ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の酒の話(9)

2019-08-14 21:37:02 | 水戸
小野諌草
 水戸光圀のお守り役だった小野角右衛門が反抗期の光圀に送ったいさめの書を、小野諌草(いさめぐさ)というそうですが、その中に[物をもてあそべば、それを愛しすぎ、好むところに溺れて、万事を忘れて、それに心ざしをとられて、失うなり。]として、「酒、茶、碁、将棋」などを並べていますが、その第一番は酒になっています。写真は妙雲寺にある小野の墓です。
 
 
藤田東湖の手紙  天保8年(1837)8月18日
 「朝酒についてはご意見をいただいていましたが、ここ二三年、朝酒はやめて、とくに三月からは絶杯、母らが苦労するので、六月からは月に二三回一人飲みをして気力を補っています。この点はちょっと自負しています。」と吉成又右衛門にあてて、あまりよくわからない手紙を書いています。写真は常磐共同墓地にある東湖の墓です。
 
 
千波湖
 これは去年の写真ですが、千波湖西岸で行われた水戸藩伝統工芸祭で見た、樽屋さんの展示にあった、スギで作られた徳利と杯です。さぞかしよい香りがすることでしょう。
 
 
徳川頼房の大杯
 寛政7年(1795)に水軍の観船式が江戸で行われ、将軍・徳川家光が頼房たちを自分の船に呼び、三献の祝宴後の無礼講では、大杯でそれぞれに酒を与えたそうです。頼房もそれを一気飲みして舞をまったそうです。翌日心配した家光が使いを水戸邸に使わしたそうですが、頼房は直ちに登城して、昨日の酒宴を語り合ったそうです。写真は水戸三高前あたりにある頼房の像です。
 
 
出羽海虎吉
 常陸山の師匠であった出羽海虎吉は、下市・肴町の五十嵐という洗濯屋の息子だったそうです。貧乏だったこともあるようで、どぶろくしか飲まなかったそうですが、あだ名がどぶ虎という酒豪だったそうです。酒に目がなくて、一升でどうかと言われると、勝負を譲ることもあったという話が伝わるほどよく飲んだそうです。写真は本町にある旧・肴町の石碑です。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする