが大事だと考えた。人それぞれに生き方があり、どのように今年を過ごすのかを書くのはいかがなものかとも考えた。あくまでも参考程度と思っていただきたい。今年はより強い心をつくることを目標とした。いろいろな視点から自己の心を見直し、自己の価値基準を確立していくことだとした。この自己の価値基準は、人が生きる真理を目標とするものである。人が生きる真理とは何かつかめていないが、この世に生まれるときに神から与えられた使命のことだと思う。この使命を果たすための価値基準を創り、少しずつ実行することだと解釈した。皆様のご多幸を祈る次第である。
最近のテレビ番組は、食べること、着ること、おしゃれをすることが中心となっている。それも現実世界と遊離した娯楽番組が多すぎる。日本国内で取材したもの、日本的考えで作られたものが多い。世界の生活状況を反映したものが少ない。何か偏った見方による番組のようにも思われる。最近ラジオを聴くようになった。世界の生活状況を電話を使って現地に住む人に報告してもらたり、現地に住む日本人の生活状況や地域住民の生活状況を現地に住む日本人や外国人が録音したものを伝える番組などがある。また、ある生活テーマを出し、世界に住む人びとからのメールを受付、それを報告するなどのものもある。これらの番組を聴くことによって、世界の人びとの生活感覚を知ることができる。テレビ番組では知りえない世界の常識を知ることができる。何か日本人は、日本国内の狭い常識にとらわれているようである。もう少し世界の常識を知ろうとする意識をもって欲しいと思う。ラジオ視聴者は意外に多いことである。これからはラジオ番組のリスナーになろうと考えている。
平成22年度も今日で終わりである。一年を振替ってみれば、いろいろなことがあったが、解決できないような問題は起こらなかった。比較的安定した一年間であった。日々の場面では困ったことが起きたと考えたが、結果をみれば困ったことなど何も起こっていない。すべて解決できる問題しか起こっていないのである。短い時間で物事をとらえると困った問題だと考えてしまう。しかし、長い時間でとらえれば解決できない問題は起きていない。心というものはいかに物事を客観的に判断できないかがわかる。楽しいと感じている時間は短く、不快なことは長く感じる。心は気ままなのである。物事を客観的にとらえられるように時間軸を長くして考えるようにすることと思う。
運と不運は未来からやってくる。運が良いと思っても、次に何が来るのかはわからない。不運のこともあるし、幸運が来ることもある。幸運も続けてくることもあるし、不運が続けてくることもある。何が未来からくるかは感知できない。いろいろなことが降りかかってくるが、良いほうにとらえるか、悪いほうにとらえるかはその人の心の持ち方次第である。また、降りかかってくる問題は、その人が解決できる問題ばかりである。生きている限り問題は起こる。問題が何もおきなくなったときは、死ぬ前の状態といってもよい。外に出て季節の移り変わりの変化を感じ取ってみるとよい。冬でも雑草は生きている。枯れ草の下で葉を出している。今の季節は椿の花が咲き、シンビジュウムの花が咲いている。広葉樹は葉を落としたが、春に向かって木の芽が少しずつ大きくなっている。こうした季節の変化を体全身で感じ取ることをすることによって、運の波動を感じとることができるようになると思う。いろいろな変化に対して平静に対応のできる心をつくっていくことが大事なことだと考える。降りかかってくる問題は、その人が解決できることばかりなのだから、心を悩ませることはない。
人間誰しも完全な人はいない。生きているかぎり悩みのない人はいない。視覚・聴覚から入ってくる外部情報に惑わされて悩むことはない。人が持っている感覚を使って総合的に判断することである。人と交われば気に入らないことが起こるのは当たり前のことなのだと考えることである。他の人と考え方が違うのは当然なのだと思うことである。自分の思うようにならないからといって悩むことはない。心を一点に固執させれば悩みとなる。心を自由にすることである。後でじっくりと考えて判断することである。
自分の好きなことをするのが人生だと思う。何も好きでもないことを生活のためだと理由をつけてするべきではないと考える。自分の思うとおりに生きることが最善なのである。他の人のために生きているのではない。自分の幸せのために生きることだと考える。自分が幸せにならなければ、他の人を幸せにすることなんかできない。いろいろな教えがあるが、参考程度にしよう。
好きこそものの上手なれ、という格言は本当のことで、人は好きだからこそ辛抱強く、根気よく、物事を一つ一つ階段を追って達成できるのだと思う。それが誤って才能と呼ばれるのかもしれない。誰もが最も好むものを見つけだし、それに思いきり深入りしてみようではないか。
他の人と同じことをしていれば、浅く生きてしまう。自分のできることを一つ一つすることである。あとは天に任せて待つことだと思う。
人はどのようなときに生きがいを感じるのでしょうか。仕事に対してはどうなのでしょうか。努力をしてその効果が上がり、それを人に認められたとき。自分のしたことが社会に明らかに役立ち、人びとに感謝されたとき。ある社会の中で自己の存在が認められ、それ相応の尊敬を受けたとき。あるいは自分の発明や思いつきが大成功して、充分な収入に恵まれたとき。確かに成功というものも生きがいのうちに入るでしょう。しかし、成功は失敗と裏腹の関係にあります。成功にのみ生きがいを置こうとすれば、失意のうちに生きがいのすべてを失うことにもなりかねません。仕事に生きがいを見出すためには、功不功を度外視して、本当にこれこそがやりがいのある仕事だということを見つけださなければならないと思います。ただし、それを見つけるのはいつの時代においても難しいことです。
長い人生を生きていくうちには、いろいろなことがあります。過ちもあるだろうし、人に知られたくないこともあります。また、古傷になっていることもあります。人のそういったものを、いちいち取り上げることをしない方がいいと思います。犯罪はいけませんが、不完全な人間です。試行錯誤しながら生きています。それぞれが反省したり、顔を赤くすることもあるでしょう。そういうことを、掘り返したり、蒸し返したりすれば、誰にとっても、あまり気持ちのいいことではないと思います。お互いに、そういうことにはふれずに生きるのが賢明ではないでしょうか。人のあらを探せば、相手もこちらのあらを探すことになるでしょう。そうすれば、いやなこと、思い出したくないことも、思い出すことになります。夫婦生活では特に過去にふれないことです。
最近、こんな話をされた派遣社員がおられました。「来週の月曜日で派遣契約が切れます。来週でもうこの職場を離れます。お知らせします。」ということであった。廊下ですれ違うときに話された。本人の表情からは、まだ続けたいというように思われた。以前にも社内メールで突然「今日で退職します」というメールを派遣社員から頂戴したことがあった。そのとき、仕事ができるようになったのに何故退職するのだろうと思った。本人の都合だろうと思い余り気にすることはなかった。しかし、メールのときも「派遣期間が切れるので」という言葉が記されていることを思い出した。
派遣社員の期間を調べてみるとこのようなことが書かれていた。
「物の製造業務の受入は1年のみでしたが、平成19年3月より最長3年へ延長されました。それ以上同じ職場で勤務するには派遣先が正社員への登用をする義務がでてきます。そのためその期間で契約満了となるケースが多いのです。あなたがどんなにその仕事や職場を気に入って気の合う仲間ができ、仕事も慣れてスムーズにこなせるようになり、もっと長く勤めたいと思っても契約満了という日が訪れます。これは派遣社員にとっての宿命でもあります。」
派遣社員がもっと勤めたいとしても続けられない仕組みになっていることがわかりました。派遣依頼元は人件費を抑えたいという目的から派遣社員を使います。そのため正社員への道はほとんどありえないといってもいいでしょう。派遣元がその人をそのまま派遣社員として継続することを希望したとしても、この仕組みがあるため、他の新しい派遣社員を受け入れることになるのです。派遣社員は何時までたっても一定の職業における自己啓発ができないようになっているように思われます。一度その職場を離れたら、同じような仕事に就けるという保証はないからです。この仕組みは、派遣依頼元、派遣社員双方にとって不幸なことだといえましょう。