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水戸黄門・光圀に渡された諌言

2019-08-10 21:36:44 | 水戸
 
 徳川光圀は十代に、そうとうひどい反抗期を送っていたようです。光圀のお守り役(傅(ふ))であった小野角右衛門言員(ときかず)が、たぶんそうとうの覚悟をもって、「おそれなから言上」で始まる「小野諌草(いさめぐさ)」という諌言(かんげん)の書を、16章にまとめて書いたそうです。それを残したのは、彰考館総裁だった立原翠軒だそうです。
 
 
 まずその一には、「脇差しを前に出して、両手をふって歩いたり、人に会って礼をするときの様子は、はすっぱ者か歌舞伎者であり、水戸藩の後継者には見えない。行く末など笑止千万だ。周囲に意見をいう者がいないのだろうと旗本衆が言っていたと知らされた。」といったことが書かれています。
 
 
 三味線を弾く、木綿の布を派手に染めてビロードの襟をつける、ぞうりとりや馬屋にいる人たちとつきあう、色好みの話をするなどといった事が小野の耳に入っていたようです。
 
 
 光圀を「御まへ様」とよび、「御手を御ふりあわセ」などと書いて、ほとんどの単語に、「御」の字がつけられ、水戸藩の後継者に対する敬意を表しています。
 
 
 父の頼房も心配していたようですが、「(小野が)そばで聞いていても涙が流れるような頼房の意見に対して、わずかほども行うことはなかった」そうです。そうしたこともあるのでしょう、父親に対する孝行が強調されています。
 
 
 「知恵があり、りこうなので、そうした反抗行為は悔いなくしてはできないだろう」と理解もしつつも、「御前へ様(おまえさま)御身を御たゞしく(正しく)御もち(持ち)、御ぎやうぎ(行儀)よろつ(万)の御さほう(作法)御じんたう(仁道)になされ、御おとゝ(弟)様たちの御かゞミ(鏡)に御なり」といさめています。そして水戸藩の人たちが「御まへ様」次第で「やミ(闇)にまよひ(迷い)申候」とも記しています。
 
 
 最後の十六には「申し上げたことは自分の知恵ではなく、名大将の言葉や、世間でのうわさをありのままに書いたのであり、もし偽りがあったら自分は三悪道に沈むであろう」としめくくっています。
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