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水戸・六地蔵寺住職・恵範のゆかり

2019-10-12 13:41:15 | 水戸

 

 六地蔵寺の中興第3世といわれる学僧・恵範(えはん)は、寛正3年(かんしょう 1462)の生まれと推定され、六地蔵寺の過去帳に出生時に恵範を取り上げた女性の名があるので、地元の出身だろうといわれているようです。写真は六地蔵寺境内にある古墳の中腹に置かれた「恵範大徳供養塔」です。

 

 

 17歳のとき、六地蔵寺(当時は六蔵寺といっていたそうです)で、師の宥実(ゆうじつ)による受戒をうけて僧となり、26歳頃から伊予の安養寺、讃岐の聖通寺、奈良の東大寺、近江の三井寺、根来等で学んだり、資料の書写を行ったりしたそうです。写真は国指定の文化財に指定されている、恵範の名前が書かれた、根来塗りの盥(たらい)の裏だそうです。

 

 30歳の頃いったん水戸に戻り、38歳まで六地蔵寺や、仏陀院(栗崎町1685-1)にもいたそうです。写真は仏陀院にある「六地蔵寺中興第三世恵範大徳隠化之地」と記された碑です。

 

 39歳のとき、山城の醍醐寺へ行き、翌年戻ったそうです。今に残された写本のほとんどがこの時期のものだそうです。写真は資料等を運んできた牛が寺に着くと力尽きて死んだので、それを供養して建てた牛塚だそうです。道向かいの駐車場にあります。

 

 44歳(永正2年(1505))のときに六地蔵寺の住職なったそうです。写真は吉沼町にある、現在の極楽橋と、極楽橋跡の石碑です。恵範が極楽橋を再建させるために書いた勧進疏(かんじんそ 寄付を募る書)があるそうです。(恵範は徳川時代以前の人なので、リンクしてある極楽橋伝説は、後世に作られたもののようです) 恵範による布教の対象の多くは庶民層だったそうで、太鼓念仏を布教手段としたらしいという文章もあります。
 62歳以降に著述のほとんどがなされたそうで、壮年期の勉学と資料収集が晩年になって実ったということなのでしょう。穴の中で著述等にふけったそうで、晩年は、土龍(どりゅう もぐらのこと)と号したそうです。

 

 

 76歳(天文6(てんぶん 1537))で死去したそうですが、墓はわからないそうです。写真は晩年の天文2年(1533)に恵範が恵潤に授けた印可状(真言密教の奥義を師から弟子に相承したことを証する書)だそうです。

 恵範没後、徳川光圀は、伝えられた資料を修理したり副本をとったりして、保管する法宝蔵を建てたそうです。現在は新法宝蔵に保管されているそうで、「六地蔵寺所蔵典籍・文書(もんじょ)」といわれる典籍892部1975冊と文書407点は、県の文化財に指定されているそうです。

 年齢と年号に1年の誤差があったり、資料によって年号が違いますので、どこかがおかしいのでしょうが、私にはよく分かりませんのでご注意ください。年齢の方は恵範自身が資料に記しているそうで、多くは確かなようです。

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