寒念仏供養(仏陀院 栗崎町1685-1)
元禄6年(1693)とある、寒念仏供養塔です。裏に彫られた奉納者名には苗字がありますので、武士の集まりだったのかもしれません。ただし、復元されたものだそうです。「大津絵の筆の初(はじめ)や寒念仏(かんねぶつ)」という句があるそうですが、鬼が鉦をたたいている、有名な大津絵のことをよんだのでしょう。水戸市内を見て回っていて、元禄時代の石碑は、すでにほとんどがなくなっているようです。こうした民間の文化財は、石だけに長持ちするだろうと放置されているようです。貴重なもの、珍しいものは、行政で指定して何らかの形で保存する必要があるような気がします。
高湯山大権現(薬王院 元吉田町682)
墓地入口にある地蔵堂の脇にある文化12年(1815)に建てられた石碑のようです。栃木県と福島県の境にある那須岳にある高湯山(たかゆさん)という霊場と、その周辺にある月山(茶臼岳)、毘沙門(朝日岳)に参拝した信仰碑のようです。
厄除地蔵大菩薩(神崎寺 天王町8-17)
嘉永2年(1849)に建てられた石碑のようです。上部は丸くなっていて、ほとんど見えませんが、周囲に24体の地蔵が刻まれ、中央に地蔵をあらわす「カ」という梵字があり、それらの中間に地蔵の真言が梵字で刻まれているようです。現世利益を願った碑のように見えます。
南無妙法蓮華経帝釈天王(熱田神社 吉沢町)
帝釈天(たいしゃくてん)が法華経行者の守護神とされたそうですので、そうした人か、その関係者によって建てられたのでしょうか。「寛政12年(1800)庚申十月庚申日」とありますので、庚申講と深い関係があるのでしょう。建てられた場所が神社というのは、神仏混淆だった時代が長かったことをあらわしているのでしょう。
奉読誦妙法蓮華経千部供養塔(不動明神 下大野町2040-1)
正面は快弁という人の墓石(寛政7年(1795))になっていますが、裏はその快弁が法華経千部を読経したという碑になっています。初め快弁が法華経千部読誦したという石碑が建てられて、死後にその碑が本人の墓石に使われたということのように思えます。常澄村史にもありませんので、私の勝手な想像です。
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