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水戸の見て歩き

水戸の辞世句(2)

2021-12-26 18:10:09 | 水戸

小野言員(ときかず) 1655
 法(のり)の風に み(身)のう(浮と憂を掛ける)き雲の きえぬれば こころの月は えかけす(澄)むかな
 徳川光圀若い時期のそうとうひどい反抗期に、小野諌草(いさめぐさ)という諌め書きをしるしたという、小野の辞世です。私には妙雲寺にある墓誌(写真)が上のように読めるのですが、「茨城県のルーツ」には「法の風身の浮き雲のさえぬればこころの月はそらかすむかな」とあります。「えかけ」は文法的には変ですが、「(月が)欠けないで」という意味のようにも思われますが自信はありません。写真は妙雲寺にある小野の墓誌ですが、分かる人がいたら教えて下さい。

 

村上吉子  正徳2年(1712)
 又も来む 人をみちびく えにしあらば 八(四苦八苦の八)の苦しみ たえまなくとも
 左近局(さこんのつぼね)といわれ、光圀の妻・泰姫に従ってきた侍女だそうですが、泰姫死後も奥向きを取りしきり、光圀死去の際には、枕頭で看取った唯一の女性だそうです。歌のような一生が送りたいものです。

 

観海 安永2年(1772)
 月毎に作りし法(のり)も雪の空 又来る春に花と咲なん
 谷田に羅漢寺いう大寺を、建築末期の全焼を乗り越えて再建させた木喰僧だそうです。

 

遅月 文化9年(1812)
 身もかくと 思へば寒し 散る桜
  神崎寺、飯富竜光院、田野不動院などに住んだ、多才な俳僧で、立原翠軒など水戸の多くの人士と交流があったそうです。神崎寺には、分骨した立原翠軒による瘞蔵碑(えいぞうひ)があります。

 

黒沢とき  明治23年(1890)
  八十あまり 五つの年も こるゆぎの(越えるとゆるぎを掛ける) 急がぬ老(おい)の 旅は静けし
  徳川斉昭の安政の、大獄による謹慎処分の無実を訴えて京都にのぼり、献上歌を持参したものの、中追放処分となり、明治維新後は、日本で初めての女性小学校教師になった人だそうです。

水戸の辞世句(1)


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