天保期の地図
6代前の市毛貞時の時に宝鏡院門前へ分家したそうです。写真の天保期地図には市毛嘉七とあり、貞時の次の5代前の易脩(嘉七)の名のようです。川岸通りの南側で、今の常陸山像の付近のように見えます。ここで常陸山は生まれたそうです。地図の上部は那珂川、中央が宝鏡院(城東1-11-19)です。
海保振君之墓(酒門共有墓地 酒門町330) 文並びに書 酒門 海保帆平の子
振は、海保帆平(かいほはんぺい)という、斉昭に仕えた剣豪の息子で、100石の父の禄を継いだそうです。常陸山は子供の頃遊んだ仲間のようで、墓の3面に彫られた文も書も常陸山のものだそうです。「嗚呼、君をして藩国の時に在らしめば、屹として豊禄の人となること、必せり。惜しいかな。予、初め角觝(かどてい)に入るは、君が之を慫慂せしに因る」(あなたが幕藩の時代に生きたら必ず禄高の高い人となっていただろう、ああ惜しいことだ、私が相撲界に入ったのはあなたがすすめたからである)などとあります。明治44年とあります。
追善と就任興行(現・水戸京成ホテルの地 三の丸1-4-73)
常陸山は、大正4年に断髪式をおこない、年寄・出羽ノ海を襲名して土俵から引退しそうです。そして大正5年に、水戸市役所建設予定地だった今の京成ホテルのある地で、師匠だった先代出羽ノ海の追善と、自身が大相撲の取締に就任した記念の披露興行を行ったそうです。
厄除け大相撲
大正8年に南町有志が勧進元になって、常陸山の肝いりで、前年にあった水戸大火の厄除け大相撲が行われたそうです。場所は、明治時代に黒羽根町にあった料理屋・先春亭跡だそうで、今の木村屋本店、八百徳の裏手にかつてあったというサントピアビルのうしろあたりだそうです。写真の駐車場あたりが、サントピアがあった地のようです。
火の見跡
泉町会館(ワインオクロック 泉町2-3-17)は、かつて消防団の詰所とポンプ置き場で、その裏手(写真左方)に鉄製の火の見が大正10年に建てられたそうです。それは常陸山が寄贈したものだそうですが、戦時中の金属回収令でなくなったそうです。このように地元にいろいろ尽くしてくれた人たちのことは、長く言い伝えられていくように、もっと考えるべきではないでしょうか。